第49話 「二級の朝」
二級採掘者になって、最初に変わったのは朝だった。
午前八時。東京ダンジョン管理局、一階の事務窓口。
イエヤスはカウンターの向こうに座る職員から、一枚の書類を差し出されていた。
「二級昇格に伴い、管理局隣接の職員寮への転居をご案内しております。個室、バス・トイレ付き、キッチンは二口コンロ——」
「風呂は広い?」
「は?」
「風呂。今のアパート、シャワーしかないんで。湯船あるなら即決なんすけど」
「……ユニットバスですが、足を伸ばせる浴槽はあります」
「入ります」
書類の内容を一文字も読まずに、イエヤスは入居を決めた。
窓口の職員が「あの、家賃の説明がまだ——」と言いかけたが、イエヤスはすでにカウンターを離れていた。
藤村彩が後ろから走ってきて、職員に深々と頭を下げた。
「すみません、書類は私が代筆しますので……」
◇◇◇
午前十時。イエヤスの現住所、六畳一間の安アパート。
なぜ全員がここにいるのか、彩にも説明がつかなかった。
いや、説明はつく。「引っ越しの手伝い」だ。だが単身者の六畳一間の引っ越しに、彩、凛、つむぎ、あかりの四人が集結するのは明らかに過剰戦力である。
早瀬凛が腕を組んで部屋の中央に立っている。鑓水つむぎがタブレットを抱えて壁際にいる。桜庭あかりが小型カメラを構えている。彩がクリップボードを持っている。
四人の視線が、部屋の中を舐めるように走った。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
四秒の沈黙。
「荷物、これだけ?」
凛が、信じられないという顔で言った。
部屋の隅に、畳んだ着替えが二着。洗いざらしのTシャツとジャージ。その横に、鮭おにぎりの空袋が小さな山を作っている。壁には黒ツルハシが立てかけてあり、その足元に例の深層鉱繊維のインナーが無造作に丸めて置かれている。
以上。
「布団は?」
「床で十分だろ」
「……さすが野生児ね」
「食器は?」
「コンビニで割り箸もらってたから、ないっす」
「調理器具は?」
「コンロ使ったことない」
「冷蔵庫の中身は?」
「鮭おにぎりの残りが一個」
凛は右手を額に当て、限界まで深く息を吐いた。
「……生活能力がゼロすぎて逆に心配なんだけど」
「普通だろ」
「普通じゃないわよ。よくこれで生きてたわね」
「親父の修行場に比べれば、ここはマシなほう。屋根あるし」
凛は何かを言いかけて、やめた。神代烈火の育児方針にツッコミを入れ始めると日が暮れる。
「……新しい部屋には、最低限の家具は入れるわよ。私が選んであげる」
凛の声には、有無を言わさない響きがあった。
「おう。頼むわ、凛」
「……別に、あんたのためじゃないから。護衛対象がまともな生活をしていないと、私の任務に支障が出るの」
凛はそっぽを向いた。耳が赤い。
自分が選んだベッドや棚がイエヤスの部屋に置かれる。毎日、自分が選んだ物に囲まれてこの男が眠る。そう想像するだけで顔が熱くなったが、護衛の義務という建前で強引に押し通した。
◇◇◇
つむぎは荷物の整理を手伝っていた。
とはいえ、荷物がほとんどないので実質的にはゴミの分別作業だ。鮭おにぎりの空袋を分別しながら、つむぎの手が止まった。
着替えの下に、小さな布袋が一つ。
中から出てきたのは、拳大の青い魔鉱石。見覚えがあった。淡い青色。浅層境界域の、あの独特の透明感。
「……イエヤスさん。これ」
「おっ、それ。まだあったか」
イエヤスが振り返り、つむぎの手の中の石を見た。
「浅層で最初に掘ったやつだ。いい石だろ。つむぎが一番最初に鑑定してくれたやつ」
あの日。鑑定所で出会った日。イエヤスが持ち込んだ浅層産の魔鉱石を見て、つむぎは三日三晩眠れなくなった。「結晶構造が壊れていない」と声を震わせ、顕微鏡を覗き込んだ。
あの日の石を、この人はずっと持っていた。
高品質の鉱石だから、売れば数万円にはなる。金欠で十円足りないと嘆いていた時期もあったのに、売らなかったのだ。
「……まだ持ってたんですか」
つむぎの声が、少し掠れた。
「当たり前だろ。俺が初めて掘った石で、つむぎが初めて鑑定してくれた石だ。売るわけないじゃん」
イエヤスは何の感慨もない顔で言い切った。特別な意味を込めているわけではない。ただ「大事なもの」を大事にしているだけだ。
つむぎは石を布袋に戻し、イエヤスに返した。眼鏡を押し上げる手が、微かに震えていた。
「新居でも、大切にしてくださいね」
「おう。一番いい場所に置くわ」
つむぎの頬が赤い。だが丸眼鏡のフレームがうまく影を作って、隠せていると本人は思っている。隠せていない。
◇◇◇
「はーい、ここで新居ルームツアーの撮影を——」
「却下」
あかりが小型カメラを構えた瞬間、彩の声がバッサリと斬り落とした。
「えー! 絶対バズるのに! 『二級採掘者イエヤスの新居公開!』って、サムネだけで五十万再生はいけますよ!」
「プライバシー。以上。これ以上言ったらカメラ没収するわよ」
あかりはしぶしぶカメラを下ろした。だが、目の輝きは消えていない。
「イエヤスくん。新居が決まったら、インテリアのアドバイスさせてよ。『モテる部屋作り』、私プロだから」
「モテる部屋ってどういうの?」
イエヤスの目が、鉱脈を見つけた時と同じ輝き方をした。
「間接照明、観葉植物、清潔感のある寝具、あと香りも大事。ルームフレグランスとか——」
「全部わかんないけど、モテるならやる」
「任せて! 全部私がプロデュースしてあげるから!」
あかりが張り切っている。自分のセンスが反映された空間にイエヤスが毎日いる。配信者としてのプロデュース欲と、もう一つの感情が混ざっていることに、あかり自身はまだ名前をつけていない。
横で凛が「ちょっと、家具は私が選ぶって言ったでしょ」と割り込み、つむぎが「居住空間の最適化なら、人間工学のデータに基づいて私が——」と参戦し、三人の間に見えない火花が散った。
彩はため息をつきながらクリップボードに視線を戻した。引っ越し書類の代筆だ。イエヤスの名前をカタカナで書き、住所を管理局の寮に変更し、緊急連絡先の欄で手が止まった。
「イエヤス。緊急連絡先、誰にする?」
「緊急連絡先?」
「何かあった時に連絡がいく人。親族とか、信頼できる人」
「親父は海外だし連絡つかないし……彩さんでいいっすか」
「……まあ、上司だし、妥当ね」
彩はそう返しながら、自分の名前を書き込んだ。手が少し震えたのは、ボールペンのインクが出にくかったからだ。そういうことにした。
書き終えて、ふと顔を上げた。
「ねえイエヤス」
「うす」
「新しい部屋、嬉しい? 初めての『ちゃんとした部屋』でしょ」
イエヤスは一秒考えた。
「嬉しいっすよ。風呂がでかいし。でも正直、飯食えて寝れれば、どこでも同じっすよ」
彩は「そう」と短く返し、書類の残りに視線を落とした。
そうだよね、と思った。この男にとって、場所なんて関係ない。おにぎりがあって、ツルハシがあって、掘る壁があれば、それで完結する。
でも、その「どこでも同じ」な世界の中に、自分の名前が緊急連絡先として書き込まれた。それだけで十分だ——と思うことにした。
◇◇◇
引っ越しは、実質十分で終わった。
段ボール一つ。着替え二着。青い魔鉱石。黒ツルハシ。深層鉱繊維のインナー。それがイエヤスの全財産だった。
夕方。がらんとした新しい寮の個室に、イエヤスが一人。
ドアの前に、何かが置いてあることに気づいたのは、トイレに立った帰りだった。
コンビニの袋。中身は缶コーヒー(ブラック)が一本と、鮭おにぎりが二個。レシートも名前もない。
イエヤスはそれを拾い上げ、笑った。
引っ越しには来なかったくせに、こっそりドアの前に差し入れを置いていく。直接渡すことは絶対にしない。
「……刃、さんきゅー」
二個目のおにぎりは冷蔵庫にしまった。明日の朝飯だ。
缶コーヒーは一口飲んで、窓の横に置いた。苦かった。
◇◇◇
午後七時半。
寮から歩いて二十分。慣れた道をたどって、イエヤスはいつものコンビニに着いた。
自動ドアが開く。蛍光灯の白い光。有線放送のJ-POP。レジカウンターの向こうに、派手なネイルの店員。
「うす。ユアさん、鮭おにぎりください」
「はいはい。三つと麦茶ね——って、あんた今日遅いじゃん。いつもなら七時には来るでしょ」
「今日から引っ越ししたんすよ。管理局の隣の寮に」
瀬田ユアの手が、バーコードをスキャンする途中でピタリと止まった。
「……管理局の隣って、ここからだいぶ遠くない?」
「歩いて二十分くらいっすかね」
「ふーん」
ユアはスキャンを再開した。声は平坦だ。表情も変わらない。
だが、おにぎりを袋に入れる手の動きが、いつもよりほんの少しだけ遅かった。
「じゃあ、もう来ないの」
ユアの声は、世間話のトーンだった。「今日暑いね」と同じ温度。
「いや、来るよ」
「寮の近くにもコンビニあるでしょ」
「あるかもしれないけど、ユアさんの店に来る」
「なんで」
ユアが顔を上げた。切れ長の目が、ギャルメイクの奥からイエヤスを真っ直ぐに見ている。
「ユアさんがいるから」
レジのバーコードリーダーが、ピッと小さく鳴った。
有線放送がサビに入った。
ユアが付箋を掌でバンッと叩いた。
「うるさい。さっさと帰んな」
声が一段高かった。顔が赤い。
「え、なんか怒った?」
「怒ってない。レジ混むから早く」
店内にはイエヤスしかいなかった。混む要素がゼロだ。
だがイエヤスは「うす」と素直に会計を済ませた。
「四百三十円」
「あ、十円足りない」
「…………」
ユアの右眉がぴくりと跳ねた。
「引っ越しして二級になっても、十円足りないのは変わんないわけ?」
「すんません」
「……もういいよ。ツケ。五回目」
ユアは付箋に『イエヤス −10円(5回目)』と書き足した。
「明日も来るっす。おやすみなさい」
「……おやすみ」
自動ドアが閉まった。
ユアはカウンターに肘をつき、自動ドアの向こうを見つめた。二十分も歩いて、わざわざ来ると言った。近くにコンビニがあるのに。
ユアは付箋の『−10円(5回目)』を見つめた。その横に何か書こうとして——やめた。
シフト終了まで、あと二時間。
◇◇◇
午後九時。寮の個室。
イエヤスは鮭おにぎりを食べ終え、麦茶を飲み干し、何もない部屋の真ん中に大の字で寝転がった。
イエヤスは起き上がり、壁に立てかけた黒ツルハシの前に行った。
右手で深層樫の柄に触れる。
——微かな振動が、掌に伝わってきた。
ダンジョンの外にいるのに。管理局の寮の、コンクリートの壁の向こうに、ダンジョンゲートがある。その奥の中層。中層の奥の境界区画。境界区画の奥の、まだ誰も到達していない場所。
そこから、音が届いている。
今まで市販のツルハシを使っていた時は、ただの『鈍い音』だった。
だが、この黒ツルハシを通して聞くと、全く違う。ただの音ではない。まるで壁の向こうに意思があり、こちらに『声』を届けてきているかのように鮮明に響くのだ。
キラキラした音。大きくて、高くて、鉱石が光っている時みたいな音。
でも——泣いている。
イエヤスは黒ツルハシから手を離し、窓の外を見た。
夜の東京。管理局の建物の向こうに、ダンジョンゲートの鋼鉄の枠がライトアップされている。その奥の地下に、途方もなく深い闇が広がっている。
「……待ってろよ」
誰に言うでもなく、呟いた。
泣いているなら、掘りに行く。理由はいらない。泣いてるものを放っておけないのは、モテ以前の問題だ。
親父もきっと、同じことを思ったから、あのツルハシを送ってきたのだろう。
イエヤスは窓を閉め、何もない部屋の床に寝転がった。
明日。境界区画の安全確認がいつ終わるか、彩さんに聞かないと。
目を閉じる。三秒で眠りに落ちた。
枕がないことには、最後まで気づかなかった。
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