第55話 「明日も掘る」
深層核晶修復の翌朝。午前六時四十分。
イエヤスは新しい寮の部屋を出て、朝の街を歩いていた。
寮から管理局までは徒歩十分。通勤は劇的に便利になった。だが、イエヤスは反対方向——駅前に向かっていた。
徒歩二十分。コンビニ『サンクスマート桜谷駅前店』。
自動ドアが開く。蛍光灯の白い光とコーヒーマシンの匂い。
「いらっしゃ——あんたかよ」
レジの向こうで、瀬田ユアが呆れた顔をした。派手なアイラインの下の目が、少しだけ眠そうだ。夜勤明け。いつも通り。
「うす。ユアさん、鮭おにぎりください」
「寮からここまで二十分かかるでしょ。もっと近いコンビニあるじゃん」
「ユアさんがいるから」
ユアのレジを打つ手が、一瞬だけピタリと止まった。
「……うるさい。はい三つと麦茶」
棚の裏の隠し在庫から鮭おにぎりを取り出し、カウンターに置く。
「五百七十円。——あと十円足りないのいい加減どうにかしなさいよ。昨日世界救ったんでしょ」
「ごめん。今日も五百六十円しかない」
「はぁ……」
ユアはため息をつきながら、カウンター横の黄色い付箋に目をやった。ユアの字で『イエヤス −10円(5回目)』と書いてある。
「次で六回目だからね。さすがに——」
自動ドアが開いた。
氷室刃が入ってきた。
黒いパーカーにジーンズ。表情はない。まっすぐレジに向かい、缶コーヒーのブラックを一本置いた。百三十円を、一円の狂いもなく支払う。
刃はコーヒーを受け取り、踵を返しかけて——カウンター横の付箋に目が留まった。
『イエヤス −10円(5回目)』
刃は三秒ほどそれを見つめてから、ポケットから50円玉を一枚取り出し、無言でカウンターの上に置いた。
「……弟の借金だ」
「弟じゃないって言ってなかったっけ」
ユアが即座に突っ込んだ。刃は答えず、缶コーヒーを持って店を出た。
イエヤスが刃の背中を見送りながら、にかっと笑った。
「刃、やっぱいい奴だよなー」
「……ほんとにね」
ユアは付箋の『−10円(5回目)』に横線を引いた。そしてその横に、小さく書き足した。
『兄が払った』
ユアはペンを置いて、イエヤスを見た。
「ほら、おにぎり持って早く行きなよ。今日、表彰式なんでしょ」
「おう。でもユアさんの顔見れたから、これでバッチリだわ」
「帰れ!!」
ユアの声が店内に響いた。顔が赤い。アイラインの下の目が盛大に泳いでいる。
イエヤスはおにぎりと麦茶を持って、笑いながら店を出た。
◇◇◇
午前八時。管理局の大会議室。
局長以下幹部が居並ぶ中、イエヤスは壇上に立たされていた。
普段は奥の執務室から出てこない白髪の局長が、額縁入りの感謝状を両手で差し出した。
「神代イエヤス二級採掘者。深層核晶の修復という前人未到の偉業に対し、東京ダンジョン管理局より最上級の感謝を表します」
イエヤスは感謝状を受け取った。金色の縁取り。赤い印鑑がでかでかと押してある。
イエヤスは感謝状を三秒ほど見つめた。
「…………」
「…………」
「彩さん。これなんて読むんすか」
会議室の隅で、藤村彩が額に手を当てた。
「……『かんしゃじょう』よ」
「いや、その下の長い文。『茲に——』のところ」
「後で教えてあげるから、今はお辞儀して」
「あ、うす」
イエヤスは深々と頭を下げた。幹部たちの拍手の中に、小さな呆れ笑いが混じっていた。
壇上から降りたイエヤスの隣に、早瀬凛がすっと並んだ。
「おめでとう、イエヤス」
「おう。サンキュー。でもこれ、全員のおかげだろ」
「……うん。そうだね。でも、最後にツルハシを振ったのはイエヤスだから」
凛の声は穏やかだった。昨日までの張り詰めた緊張感はない。
ただ、隣に立つ距離が、いつもよりほんの少しだけ近かった。
◇◇◇
夕方五時。管理局地上棟、屋上。
五月の夕焼けが空を染めていた。オレンジと紫のグラデーションの下に、街のシルエットとダンジョンのゲートが浮かんでいる。
屋上には、六人が集まっていた。
イエヤスがフェンス沿いのベンチに座り、鮭おにぎりの最後の一つを頬張っている。
その隣に凛が座っていた。
肩が、触れていた。電車の中ではなかった。揺れてもいなかった。ただ、凛が隣に座った時、意図的に肩と肩の間に隙間を作らなかったのだ。
凛は何も言わず、黙って夕焼けを見ていた。風が吹いて凛の髪がイエヤスの腕に触れても、彼女はそれを直さなかった。
ベンチの反対側で、雪平つむぎがクリアファイルを開いた。
「イエヤスさん。一つ、お願いがあるのですが」
「ん? なに?」
「核晶のデータをまとめた学術論文の草稿が完成しました。共著に、イエヤスさんの名前を入れてよろしいですか」
「おう。つむぎと一緒に名前が載るのか。なんかモテそうだな」
つむぎの頬が、夕焼けの色とは別の赤さに染まった。
「モテるかどうかは保証しかねますが……光栄です」
「光栄って、こっちのセリフだろ。つむぎのおかげで掘れたんだから」
つむぎは論文の草稿をクリアファイルに戻した。その手がわずかに震えていた。嬉しさによる心拍数の上昇を悟られないよう、彼女はファイルを大事そうに胸に抱えた。
屋上の隅で、伊吹あかりはスマホを開いていた。
昨日の配信アーカイブは、歴代最高を大幅に更新する三百二十万再生を突破していた。いつもならガッツポーズをしてSNSに投稿するところだ。
だが、今日のあかりは数字を見てもニヤつかなかった。スマホをポケットにしまい、企画ノートに一行だけ書いた。
『次の目標:深層。イエヤスくんと一緒に、誰も見たことない景色を撮る』
数字のためじゃない企画書。配信者としては失格かもしれない。でも、あの金色の空洞で震えなかった自分の手が誇らしかった。
彩はベンチから少し離れた場所で、ジュースを飲んでいた。
コーヒーではなかった。一昨日の夜に自販機で買った、みかんジュースだ。バッグの中で過ごしたそれはすっかりぬるくなっていたが、極限の重圧から解放された今の彼女には、思ったよりずっと甘くて美味しかった。
「みんな、お疲れ様。……次の作戦会議は来週ね。それまではゆっくり休みなさい」
「え、明日掘れないの?」
イエヤスが振り向いた。
「核晶修復後の経過観察が必要なの。最低五日間は立ち入り禁止。それに、あんたには特別有給休暇が与えられるわ」
「有給?」
「昇格した時に説明したでしょ! とにかく休みなさい!」
◇◇◇
屋上の端。フェンスに背を預けて、刃は缶コーヒーを飲んでいた。ブラック。今朝ユアの店で買ったやつだ。
足音が近づいた。イエヤスだった。黒ツルハシを肩に担いだまま、刃の一メートル手前で立ち止まる。
「なぁ刃」
「…………」
「昨日、お前が横にいてくれたから安心して掘れた。ありがとな」
刃は缶コーヒーを一口飲んだ。苦い。
三秒ほど黙った。
「……鮭おにぎり、悪くなかった」
「え?」
「昼に食った。貴様が三つ買ったうちの一つを、俺のデスクに置いていっただろう。コンビニの安物だが、まずくはなかったと言っている」
十九年間、誰にも礼を言わなかった男の、これが精一杯の言葉だった。
イエヤスの目が丸くなり、それから、にかっと笑った。
「だろ? ユアさんのとこの鮭おにぎりは最高だからな。明日も食えよ」
「勝手にしろ」
刃は空き缶を握り潰した。ポケットの中で、魔鉱石の欠片が六つ、かすかに温もりを持っている。昨日の核晶の共鳴以来、冷たくならない。
刃はそれを不快に思わなかった。
夕焼けが、紫に変わり始めていた。
イエヤスは屋上の中央に戻り、フェンスの前に立った。ダンジョンのゲートを見下ろしている。
「なぁ」
全員が、イエヤスを見た。
「もっと奥って、どうなってんだろうな」
「……まだ行く気なの」
彩が、みかんジュースの空き缶を握ったまま呆れたように言った。
「だってキラキラしてるもん。奥の方が」
イエヤスの目が、ゲートの闇を見つめていた。核晶の空洞よりもっと深い場所。そこにはきっと、もっとキラキラした鉱石がある。
刃が、無言で太刀の柄に手を置いた。
一言も発さなかったが、その仕草が意味するものを全員が理解していた。
「私も当然行くわよ」
凛が立ち上がった。
「データ的にも必須です。深層の鉱物分布は未踏の研究領域ですから」
つむぎが眼鏡を押し上げた。
「最高の画を撮る。約束したでしょ」
あかりがカメラを肩にかけ直した。
彩は小さく息を吐いた。こんなに無鉄砲な男の子に、自分は恋をしている。
「……作戦会議は来週と言ったでしょ。気が早いのよ、あんたたちは」
そう言いながら、口元が完全に緩んでいた。
イエヤスは黒ツルハシを肩に担ぎ直し、夕焼けに向かって笑った。
「——深層行ったら、モテるかな」
六人のため息が、夕焼けの屋上に響き渡った。
五月の風が吹いた。
ダンジョンのゲートが、闇の奥で静かに佇んでいる。
核晶はもう泣いてはいなかった。だが、イエヤスの耳だけが、その静寂の奥——もっと深い場所から届く『新しい音』を微かに拾っていた。
チリン、チリン、と。
どこか遠い世界で、見たこともないような美しい宝石の森が風に揺れているような、そんな不思議な音。
「……待ってろよ」
イエヤスは誰に言うでもなく呟き、黒ツルハシの柄を力強く握り直した。
第二部「中層開拓記」——完。
第三部「深層への扉」へ続く。
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