第56話 -2 「有給休暇②」
【Day 4(木曜日)】
彩は有給休暇の届け出を出していたが、午前九時に執務室のデスクに座り、書類の山と向き合っていた。事後報告書。機材の損耗リスト。予算の精算。作戦を成功させるより、事務処理の方が量が多い。
昼過ぎ、執務室のドアがノックもなく開いた。
イエヤスが立っていた。右手に缶コーヒーを二つ持っている。
「差し入れ。彩さんどうせ仕事してると思って」
「……あんたは休暇中でしょうが」
「缶コーヒー買いに来ただけ。ダンジョンには入ってない」
屁理屈だった。だが彩は缶コーヒーを受け取った。
「ありがとう」
イエヤスは空いている椅子に座り、自分の缶を開けて飲み始めた。帰る気配がない。
「……今度、管理局の倉庫整理に付き合ってくれない? 力仕事だから」
「いいよ、任せろ。棚ごと持ち上げるわ」
「棚ごとは持ち上げなくていい」
彩は少し笑って、何でもない風を装って付け足した。
「……デートじゃないからね」
イエヤスは缶コーヒーから口を離し、心底不思議そうな顔をした。
「え? 倉庫整理だろ?」
彩の右手に力がこもった。
——パキッ。
ペンが、音を立てて折れた。インクが書類に飛び散る。彩は無言でティッシュを取り、インクを拭き、折れたペンを屑籠に捨てた。一連の動作に一切の感情が乗っていないように見えた。見えただけだった。
イエヤスは何が起きたのか分からず、首を傾げていた。
夕方。イエヤスは寮に戻り、裏手で刃と鉢合わせた。
「刃、暇?」
「……暇じゃない」
「体動かしたいんだけど。休めって言われてんの、キツいよな」
刃は無言だった。自分も刀を振りたくて仕方がなかった。だが管理局の休暇命令は「全員」に対してのものだ。これ以上、あの管理官の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「貴様が河原で暴れたせいで警察沙汰になったと聞いた。これ以上面倒を起こすな」
「だからここでやるんだよ。黒ツルハシは部屋に置いてきた。そこらへんの鉄パイプで素振りするだけだって」
イエヤスが駐輪場跡地に転がっていた鉄パイプを拾い上げ、無造作にフルスイングした。
——風が爆発した。
ただの素振りだった。だが、二級に昇格し、深層の魔力に当てられ、五日間も力を温存しすぎたイエヤスの身体能力は完全にバグっていた。
スイングの風圧だけで、寮の裏壁にミシミシと亀裂が走り始めたのだ。
「馬鹿か貴様は!!」
刃が反射的に飛び込み、被害を抑えようと鉄パイプの軌道に掌底を叩き込んだ。
イエヤスが驚いて力を抜く。だが、二人の特級クラスのエネルギーが衝突した余波は相殺しきれず、結果として——寮の壁の上から下まで、約二メートルにわたって見事なヒビが走った。
「……」
「……あーあ。お前が止めるから変なとこに力が入ったじゃん」
「貴様……俺が止めなければ壁ごと粉砕していたぞ……」
翌朝、二枚の始末書が彩のデスクに提出された。
イエヤスの始末書には「寮の壁をすこし壊しました。すみません」と書かれていた。
刃の始末書には、震える筆跡で「監督不行き届き」とだけ書かれていた。彩は二枚の始末書を眺め、深く長いため息をついた。
◇◇◇
【Day 5(金曜日)】
最終日の朝。イエヤスは六時に起きた。
寮を出て、まっすぐサンクスマート桜谷駅前店に向かう。
「鮭おにぎり。三つ」
「あんた、今日で休み終わりでしょ。最終日ぐらい、ちゃんとした飯食えば?」
ユアが呆れ顔で袋に入れた。
「明日から掘るんでしょ」
「ああ」
「……ま、怪我はしないようにね。おにぎりの在庫調整が狂うから」
河川敷のベンチに座った。
鮭おにぎりを一つ開け、食べる。川の水が朝日を反射して光っている。風が草を揺らしている。
今日は何もしないと決めた。素振りもしない。石も聴かない。ただ、座って、食べて、川を見る。
——何もしない、というのは。意外と、難しい。
三十分が過ぎた。
「……隣、いい?」
凛だった。ジーンズにカーディガン。散歩の格好。「たまたま通りかかったんだけど」
凛がベンチの反対側に座った。ちょうど拳一つ分の距離を空けて。
五分後。
「……外の空気に当たりたくて」
つむぎだった。ノートPCの入ったバッグを肩に提げている。ベンチの端に座ったが、PCは開かなかった。
さらに二十分後。
「あ、ここいい光! ロケハンロケハン!」
あかりがカメラを首から下げて現れた。レンズキャップがついたままなのは、たぶん忘れているか、最初から撮る気がないかのどちらか。「隣いいですかー?」と、凛とつむぎの間に無理やり座り込んだ。
その十五分後。
刃がランニングウェアで立っていた。額に汗。だがベンチを見て足が止まったまま、数秒動かない。
「一個余ってる。食うか?」イエヤスが鮭おにぎりの包装を掲げた。
刃は無言でベンチの端——もはやベンチの外に近い場所に腰を下ろした。おにぎりは受け取らず、ランニング中に携帯しているはずのないブラックの缶コーヒーを開けた。
最後に来たのは彩だった。
「書類を届けに来ただけ」
手に持っている茶封筒の厚みは、限りなくゼロに近かった。ベンチの後ろ側、立ったままの位置でイエヤスたちを見下ろした。「立ってるほうが好き」と言った。管理者の矜持だった。
全員がいた。
誰も「集まろう」とは言っていない。時間も場所も示し合わせていない。
凛は川を見ている。つむぎは画面を見ていない。あかりはレンズキャップを外さない。刃は缶コーヒーを飲んでいる。彩は腕を組んでいる。
イエヤスは残りのおにぎりを見て、それから全員を見渡した。
「……足りないな。おにぎり」
残り二個。人は六人。
イエヤスがスマートフォンを取り出した。
「サンクスマート桜谷駅前店です」
「ユア、鮭おにぎり追加で四つ頼める? 届けてほしいんだけど」
「ハーレム御一行様の出前はやってません」
ガチャッ。切れた。
イエヤスは電話を見つめた。凛が「何やってるの」と呆れ、あかりが笑い、つむぎが「コンビニに出前の概念はないです」と真顔で解説した。
彩が懐から自分のスマートフォンを出した。
「私が買ってくる。鮭おにぎり四つでいい?」
「あ、彩さん——」
「座ってなさい。今日ぐらい」
彩が歩き出す。カーディガンの裾が風に揺れた。刃が無言で立ち上がり、彩の三歩後ろをついていく。荷物持ちのつもりか、護衛のつもりか、本人にも分かっていないだろう。
残された四人が河川敷に座っている。
川が光っている。風が穏やかに吹いている。五日間の休暇の最後の午前が、ゆっくりと過ぎていく。
イエヤスが空を見上げた。
「——休みって、こういうことか」
凛が横目で見た。「……今頃?」
十五分後、彩と刃が戻ってきた。刃の手には全員分の缶コーヒーとお茶も握られていた。
おにぎりが行き渡った。六人が河川敷で鮭おにぎりを食べている。それだけの光景だった。
彩が包装を丁寧に折りたたみながら言った。
「明日から通常勤務です。全員、体調管理を怠らないこと」
管理官の声だった。だがその声に、五日間の緊張を解いた柔らかさが混じっていることに、凛だけが気づいた。
イエヤスがおにぎりの最後の一口を飲み込み、手についた米粒を見つめた。
「明日から、また掘れるな」
誰も答えなかった。答える必要がなかった。
全員が同じことを思っていた。
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