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第58話 「規格外の生体」

深層第八層、巨大な空洞。

 イエヤスはしゃがみ込んだまま、目の前で気を失った少女の顔を見下ろしていた。


 レッカ。

 神代烈火(かみしろれっか)

 親父の名前を、この人間ではない少女は呼んだ。


「イエヤス」

 早瀬凛(はやせりん)の声が静寂を破った。怒気はもうなかった。代わりに、切迫したプロフェッショナルとしての冷静さがあった。


「管理局に連絡する。彩さんに」

「ああ。背負って地上に運ぶ。医務室だ」


 イエヤスは黒ツルハシ(くろつるはし)を凛に預け、少女を背負った。

 あまりにも軽かった。長い耳がイエヤスの首筋に触れる。人間の肌とは違う、少しだけ冷たい温度。


 凛は通信機を起動し、管理局の緊急回線を開いた。

「こちら早瀬。二度目の報告。深層第八層にて身元不明の要救助者を発見。……人間ではない可能性。意識なし。イエヤスが搬送中。藤村管理官に直接繋いで」


 数秒の保留音の後、藤村彩(ふじむらあや)の声が響いた。すでに臨戦態勢に入っている、硬質な声だった。

『凛、状況を』

「核晶の裏手に亀裂が発生。そこから長耳の少女が出現しました。意識喪失の直前に一言——」

 凛は一瞬だけ言葉を切った。氷室刃(ひむろじん)のことが脳裏をよぎったからだ。

「——"レッカ"と」


 通信の向こうの沈黙が、半秒だけ長かった。

『……医務室を最高警戒で準備する。二人とも、気をつけて戻りなさい。——凛』

「はい」

『無許可降下の件は、帰ってから話します』


 声は極めて冷静だった。だが「話します」の四文字に含まれた重圧は、深層の魔力濃度より遥かに重かった。

 凛は覚悟を決めて唇を引き結んだ。

「……了解です」

 通信が切れた。



          ◇◇◇



 深層から中層への接続路を上っている途中で、前方に人影があった。

 氷室刃だった。


 通路の中央に立ち、腕を組んでいる。巡回中に下層からの空気の異変を察知し、ここまで降りてきたのだろう。

 イエヤスの背中の少女を見て、刃の目が鋭く細められた。

 長い耳。人間ではない容姿。


「……何があった」

「核晶の裏に亀裂ができてた。そこから出てきた。意識を失う前に、"レッカ"って言った」

 イエヤスは足を止めずに言い、刃の横を通り過ぎた。


 刃の足が、ピタリと止まった。


 レッカ。

 その名前を、刃は十五年間背負ってきた。父であり、自分と母を置いて消えた男。刃が今でも処理しきれない感情の根源。

 それを、この見知らぬ少女が呼んだ。


 刃は振り返り、イエヤスの背に負われた少女を射抜くように見つめた。汚れた銀髪。長い耳。

 どこから来た。なぜあの男の名を知っている。

 問いは喉元まで上がったが、声には出さなかった。今は搬送が優先だ。右手が無意識に、ポケットの中にある紫色の魔鉱石を強く握りしめていた。


 刃は無言でイエヤスの三歩後ろについた。凛が先頭、イエヤスが中央、刃が最後尾。

 言葉のない隊列が、地上を目指して坑道を上っていく。



          ◇◇◇



 管理局地上棟・医務室。午前九時四十七分。


 イエヤスが少女を背負って到着した時、彩はすでにそこにいた。医療スタッフが即座にバイタルの計測を始める。

「体温三十五・二度。人間の標準より低いです。血圧も低いですが……身体の基礎スペックが全く違います」


 彩はベッドの脇に立ち、少女の顔を見下ろした。

 銀に近い金の髪。汚れた肌の下の人間離れした白さ。そして、長い耳。

 彩の表情はピクリとも動かなかった。管理官として、未知の事態に対し私情を完全に遮断している。


 彩はベッドから顔を上げ、イエヤスと凛を冷徹な目で見据えた。

「二人とも、怪我は?」

「ないっす」

「ありません」

「そう。——では」


 彩の声の温度が、明確に一段下がった。


「深層第八層への無許可降下について。管理局運用規定第十二条、深層エリアへの進入には管理官の事前承認が必要。これは二級探索者であっても例外ではないわ」


 イエヤスが口を開きかけた。

「音が消えかかってて——」

「分かってる。早瀬さんからの通信で状況は把握したわ。結果として要救助者を発見し、命を救った。それは事実ね」


 彩は手元のバインダーから視線を上げ、イエヤスを真っ直ぐに射抜いた。


「でも、結果が良かったから規定違反が許されるわけじゃない。次に同じ判断をした時、助かるとは限らないわ。二人とも、始末書を提出しなさい。明日の朝まで」


「了解です」

 凛が即座に答えた。腹を括っていた顔だ。

「……うす」

 イエヤスも頷いた。反省しているかどうかは怪しいが、この場の彩に逆らう愚は犯さなかった。


 彩は二人から視線を外し、医務室の全員に向き直った。

「——では、本題に入りましょう。雪平さん、分析を」


 医務室のドアが勢いよく開いた。

 雪平(ゆきひら)つむぎが、端末を抱えて駆け込んできた。

「管理官、緊急回線の通信を傍受しました。——"人間ではない"という報告は……」


 つむぎの目がベッドの少女を捉え、息を呑んだ。眼鏡の奥の瞳が、驚愕と知的好奇心で激しく揺れる。

「……本当、だったんですね」


「雪平さん。あなたの専門知識が必要よ。落ち着いて」

 彩の声で我に返ったつむぎは、深呼吸を一つして端末を操作し始めた。

「生体スキャンをかけます。既存のデータベースに該当種族があるか照合します」


 一分後、つむぎが顔を上げた。

「該当なし、です。管理局のデータベースに、この生体パターンに一致する種族の記録はゼロ。骨密度、筋繊維構造、全項目で人間の基準値から逸脱しています。特に、魔力親和率が——」


 つむぎが端末の画面を彩に向けた。

「人間の平均値の、約十二倍です」

 医務室が静まり返った。


「十二倍?」彩が眉を動かした。

「はい。核晶修復時に計測したイエヤスさんの魔力共鳴値が約三倍ですから、その四倍。文字通り、桁が違います」


 イエヤスは壁に背を預けて立っていた。

 刃は医務室の入口のドアの枠に肩を預け、腕を組んでベッドの少女を見ている。その目は氷のように冷たく、一点を凝視していた。


 そこへ、伊吹(いぶき)あかりが廊下を走ってきた。

 医務室の入口で刃の背中を見つけ、中を覗き込み、ベッドの少女を見て絶句した。

「……刃さん。あの子——」

「黙って見ていろ」

 刃の声は低かった。あかりは口を閉じ、刃の隣に立った。カメラを持ってこなかった自分に、あかりは少しだけ安堵していた。今この場面を「消費」してはいけないと、記録者としての本能が告げていた。


 彩が全員に指示を出した。

「この件は管理局の最高機密扱い。外部への情報漏洩は一切禁止よ。雪平さんは引き続きデータの分析を。凛は現場の亀裂について詳細報告書を作成しなさい。イエヤス」


 彩はイエヤスを見た。

「音が聴こえたと言ったわね。今も聴こえる?」

「消えた。あの亀裂の光が消えた時に、一緒に」

「了解。亀裂の再調査は明日以降、安全を確認してから行います。それまで深層第八層への単独進入は禁止。……これ以上の独断専行はないと信じていいわね?」

「……うす」


 彩の視線が入口に移った。

「氷室くん。第八層の亀裂周辺の警備を、明日から担当してもらうわ」

「……了解」

 刃の返答は短かった。


 彩はデスクに向き直り、新しい書類の一枚目にペンを走らせた。

 日付。時刻。場所。発見者。要救助者の特徴。

 書き終えて、一瞬だけ手が止まった。


「要救助者の発言」の欄に、三文字を書いた。

『レッカ』


 ペンを置いた。

 ——藤村彩の戦いは、また始まったばかりだった。



          ◇◇◇



 医務室の外。廊下。

 刃とイエヤスだけが残っていた。


「……刃」

 イエヤスが口を開いた。

「あの子、親父の名前を知ってた」

「聴こえていた」

「何か心当たりは」

「ない」


 刃の声は平坦だった。感情の温度がない。

「目が覚めたら、話を聞こう」

「……ああ」


 イエヤスは廊下を歩き出し、地上棟の出口へ向かった。窓から差し込む十時の太陽が眩しい。

 有給休暇が終わって、最初の一日。まだ午前中だというのに、世界は激変していた。


「……ああ」


 イエヤスは眩しい空を見上げて、深いため息をついた。


「始末書、書かないと」


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