第52話 「あかりの本音」
採掘停止三日目。午後六時。
管理局の全館放送が、短く鳴った。
『本日十七時をもちまして、境界区画の安全確認が完了しました。明日〇八〇〇より、境界区画への再突入を許可します』
放送が切れると同時に、局内のあちこちで明日に向けた動きが始まった。
早瀬凛は装備庫で探索者刀を研ぎ直し、雪平つむぎは研究室でセンサーの最終調整に入り、氷室刃は自室で黙々と太刀を手入れし、藤村彩は執務デスクで安全管理計画書にペンを走らせていた。
イエヤスは、新しい部屋で黒ツルハシを壁に立てかけ、凛が選んだマグカップで水を飲んでいた。
全員が、明日に向けて動いていた。
——伊吹あかりを、除いて。
◇◇◇
あかりは、管理局が公認配信者に提供した専用の編集室にいた。
モニターの一つに、前回の境界区画突入時の映像が一時停止されている。
魔力濃度が危険域に達した最奥で、イエヤスが変異種を粉砕した瞬間の横顔。目は真剣で、口元は引き締まっている。命がけの顔だ。
あの時の同時接続数、十七万超。あかりの配信史上、ぶっちぎりの歴代最高だった。
コメント欄は『すげえ!』『バケモノかよ!』という純粋な熱狂で溢れ返っていた。
あかりはモニターから目を逸らした。
デスクの隅に、明日の配信の構成案を書くはずの企画ノートが開いてある。いつもなら手が止まらない作業だ。
だが、ノートは白紙のままだった。
あかりは椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
——明日、また同じことが起きる。
イエヤスが命を張る。凛と刃が命を張って守る。つむぎが極限の集中で計測し、彩が全体を背負って指揮する。
そして自分は、安全な後方からレンズ越しにカメラを回す。
数字が回る。コメントが流れる。スパチャが飛ぶ。同接が跳ねる。
——それが、自分の仕事だ。
あかりはモニターの電源を落として、企画ノートを閉じた。
編集室を出た。
◇◇◇
午後八時。管理局地上棟、屋上。
五月の夜風が、あかりの髪を揺らしていた。
あかりはフェンスの近くに座り込んで、膝の上に企画ノートを広げた。ペンを持ったが、やはり書けなかった。
街の灯りの向こうに、ダンジョンのゲートが暗く口を開けている。明日、あの中に入る。
「……構成が浮かばない」
嘘だ。七年間配信を続けてきたプロだ。企画なんて呼吸と同じように立てられる。
浮かばないのは、構成ではない。
——覚悟だ。
「おー、あかりさんじゃん」
振り返ると、イエヤスが屋上のドアから出てきたところだった。片手にみかんジュースの缶を持っている。
「イエヤスくん。こんな時間にどうしたの?」
「風が気持ちいいかなって。部屋にいてもツルハシ磨くくらいしかやることねーし」
イエヤスはあかりの隣に——五十センチほど間を空けて——腰を下ろした。
「あかりさんは? 明日の準備? 企画ってやつ?」
「……うん。まあ、そんなところ」
イエヤスは白紙のノートをちらりと見たが、何も言わなかった。
しばらく、風の音だけが屋上を渡った。
「ねえ、イエヤスくん」
「ん?」
「私がカメラ回してるの、迷惑じゃない?」
イエヤスは首を傾げた。本気で意味がわからないという顔だった。
「なんで?」
「だって——」
あかりは膝の上のノートに目を落とした。
「命がけの場面で配信してる私って、結局、安全な場所から人の命を数字にして飯食ってるだけじゃん」
声が、思ったよりも小さかった。
「イエヤスくんは体張ってる。凛ちゃんも刃くんも前線で戦ってて、つむぎちゃんも彩さんもリスクを負ってる。私だけだよ。後ろでカメラ構えて『はい同接四万突破ー!』とかやってんの」
あかりはペンのキャップをかちりと閉めた。
「前回の配信、歴代最高の数字だった。嬉しかったよ、正直。でもさ、あの数字ってイエヤスくんが命張った結果じゃん。明日も、一撃ずれたら崩壊する核晶の修復で、私はまたカメラ回すの? それを見て『今日も良い配信でしたー』って締めるの?」
あかりの声が、わずかに震えた。
「……それって、何してるんだろうって。思っちゃって」
イエヤスは黙って聞いていた。みかんジュースの缶を両手で包むように持っている。
頭の中で何かを整理するように、少しだけ考えてから口を開いた。
「あかりさん。俺さ、採掘者じゃん」
「知ってるよ」
「採掘者ってさ、地味なんだよ。穴掘って、石出して、終わり。でもさ、あかりさんが配信始めてから変わったろ? つむぎが教えてくれたんだけど、あかりさんの配信見て『採掘者になりたい』って問い合わせてくる奴がすげー増えてるらしいぜ」
あかりは顔を上げた。イエヤスはまっすぐ前を向いて、街の灯りを見ていた。
「俺は掘ることしかできない。目の前の壁を叩いて、石を出す。それだけだ。カメラの使い方も、喋りも、何をどうしたらいいかわかんねえ」
イエヤスはあかりの方を向いた。
「あかりさんは、それを皆に届けてくれる。俺の仕事を、画面の向こうの知らない奴らに見せてくれる。それって、俺には絶対にできないことだ」
「…………」
「だから——ずっと隣で撮ってくれよ。あかりさんがいないと、俺の仕事は誰にも届かないんだから」
屋上が、静かになった。
あかりは唇を噛んだ。鼻の奥が、つんと痛い。
——ずるい。
この男は、いつもこうだ。計算がない。ただ思ったことを、まっすぐに言う。それが人の心をどれだけ激しく揺さぶるか、本人だけが全くわかっていない。
涙が、一筋こぼれた。
営業スマイルでも、配信者の仮面でもない。二十一歳の桜庭あかりの、素の涙だった。
「……ずるいよ、イエヤスくん。そういうこと言うの」
「え? 何がずるいの?」
「——なんでもない」
あかりは手の甲で涙を乱暴に拭った。もう一筋こぼれた。それも拭った。
「……なんでもないから」
「いや泣いてるだろ。大丈夫か?」
「大丈夫。泣いてない」
「泣いてるって」
「泣いてないの! これは——目から汗が出てるの!」
「そんなことある?」
「あるの! 配信者の特異体質なの!」
あかりは鼻を啜って、空を見上げた。深呼吸を二回した。
それから、イエヤスに向き直った。
笑っていた。
いつもの完璧なカメラ用の笑顔とは違う。不格好で、目元が赤くて、鼻声で。でも、前よりもずっと柔らかくて、強い笑顔だった。
「——明日、最高の映像撮るから。覚悟しててね」
「おう。いつも通りでいいぞ」
「いつも通りじゃないよ。明日は——今までで一番良いの撮る。だから、イエヤスくんも今までで一番かっこよく掘ってよ」
「任せろ。掘るのは得意だ」
あかりはもう一度鼻を啜って、膝の上の企画ノートを開いた。
「……ちょっと一人にしてくれる? 構成考えたいから」
「おう。じゃあ俺戻るわ。おやすみ、あかりさん」
イエヤスは手を振って、屋上のドアに消えた。
◇◇◇
あかりはノートを膝の上に置いて、ペンを構えた。
さっきまで一文字も書けなかったページだ。今は、書ける。
ペン先が紙に触れた。さっきこぼした涙の跡が、紙をわずかに波打たせていた。その上から、あかりは一行だけ書いた。
『境界区画・核晶修復ドキュメンタリー。これは数字のためじゃない。この人たちの記録を、残すために撮る』
あかりはノートを閉じて、立ち上がった。フェンスに手をかけて、ダンジョンのゲートを見下ろした。
明日、あの中に入る。カメラを持って。
——数字は、後からついてくる。
あかりはポケットからスマホを取り出し、配信アプリを開いた。
いつもの煽り文句も、ハッシュタグの羅列も、サムネ用の自撮りもない。文字だけの、短い告知を投稿した。
『明日、境界区画に入ります。今までで一番大事な配信になると思う。見届けてくれたら嬉しいです』
投稿して三秒後。通知が鳴り始め、コメントが爆発的な勢いで流れ始めた。
あかりはスマホをポケットに戻した。
「——隣で撮ってくれ、か」
ずるい。ほんとにずるい。
でも、嬉しかった。心のど真ん中をまっすぐ射抜かれた。射抜かれたことに射抜いた本人だけが気づいていない。それがまた、どうしようもなくずるい。
あかりは階段を降りながら、明日のカメラの充電残量を頭の中で確認した。
バッテリー本体、満充電。予備バッテリー二本、充電中。外部マイク、動作確認済み。
何時間撮っても足りる。
足りなかったのは、覚悟だけだ。
——それは今、もう十分に足りている。
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