第50話 「凛の休日」
午前十時。駅前の商業施設『ラクーアモール桜谷』。
今日は管理局の安全確認待ちによる、三日間の採掘停止期間の初日だ。ダンジョンへの入坑は原則禁止。
凛は家具フロアのマップを広げた。メモには候補が整理されている。
「——べ、別にデートじゃないし」
誰に言い訳しているのか自分でもわからなかったが、声に出さないと落ち着かなかった。
約束を果たすだけだ。
しかし、昨夜、実家の父(早瀬巖)から電話があったことが雑念を加速させている。
『あの男とデートのひとつやふたつしたのか? 意地を張るな、素直さが大事だぞ』
余計なお世話だった。
「まずテーブル。それからカーテン。あと収納棚——」
「凛」
「——ラグも必要かな。フローリングだし、冬は冷えるから——」
「凛」
「はい?」
「俺、家具ってよくわかんねえ。頑丈ならなんでもいい」
凛は目を閉じた。知っている。この男がそう言うことくらい、とっくにわかっている。
「頑丈さは私が確認するから、イエヤスは座り心地とか使いやすさだけ教えて」
「おう」
最初のコーナーは、テーブル。
凛が選んだのは、天板がオーク材の二人用ダイニングテーブルだった。脚は鉄製。値段は一万八千円。予算の範囲内で、最も耐久性の高いモデルだ。
「これ、どう?」
「でかいな。一人なのに」
「……人が来るかもしれないでしょ」
イエヤスはテーブルの天板を拳で叩いた。こんこん、と硬い音がした。
「ツルハシ置いても大丈夫か?」
「テーブルにツルハシ置かないでよ」
「いや、メンテの時に——」
「メンテは作業場でやって」
それでもイエヤスは納得した様子で頷いた。凛がほっと息をつく。
次は椅子。凛はクッション性と背もたれの高さを基準に三脚まで絞った。イエヤスはそのうち最も安いパイプ椅子を指さした。
「これでいいだろ」
「ダメ。長時間座ると腰にくるよ」
「俺、家であんま座んないし」
「座るようになるの。二級になったら書類も増えるから」
イエヤスは少し意外そうな顔をして、凛を見た。
「お前、そういうとこ詳しいな」
「……私も一応二級だから。報告書とか行動記録とか、色々あるの」
凛は視線を逸らしながら、背もたれ付きのワークチェアを指さした。
「これにして。座面がメッシュで通気性がいいから、夏も快適」
「おう。凛が言うならそれでいい」
その一言で、凛の耳がうっすら赤くなった。自覚はあったが、どうにもならなかった。
◇◇◇
家具フロアを一通り回って、注文したのはテーブル、椅子、カーテン二枚、収納棚一つ、ラグ一枚。配送は翌日指定。
凛のメモには丁寧にチェックが入っている。予算内。配送日確認済み。完璧だった。
「——あとは、日用品。コンディショナーと、タオルと、食器……」
「凛。腹減った」
時計を見ると、十一時半を過ぎていた。
「……そうだね。先にお昼にしようか」
二人はフードコートに向かった。凛はパスタ、イエヤスはカツカレーの大盛り。
隣のテーブルに座ったカップルが、イエヤスをちらちら見ていた。最近のライブ配信で顔が知られ始めている。凛は少し落ち着かなかったが、イエヤスは全く気にしていない。カレーに集中している。
「イエヤス、カレーにそんな福神漬け入れるの?」
「うまいぞ。食うか?」
「遠慮しとく」
「凛のパスタもうまそうだな。ひとくちくれ」
イエヤスはそう言うや否や凛がフォークで掬い上げてパスタにかぶりついた。
「なっ!?」
「え!? 怒った? だってカレーいらないって言ったからあんまり腹減ってないのかと」
間接キスだとか、女の子相手にそういうことをするなという言葉が凛の喉あたりまで登ってきていたが、言っても無駄なのだ、このイエヤスという男には。
「ぎ、行儀が悪いからやめてよね」
そう言うのが精一杯だった。ただ顔がにやついているの事を凛は自覚していなかった。
食事を終えて、二人は日用品フロアに移動した。コンディショナー、タオル四枚、マグカップ二つ、洗剤、スポンジ。凛が選び、イエヤスが持つ。自然とそういう役割分担になっていた。
「なあ凛。この皿、頑丈そうじゃね?」
イエヤスが持ち上げたのは、キャンプ用のステンレス食器だった。
「……家で使うには無骨すぎない?」
「落としても割れない。最高だろ」
「…………」
凛は三秒ほど考えて、ステンレスの皿を二枚、カゴに入れた。
「——まあ、イエヤスらしいか」
「だろ?」
その笑顔が、少しだけ眩しかった。
◇◇◇
買い物を一通り終えて、二人は一階のジェラートコーナーの前を通りかかった。
「あ——」
凛が足を止めた。期間限定のソフトクリーム。ストロベリー&バニラのミックス。ポップには『本日最終日』と書いてある。
「食べたいのか?」
「え、いや——別に——」
「買うか。俺も食いたい」
イエヤスは迷わず二つ注文した。バニラ。凛にはミックスを渡した。
「はい」
「……ありがと」
二人はモールの出入り口付近のベンチに座った。買い物袋が足元に並んでいる。外は五月の陽射しが柔らかい。
凛はソフトクリームを舐めながら、隣のイエヤスを見た。豪快に食べている。バニラの白が口の周りについていた。
「——イエヤス。ついてる」
「ん?」
「口。ここ」
凛は自分の唇の横を指さした。イエヤスは手の甲で拭ったが、反対側だった。
「逆。……もう、貸して」
無意識だった。
気づいた時には、凛の右手がハンカチを持ってイエヤスの口元に伸びていた。
指先が、唇のすぐ横に触れた。
——近い。
イエヤスの肌は、ダンジョンの粉塵にまみれている時よりずっと柔らかかった。体温が指を通して伝わってくる。
凛の手が、ピタリと止まった。
自分が今、何をしているのかを明確に自覚してしまったのだ。
「…………」
「…………」
沈黙が、二秒。
凛の顔が、ストロベリーソフトよりも赤く染まり上がっていく。
「——は、はい、取れたっ!」
凛は弾かれたようにハンカチを引いた。声が完全に裏返っていた。
「おう。サンキュー」
イエヤスは全く気にせず笑って、ソフトクリームの続きを食べ始めた。
凛はミックスソフトを口に運んだ。味がわからない。心臓がうるさい。顔が熱い。でも隣のこの男は何も気づいていない。
いつも通りだ。いつも通り——鈍い。
それなのに。
——それなのに、と凛は思った。こうやって隣にいるだけで、こんなに落ち着かないのは、どうしたらいいんだろう。
◇◇◇
帰りの電車は、午後二時過ぎの準急だった。
休日の昼下がりで、車内はそこそこ混んでいた。座席は空いていなかったが、イエヤスは買い物袋を両手に持ったまま平然と立っている。凛は吊り革につかまった。
電車が揺れた。
凛の肩が、イエヤスの腕に触れた。
「——っ」
反射的に離れようとしたが、背後に人がいて動けなかった。
「大丈夫か?」
「う、うん。大丈夫」
大丈夫じゃなかった。
肩が触れている。カーゴパンツの生地と、凛のブラウスの袖が、電車の振動のたびに擦れる。
イエヤスは窓の外を見ていた。何の気もない顔で。
凛は吊り革を握る手に力を込めた。
——これは、デートじゃない。
家具を買いに行っただけだ。チームメンバーとして。日用品を選んで、ソフトクリームを食べて、電車で帰っているだけだ。
それだけなのに。肩が触れているだけなのに。
心臓が、ダンジョンの中層でモンスターと対峙した時より、ずっと速く脈打っている。
「——なあ、凛」
「はっ——はい!」
「今日さ、ありがとな。俺一人じゃ絶対選べなかったわ」
「そ、そんな。当然のことをしただけだから」
「いや、マジで助かった。凛がいると安心する」
——安心する。
凛は前を向いた。窓ガラスに、自分の顔がうっすら映っている。赤い。明らかに赤い。
「……どういたしまして」
それだけ言うのが精一杯だった。
◇◇◇
桜谷駅に着いて改札を出た時、イエヤスが急に立ち止まった。
「どうしたの?」
イエヤスは買い物袋を地面に置いて、右耳を傾けた。駅の雑踏の中で、何かを聴き取ろうとしている。
「…………鳴ってる」
「え?」
「鉱石の音。すげえ小さいけど——ここで聴こえるのは初めてだ」
凛の表情が変わった。探索者の顔になった。
「地上で鉱石の音が聴こえるって——境界区画の異変が地上まで伝播してるってこと?」
「わかんねえ。でも、あの泣いてるみたいな音に似てる」
凛はすぐにスマホを取り出した。管理局の緊急報告システム。定休日でも監視班は稼働している。
「藤村さん——早瀬です。イエヤスが地上で鉱石音を感知しました。桜谷駅前、午後二時十五分。深層核晶関連の可能性があります。計測班の出動を要請します」
通話は三十秒で終わった。凛はスマホをしまい、イエヤスを見た。
「報告した。明日の朝、つむぎちゃんが計測に入るって」
「……早いな」
「当たり前でしょ。異常は早く報告した方がいい。プロとしてね」
イエヤスは凛を見て、ふっと笑った。
「やっぱ、凛すげーな。かっこいいわ」
「——え?」
「俺が聴こえるだけで終わってたのを、ちゃんと『繋げる』んだな。報告とか判断とか」
凛は一瞬、言葉を失った。
すごい、と言われたのは初めてではない。探索者として、戦闘技術を褒められたことは何度もある。
でも——自分の耳を『繋げてくれる』存在として認められたのは、初めてだった。
「……それが、チームってことだと思うけど」
「おう。いいチームだな、俺ら」
チーム。そう。チームだ。
凛はそっと前を向いて歩き出した。買い物袋を一つ、イエヤスから強引に取った。
「——半分持つよ。重いでしょ」
「平気だけど」
「いいから」
二人は並んで歩き出した。五月の午後の風が吹き抜けていく。
凛は思った。
今日のことを、あかりさんに知られたら絶対に配信される。つむぎに知られたらデータに取られる。藤村さんに知られたら——何と言うだろう。
——全部、デートじゃないのに。
でも、と凛は心の中で小さく呟いた。
もし——これがデートだったら。
そう思った瞬間、自分の顔が熱くなるのがわかった。
隣のイエヤスは、鼻歌を歌っていた。音程は壊滅的だったが、楽しそうだった。
凛は前を向いたまま、ほんの少しだけ——歩幅を、イエヤスに合わせた。
◇◇◇
その夜。
イエヤスは新しい寮の部屋に戻り、買ってきたものを床に並べた。
部屋の隅には黒ツルハシが壁に立てかけてある。
ドアの前に、またコンビニの袋が置いてあった。中身はブラックの缶コーヒーと鮭おにぎり二個。
「……刃だな」
誰もいない部屋で呟いて、イエヤスはおにぎりを一つ開けた。
咀嚼しながら、窓の外を見た。ダンジョンのゲートが、夜の街灯に照らされている。
あの奥で、何かが泣いている。
今日、駅で聴こえた音。地上まで滲み出してきた鉱石の声。
黒ツルハシが、かすかに震えた。
イエヤスはおにぎりを飲み込んで、マグカップ——凛が選んだ、白い無地のやつ——に水を注いだ。
「明日、掘るか」
黒ツルハシの震えが、一拍だけ強くなった気がした。
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