第57話 「音の向こう側」
有給休暇が明けた月曜日。
イエヤスは午前六時に目を覚まし、六時三分に黒ツルハシを手に取り、六時七分に寮を出た。五日間の禁断症状を解消するのに、七分は十分すぎる準備時間だった。
六時十五分、サンクスマート桜谷駅前店。
「鮭おにぎり三つ」
「休み明け初日からフルスロットルだね。顔が活き活きしてる」
瀬田ユアがレジを打ちながら呆れた目を向けた。
「いや、やっと掘れるからさ」
「あんた、休暇前よりテンション高くない?」
「五日間溜まってるからな」
ユアは一瞬だけ真顔になり、それから何かを飲み込んで「四百三十円」とだけ言った。ツッコミを入れるべき文脈だったが、朝の客が並び始めていたので見逃した。
◇◇◇
桜谷ダンジョン第一ゲート、午前七時三十分。
ゲートの鉄扉から藤村彩の張り紙は剥がされ、代わりに『本日より通常採掘を再開する』という正式な掲示が貼られていた。
イエヤスはライセンスカードをリーダーに通し、ゲートが開く音を聞いた。重い金属の軋み。冷たい風がダンジョンの内側から吹き上がってくる。鉱物と、湿った岩と、微かな魔力の匂い。
五日ぶりだった。
たかが五日。されど五日。イエヤスの耳が、飢えた獣のように音を拾い始めた。ゲート周辺の壁材の密度、通路の天井に走る鉱脈の残響、足元の地盤の硬さ——すべてが音として流れ込んでくる。五日間の沈黙が、聴覚を極限まで研ぎ澄ませていた。
「——ッ」
息を吸い込んだ。ここだ。自分がいるべき場所は。
「おはようございます、神代さん。休暇明け初日ですね」
中層行きのエレベーター前で、顔見知りの三級採掘者が声をかけてきた。
「うす。今日から中層の定期採掘っす」
「核晶直したヒーローが定期採掘とは、偉いねえ。上で引っ張りだこなんじゃないの?」
「いや、掘るのが仕事なんで」
エレベーターが到着した。イエヤスは黒ツルハシを肩に担ぎ、中層第四坑道へ向かった。
◇◇◇
中層第四坑道。地下約二百メートル。
イエヤスの担当区画は、壁面に露出した中級鉱石を規定量採掘する定期エリアだ。地味な仕事。だが鉱石に触れ、ツルハシを振り、岩の声を聴くという動作そのものが、彼にとっては呼吸と同義だった。
タン。黒ツルハシが壁を叩く。
一撃目で岩の硬度と鉱脈の走り方が耳に届く。二撃目で最適な角度が分かる。三撃目から効率的な掘削が始まる。
休暇前と何も変わらない。当たり前の朝。当たり前の——。
四撃目を振り下ろした瞬間、イエヤスの手がピタリと止まった。
——音が聴こえた。
それは壁の向こう、はるか深層から響いてくる音だった。高く、澄んでいて、一定の間隔で脈動している。鉱石の共鳴音に似ているが、どの鉱物とも違う。
修復時に聴いた深層核晶の唸るような脈動とも異なる。もっと高く、軽く、そして——生きている。
イエヤスはツルハシを下ろし、壁に右手を当てた。目を閉じる。
音は断続的に響いていた。三秒鳴って、五秒止まり、また三秒。規則的なようで、微妙にリズムが揺れる。まるで呼吸のように。
「——何だ、これ」
思わず声に出していた。
「イエヤス」
背後から声がかかった。早瀬凛だった。護衛任務で同行している。
探索者装備に身を包み、腰に短剣を帯びた姿は、休暇中の私服とはまるで別人だった。
「顔色悪いけど」
凛の目がイエヤスの顔を正確に観察していた。異常を検知するのが早い。
「……音が聴こえる。深層の方角から。鉱石じゃない。もっと高くて、もっと——生きてる感じの音」
凛の表情が引き締まった。
「管理局に報告しましょう。深層の異常は彩さんの判断を——」
「待ってくれ」
イエヤスが壁に耳を押し当てた。目を閉じる。音を追う。脈動のリズムが変わっていた。三秒鳴って五秒止まっていたのが、二秒鳴って七秒止まるようになっている。間隔が延びている。
——弱まってる。
イエヤスの目が開いた。
「これ、呼吸だ」
「呼吸?」
「何かの——誰かの呼吸だ。しかも弱まってる。止まりかけてる」
凛の表情が変わった。
「……それは確かなの」
「確かだ。鉱石の音じゃない。生きてる音で、消えかけてる。報告して許可を待ってたら——間に合わない!」
イエヤスはその言葉を口にする前に、走り出していた。
黒ツルハシを肩に担いだまま、中層第四坑道の通路を駆け抜け、深層への接続路に向かう。
「イエヤス! 待ちなさい!」
凛の声が背中に飛んだ。鋭い、怒気を含んだ声。
「深層は許可なしで降りちゃダメ! 規定違反! 止まって!」
「止まれない。あの音、今にも止まる」
「だから管理局に——」
「間に合わない!」
イエヤスは振り返らなかった。足は加速している。中層から深層への接続通路。本来なら管理官の事前承認が必要なエリア。
凛は二秒だけ立ち止まった。
通信機に手が伸びる。規定通りなら、ここで物理的にイエヤスを止めて報告するのが正しい。凛はルールを守る人間だ。早瀬の名を持ち、秩序を重んじ、感情より判断を優先する。
だが——。
「——っ!」
凛は通信機を掴んだまま走り出した。イエヤスの背中を追う。走りながらスイッチを入れた。
「こちら早瀬凛。管理官、緊急。神代イエヤスが深層への接続路を無許可で降下中。——私も追います。深層で生体反応の可能性あり。止められませんでした。以上」
一方的な報告。返答を待たずに通信を切った。
凛にできる最善がこれだった。止められないなら、守る。そしてせめて現在地だけは伝えておく。
走りながら短剣の柄に手をかけた。
これは間違いなく始末書案件だ。だが始末書は後で書ける。死んだら書けない。
——あの馬鹿を一人で深層に行かせるわけにはいかない。
◇◇◇
深層第八層。
イエヤスは接続路を駆け下り、修復作戦を行った巨大な空洞に到達した。息が上がっている。通常なら二十分以上かかるルートを、十二分で降りた。
凛が三十秒遅れで到着した。息は乱れていない。身体能力の差ではなく、走りながら周囲を警戒していた分の時間差だ。
「イエヤス。ここまで来たんなら、せめて私の後ろに下がって」
「下がれない。音はもっと奥だ」
「……あなたね、帰ったら彩さんに殺されるわよ」
「分かってる」
空洞の中央に鎮座する深層核晶は、修復後の安定した紫光を静かに放っている。異常はない。だが、音は核晶からではなかった。
「——裏だ」
イエヤスは核晶の背後に回った。凛が短剣を抜き、半歩先に出た。今度はイエヤスを前に出させない。護衛が先行するのが鉄則だ。
修復作戦時にはただの岩壁だった場所に、高さ約二メートル、人が一人やっと通れる程度の『亀裂』があった。
亀裂の縁から淡い金色の光が滲み出ている。光は脈動していた。弱々しく、不規則に。音と完全に同期している。
「……これ、修復前はなかった」
凛が壁面を凝視した。あの時、凛はこの空洞の右翼を担当していた。
「絶対なかった。ただの壁だったはず」
金色の光の向こうから、足音が聴こえた。
軽い。小さい。不規則な足取り。消えかかっていた呼吸の音と、足音が重なった。誰かがこちらに向かっている。最後の力を振り絞って。
「凛——人だ。向こうから来てる。倒れかけてる」
「……敵かもしれないわ」
凛が短剣を構えたままイエヤスの前に立った。イエヤスはその肩越しに亀裂を見つめている。
亀裂から金色の粒子が溢れ出し、空洞の暗闇を一瞬だけ昼のように照らした。
そして——亀裂から、人影が倒れ出てきた。
小柄な体躯。ボロボロの旅装。泥と埃にまみれ、露出した腕には無数の擦り傷がある。長い距離を走り、何度も転び、それでも走り続けてきた痕跡。
倒れた体が、凛の足元で動きを止めた。
凛の短剣が——下がった。
脅威ではない。一目で分かった。この存在に戦う力は残っていない。
年齢は十代後半に見える。銀に近い淡い金色の髪。肌は土色に汚れているが、その下にある白さは人間のそれとは質が違った。
そして——耳。
人間の三倍はある、先端が鋭角に尖った長い耳。
「……人間じゃ、ない」
凛が息を呑んだ。短剣を構え直すか迷い——構えなかった。目の前の存在は瀕死だ。
イエヤスが凛の脇をすり抜けてしゃがみ込み、少女の呼吸を確認した。浅く、速い。聴こえていた音と一致する。この呼吸があと数分で止まるところだった。
「おい、聞こえるか。大丈夫か」
少女の瞼が震え、薄く開いた。翡翠色の瞳だった。
焦点が定まらない視線が宙をさまよい、イエヤスの顔を捉えて、見開かれた。
声は掠れていた。何日も水を飲んでいないような声。だが、言葉ははっきりと聴こえた。
「——レッカ」
少女の手がイエヤスの袖を掴んだ。驚くほど強い力だった。意識が朦朧としているはずの身体が、その名前を口にした瞬間だけ明確な意志を持って動いた。
「レッカ——やっと——見つけ——」
そこで少女の力が抜け、手が袖から滑り落ち、完全に意識を失った。
亀裂の金色の光が急速に弱まり、消えた。後には静寂と、核晶の紫光だけが残った。
イエヤスはしゃがんだまま、少女の顔を見下ろしていた。
レッカ。
神代烈火。
親父の名前を、この人間ではない少女は呼んだ。
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