第56話 -1「有給休暇①」
管理局人事課から発令された文書は、A4用紙一枚、文面わずか三行だった。
『核晶修復作戦従事者に対し、特別有給休暇五日間を付与する。取得は義務とし、期間中のダンジョン入場を禁ずる。以上』
発令者の欄には藤村彩の署名と、管理局長の公印が並んでいる。
イエヤスは新しい寮のデスクに文書を置き、三回読み直した。意味は分かる。日本語としては理解できる。だが、脳が処理を拒否していた。
五日間。
掘らなくていい五日間。
掘ってはいけない五日間。
「…………何すりゃいいんだ」
朝六時。神代イエヤスは人生で初めての「公的な休日」を前に、自室で正座していた。
◇◇◇
【Day 1(月曜日)】
正座のまま三十分が過ぎた。
窓の外では鳥が鳴いている。平和だった。恐ろしく平和だった。イエヤスの右手の指が、膝の上で落ち着きなく動いている。ツルハシの柄を握る時の癖が抜けない。
六時四十五分。限界が来た。
寮を出て、桜谷ダンジョン第一ゲートまで歩いた。入口が見えてきた瞬間、足が止まった。
ゲートの鉄扉に紙が貼ってある。彩の手書きだった。丁寧で端正な、しかし鋼のような意志を感じさせる筆跡。
『特別休暇期間中、ダンジョン入場を禁ず。』
ここまでは公式文書と同じだ。問題はその下だった。
『神代イエヤス殿』
名前だけ赤字。しかも二重下線。さらにその下に、やや小さい文字で追記がある。
『破った場合、始末書では済まないと思いなさい。——藤村』
イエヤスは一分ほどゲートの前に立ち尽くした後、静かに踵を返した。藤村彩の「済まないと思いなさい」は比喩ではないことを、この数ヶ月で十分に学んでいた。
帰路、河川敷を通りかかった。
イエヤスの足が止まった。視線が河川敷の地面に落ちる。硬い。よく踏み固められた土。これなら——。
彩の張り紙はダンジョン入場を禁じていた。河川敷での鍛錬は禁じていない。少なくとも、明文化されていない。
イエヤスは河川敷の端に打ち上げられている、ツルハシの柄とほぼ同じ太さの流木(長さ一メートル二十センチ)を拾い上げた。
軽く振った。風を切る音。素振り一回。二回。三回。
——三十分後、イエヤスは河川敷の真ん中で流木を全力で振り回していた。
上段から振り下ろし、横薙ぎ、突き、振り上げ。ダンジョンの岩壁を脳内に再現し、無心で地面を叩く。地面にクレーターができ始めている。
通行人が足を止め、スマートフォンを取り出した。
七時四十三分、パトカーが到着した。
「あの、通報がありまして。丸太で地面を粉砕している不審者がいると——」
「すいません、素振りです」
イエヤスは汗だくで正座し、流木を脇に置いた。
「素振り? 地面に深さ三十センチの穴が空いてますが」
「いや、ツルハシだったらもっと——」
「身元を確認できるものは?」
身元引受人の連絡先を求められた。
彩に連絡すれば始末書では済まない。氷室刃に電話すれば「……ああ」で始まり「……ああ」で終わるため、警察に誤解される未来しか見えない。
結局、早瀬凛に電話した。
凛は八時十二分に河川敷に到着した。
私服のTシャツにデニム。寝起きだったのか、髪をひとつに束ねただけの簡素な姿。だが管理局の身分証はしっかり持参しており、警察官への説明は淀みなかった。
「本当にすみません、うちの所属探索者で、先日大きな作戦を終えたばかりで気が張って——ええ、危険物ではありません。流木です。はい。今後は気をつけさせます」
パトカーが去った後、凛はイエヤスの正面に立った。腕を組み、見下ろしている。
「……休めって言われてるのに、何してるの」
「素振り」
「地面にクレーター空けるのは素振りって言わない」
「クレーター?」
凛は深く息を吐き、束ねた髪を手で押さえながら、少し視線を逸らした。
「まあいいわ、そんなことより……明日、駅前のカフェが季節の新メニュー出すらしいけど……あんた甘いもの好きよね? 卵焼きも甘い方が好きだし」
「……いや、別に」
沈黙が降りた。川の水が流れている。鳥が鳴いている。風が凛の髪を揺らしている。
凛は三秒間、完全に動きを止めた。瞬きすらしなかった。
それから極めて静かな声で「……そう」とだけ言い、踵を返して去った。
イエヤスは凛の背中を見送りながら首を傾げた。
「……怒ってた?」
答える者はいなかった。
◇◇◇
【Day 2(火曜日)】
イエヤスは早朝から寮の裏手にいた。
ダンジョンには入れない。河川敷で素振りをすると通報される。消去法で残ったのが、コンクリートの壁に囲まれた駐輪場の空きスペースだった。
駐輪場の脇に、寮の管理人が使う軽トラックが停まっている。荷台に積みっぱなしになっている肥料袋を含め、総重量約八百六十キロ。
イエヤスは軽トラックの車体下部に両手をかけ、膝を深く曲げ、全身に力を入れた。
金属が軋む音がして、軽トラックの前輪が地面を離れた。そのまま腕を伸ばし、斜め四十五度に傾ける。
——これでデッドリフトはできるが、スクワットには角度が悪い。
考えた末、イエヤスは『軽トラックを背中に担いだ』。
荷台の縁を首の後ろと両肩で受け、後輪をわずかに浮かせる。膝を曲げ、伸ばす。一回。二回。三回。
ガラッ。
寮の二階の窓が開いた。
刃が、歯ブラシを咥えたまま外を見下ろしていた。
三秒間の沈黙。
刃は歯ブラシをゆっくり口から抜き、窓を閉めた。その後、もう一度窓を開けて確認し、やはり軽トラックを背負ってスクワットをしている人間が実在することを確かめてから、静かにカーテンを引いた。
「……休暇とは」
刃は洗面台に向き直った。見なかったことにした。
午後。イエヤスは管理人に激怒された後、河川敷に場所を移した。
河原の石を一つ拾い、耳元に近づける。目を閉じる。
石の内部構造が『聴こえる』。結晶の配列、含有鉱物の密度、微細な亀裂の位置。イエヤスの聴覚が、見えないものを音に変換する。
「……石英が多いな。雲母はほとんどない。川上流の花崗岩が削れたやつだ」
次の石。次の石。
気がつけば、ベンチの周りに百個以上の石が鉱物別に分類されていた。本人は遊びのつもりだが、客観的に見れば、地質学の野外実習を一人で、機材なしで、耳だけで行っている異常事態だ。
そこに雪平つむぎが通りかかった。
つむぎは石の分類を見て足を止め、しゃがみ込み、端末を取り出して石の配列と分布を無言で記録し始めた。三分後に我に返り、慌てて立ち上がった。
「あ、あの——偶然です。散歩の途中で」
「おう、つむぎ。散歩?」
「はい。……あの、明後日、鉱物学会のポスター展示があるんです。一般来場もできて、深層鉱石の最新スペクトル分析とか……イエヤスさんの耳なら面白いかなって……」
つむぎは端末を胸に抱えたまま、早口で続けた。
「別に、一緒に行こうとかじゃなくて。情報として。お伝えしておこうかなと。はい」
イエヤスは石を一つ手に取り、つむぎに向けた。
「学会? すげえな。頑張って」
親指を立てた。
つむぎの口が小さく開き、閉じ、もう一度開いて、何も出てこなかった。
端末をぎゅっと胸に押しつけ、「……はい。頑張ります」と言って早足で去った。
イエヤスは石を弄びながら見送った。
「……なんか元気なかったな。学会の準備で疲れてんのかな」
河原の石は何も答えなかった。
◇◇◇
【Day 3(水曜日)】
伊吹あかりは策を練っていた。
寮の自室、ベッドの上に広げたノートには『イエヤスさんを配信に巻き込む方法』と書かれている。「偶然会ったことにして映り込ませる(倫理的にアウト)」「料理配信に呼ぶ(鮭おにぎりしか食べないからボツ)」などの案を赤ペンで消し、最後の一つの案を実行に移した。
「はーい、あかりでーす! 今日は休日企画! 探索者の皆さんがお休みの日に何してるか、アポなし突撃取材しちゃいまーす!」
コメントが流れる。『イエヤスは?』『イエヤスを映せ』。視聴者は分かっている。あかりの真の目的を。
あかりはカメラを持って寮の共有スペースを歩き回り、ついに管理局の建物の前でイエヤスを発見した。
「あ、イエヤスさん。奇遇ですね! 今ちょうど配信中で、休日の過ごし方とか聞いてるんですけど——誰かいい取材対象いないかなーって探してて」
直球で「出ませんか」と言えなかった。
イエヤスは少し考えて言った。
「刃に聞いてみれば? あいつ休みの日何してるか謎だし。見たことない」
あかりの笑顔が一瞬——〇・三秒ほど硬直した。
だがプロである。表情はすぐに戻った。
「あー! たしかに! 氷室さんの休日、気になりますよねー!」
コメント欄は『鈍感砲直撃』『あかりちゃん……』『0.3秒の硬直見逃さなかった』で埋め尽くされた。
結局あかりは刃の部屋を訪ねた。ドアをノックし、カメラを向ける。
ドアが開いた。刃が立っている。
「氷室さーん! 休日の過ごし方を——」
「……映すな」
バタン。ドアが閉まった。所要時間、四秒。
あかりはカメラに向かって微笑んだ。
「はい! 氷室さんのプライベートは鉄壁でしたー!」
コメント欄。『知ってた』『4秒は草』『最速退場記録』。
あかりは最終手段としてサンクスマート桜谷駅前店に向かい、レジにいたユアにカメラを向けた。
「あ、ユアちゃん! コンビニの新商品レビューしてもいい?」
「私はハーレムメンバーじゃないからね。そこだけは字幕入れといて」
「う、うん……」
結局、ユアが新商品の鮭マヨおにぎりを「三・五。鮭が少ない。イエヤスが買ういつもの鮭おにぎりの勝ち」と冷静にレビューする謎の回になった。
配信後、あかりは自室のベッドにうつ伏せになり、ノートの最後の案に赤ペンで太く×をつけた。
◇◇◇




