第51話 「つむぎの仮説」
採掘停止二日目。午前九時。
管理局地上棟、第三研究室。
つむぎは朝から端末の前に座り続けていた。
昨日、イエヤスが地上で感知した鉱石音。その追加計測データは深刻だった。境界区画から地上への魔力漏洩率が、三日前から四十二パーセントも上昇している。
「……やはり、深層核晶の亀裂が拡大している」
漏洩を止めるには、核晶の亀裂を塞がなければならない。しかし核晶は、通常の道具では傷一つつけられない深層鉱物だ。
つむぎは新しい仮説をノートに書き始めた。
——コンコン。
ドアがノックされ、イエヤスが顔を出した。黒いTシャツにカーゴパンツ。右手に黒ツルハシを持っている。
「つむぎ、手伝えることある? 暇なんだわ」
「気持ちはありがたいんですが……イエヤスさんに手伝えることは、正直ありません」
「そっか。じゃあここでツルハシのメンテしてていいか? 部屋だとなんか落ち着かなくて」
追い返すべきだ。研究に集中するなら一人がいい。
「……隅のスツールを使ってください」
だが、つむぎは追い返さなかった。
◇◇◇
しゅっ、しゅっ、と規則的な音がする。
イエヤスが深層鋼の刃先を布で磨く音だ。
つむぎはその音を背中で聞きながら、データ解析を進めていた。不思議と集中が途切れない。心地よいメトロノームのようだった。
「つむぎ」
「はい」
「すげー難しい顔してんな」
振り返ると、イエヤスがツルハシを膝に載せたままこちらを見ていた。
「……集中していましたから」
「うん。つむぎが難しい顔して一生懸命考えてるの見るの、好きだよ。なんか、キラキラしてるから」
つむぎの手から、タブレットがずるりと滑り落ちた。
慌てて掴み直す。画面は割れていないが、心拍数が異常な跳ね上がり方をした。
(この人は……計算もなくこういうことを言う)
「……仕事に戻ります」
「おう」
つむぎは熱くなった頬を隠すように画面に向き直り、強引に解析を再開した。
◇◇◇
正午を過ぎた頃、つむぎは仮説をまとめ上げた。
「イエヤスさん。結論が出ました」
「お、マジか」
イエヤスがスツールごとデスクに近づく。
「極めて乱暴に要約します。核晶の亀裂を修復するには、核晶の脈動と『完全に同じリズム』で打撃を与え、共鳴させるしかありません」
「同じ音で叩けば直るってことか?」
「はい。それが可能なのは、核晶と同じ深層の素材で作られたその黒ツルハシだけです。——ただし」
つむぎの声が硬くなる。
「一撃でもリズムがずれれば、核晶は崩壊し、中層全域が魔力暴走に巻き込まれます」
イエヤスは腕を組んだ。
「そのリズムって、わかるのか?」
「地上のデータでは精度が足りません。もう一度、境界区画の奥に入る必要があります。核晶の目の前で直接計測し、イエヤスさんの聴覚とすり合わせるためのテストも——」
「よし。入ろう」
一秒の躊躇もなかった。
「……一撃でもずれれば崩壊すると言ったんですよ?」
「聞いてた。だからつむぎが、叩くタイミングを教えてくれるんだろ?」
軽い声。軽いのに、信頼だけはとてつもなく重い。
「……はい。私が計ります。ですがその前に、イエヤスさんの耳が機器の計測データとどれだけ一致するか、ここでテストします」
イエヤスは立ち上がり、黒ツルハシを構えた。
◇◇◇
つむぎは壁にセンサーを貼り付けた。
「イエヤスさん。壁からかすかに聞こえる『残響』のリズムに合わせて叩いてみてください」
——コン。……コン。……コン。
イエヤスがツルハシを振る。
データを見たつむぎは息を呑んだ。機器が検出した残響パターンと、イエヤスの打撃リズム。誤差は〇・〇一秒以下だった。
「すごい……合っています。これなら本番でも使えます。もう何セットかお願いします」
狭い部屋だ。
つむぎはセンサーの数値を至近距離で読み取るため、イエヤスのすぐ横に立っていた。
——コン。
イエヤスが腕を振り下ろすたびに、空気が動く。近い。
——コン。
黒いTシャツの袖口から隆起する腕の筋。無駄のない、しなやかな獣のような重心移動。近い。あと三十センチ離れるべきだが、最適記録距離はこの位置だ。
——コン。
風圧と一緒に、匂いが来た。健康な若い男の体温と、微かな汗の匂い。
つむぎは、自分の呼吸がひどく浅くなっていることに気づいた。タブレットの波形データに、不審なノイズが混入している。
ドックン、ドックンという激しい波。
——心拍だ。
手でタブレットを強く握りしめすぎているせいで、つむぎ自身の脈動がダイレクトに計測に干渉しているのだ。
「つむぎ? 続けるか?」
「——待ってください!」
つむぎはタブレットをデスクに叩き置いた。後半のデータが『心拍ノイズ』で完全に使い物にならなくなっている。
「……やり直しです」
「顔赤いぞ。大丈夫か? 熱あるんじゃねーの?」
イエヤスがつむぎの額に手を伸ばしかけた。
つむぎは弾かれたように後ずさった。
「ないです! 熱はないです! これは説明の必要のない、物理的な計測環境の問題です!!」
早口で捲し立てながら、激しく眼鏡を押し上げる。
物理的な計測環境の問題。嘘ではない。この『至近距離にイエヤスがいるという環境』が問題なのだ。研究者として、あまりにも致命的なポンコツ具合だった。
「……タブレットをスタンドに固定して、手持ちをやめます」
「おう。俺、腹減ったから飯買ってくるわ。つむぎの分も適当に見繕ってくるから、キリのいいとこまでやっとけ」
イエヤスはそう言って研究室を出ていった。
つむぎは真っ赤な顔で深呼吸を繰り返し、スタンド固定でなんとか無事にテストデータの採取を完了させた。
◇◇◇
午後四時。
つむぎは、藤村彩の執務デスクの前に立っていた。
「黒ツルハシの共鳴による自己修復誘導。一撃でもずれれば連鎖崩壊……リスクが高いわね」
彩が報告書をめくる。
「はい。ですが時間の猶予はありません」
「安全確認は明日完了予定。翌日から再突入を許可するわ」
彩は報告書を閉じ、椅子の背にもたれた。
「再突入メンバーの安全管理は私が直轄で行う。……ところで、つむぎちゃん」
「はい?」
彩は少しだけ声のトーンを変えた。年上の女性の、少し意地悪な声。
「テストデータ、後半が『計測環境の不備により再取得』って書いてあるけど。……心拍でしょ」
つむぎの口が、ピシャリと閉じた。
彩は淡々と言った。
「私も技術職出身だから、バイタルノイズくらい波形見ればわかるの。心拍数の上昇パターンが計測者本人のもので、かつ打撃の直前にピークが来てる。——至近距離での打撃を予期して無意識に緊張してたってことよね?」
「…………っ」
「べつに責めてないわよ。ただ、本番ではもっと近い距離で計測することになる。大丈夫?」
つむぎは、冷や汗をかきながらも背筋を伸ばした。
「大丈夫です。本番ではスタンド固定式のユニットを使います。手持ちはしません」
「そう。なら、いいわ」
つむぎは逃げるように一礼して、執務室を出た。
廊下に出てドアが閉まってから、つむぎは壁にそっと額をつけた。
——完全にバレていた。
本番では、核晶の前で、イエヤスのすぐ横で脈動を記録し続けなければならない。やることは山ほどある。計測プロトコルの設計。脈動パターン候補の構築。そして、バイタルノイズの徹底的なフィルタリング改良。
研究室のドアを開けると、デスクの上に紙袋が置いてあった。
管理局食堂のサンドイッチと、紙パックのカフェオレ。
袋に、ミミズが這ったような汚い字のメモが挟まっていた。
『ちゃんと食え。つむぎが倒れたら掘れねーぞ。——イエヤス』
つむぎはメモを手に取った。
三秒ほど見つめてから、報告書ファイルの間に、そっと大事に挟み込んだ。
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