第53話 「彩の覚悟」
再突入前夜。午後十時。
管理局地上棟、藤村彩の執務デスク。
フロアには誰もいない。蛍光灯は彩のデスクの上だけが点いていて、他はすべて消えている。モニター三台の青白い光が、彼女の横顔を照らしていた。
デスクの上に広げられた書類のタイトルは、『境界区画再突入・安全管理計画書(最終版)』。
彩のペンは淀みなく走っていた。
突入メンバーの配置。氷室刃を先頭に、早瀬凛が右翼。イエヤスが中央。雪平つむぎが計測ポジションでイエヤスの左後方二メートル。伊吹あかりが記録ポジションで後方五メートル。
通信途絶時の独立判断基準。魔力濃度が基準値の五倍を超えた場合、現場指揮権は刃に移行。八倍を超えた場合は全員即時撤退。例外なし。
管理官として、頭の中で組み上がった計画を紙の上に落とし込むだけの作業だ。
——だが、ペンが止まった。
最終ページ。一番下の行。
『緊急撤退の最終判断者:藤村彩』
自分の名前を書こうとした瞬間、指が動かなくなった。
最終判断者。それはつまり、核晶修復の途中で危険が発生した場合、「やめろ」と命じるのは自分だということだ。
あの子のツルハシを止め、「掘るのをやめて逃げろ」と命令を下すのは——自分だ。
彩はペンを置いて、椅子の背にもたれた。天井の蛍光灯が目に刺さる。
二ヶ月前のことを、思い出していた。
◇◇◇
数週間前。屋上で、彩はイエヤスに嘘を告白しようとした。
『採掘者はモテるよ』という、彼をこの世界に引きずり込んだあの一言を。
だが、結果は腹の音やくしゃみに邪魔されて未遂に終わった。そして彩は悟ったのだ。言う必要はない。嘘は嘘のまま、結果的に本当になった。イエヤスは楽しそうに掘り、仲間ができ、ファンもついた。
だからあの日決めた。「見守ろう」と。保護者として、上司として。
——それで、よかったはずだ。
彩は目を閉じた。
最近、その「見守る」というスタンスが、どうにも上手くいかなくなっている。
三日前。凛がイエヤスと二人で買い物に行ったと聞いた。凛の報告はあくまで業務連絡のつもりだったのだろうが、「凛がいると安心する」と言われたという部分で、彩のペンが書類の上を滑った。
二日前。つむぎが研究室でイエヤスと二人きりでテストをしていたと知った。データに心拍ノイズが混入していたと気づいた時、冷静な指摘の裏で、自分の声が純粋な上司の心配だけだったかと問われると、自信がない。
昨日。あかりが屋上から戻ってきた時、泣いた後の顔だった。「ずっと隣で撮ってくれって言われた」と、少しだけ照れた顔で言った。
その瞬間、彩の胸の奥で、何かがちくりと刺さった。
保護者の心配とは違う痛みだった。上司としての責任感とも違う。もっと生々しくて、みっともなくて、自分でも持て余すような——。
自分はイエヤスをどう思っているのか。拾った後輩? 手のかかる部下? それとも。
彩は引き出しから缶コーヒーを一本取り出した。ブラック。ぬるい。奥にあるワンカップには、今日は手を伸ばさなかった。明日は再突入だ。酒気が残る判断は許されない。
一口飲んで、立ち上がった。
屋上に行こう。少し、夜風に当たりたかった。
◇◇◇
同時刻。職員寮三階、氷室刃の部屋。
六畳の部屋に、家具は最低限しかない。壁には何も飾られておらず、イエヤスの旧部屋と生活感という意味では大差なかった。
刃はデスクの上に探索者刀を置き、油を染み込ませた布で刀身を拭いていた。
しゅっ、しゅっ、と規則的な音。あの男がツルハシを磨く音とよく似たリズムだったが、自分では絶対に認めない。
明日、境界区画に入る。
深層核晶の修復。一撃でもリズムがずれれば崩壊。
刃の役割は明確だ。先頭に立ち、モンスターを斬り、採掘者の背中を守る。
——『俺の背中だけを見て掘れ』
初めてイエヤスと境界区画に入った時に言った台詞だ。お前は前を見るな、振り返るな、ただ掘れ。背中は俺が守る、と。
あの時は、まだあいつのことが嫌いだった。女に囲まれているのが不愉快だった。父の血を引いていることが我慢ならなかった。
今は——。
刃は刀身を拭う手を止めた。
嫌いなのは変わっていない。と思う。女に囲まれているのも相変わらず不愉快だ。
だが、あの屋上でイエヤスが言った言葉が、刃の中に居座って離れない。
『親父殺してもモテないだろ?』
復讐と恋愛を同列に語るなど、正気の人間の発想ではない。
なのに、あの一言で、十九年間握りしめてきた拳が、ほんの少しだけ緩んだ。自分でも信じられないほど。
刃はクローゼットを開け、パーカーのポケットから小さな紫色の欠片を取り出した。魔鉱石の破片。いつの間にか六つに増えていた。ダンジョンで拾ったもの、あいつが掘った鉱脈の近くで見つけたもの。捨てようと思って、捨てられなかった。
六つの欠片を手のひらに載せて、蛍光灯の光に翳す。紫色の結晶が、鈍く光った。
明日、この手で太刀を振るう。あいつの背中を守るために。
復讐のためではない。護衛としての義務——だけでもない。
刃はそれ以上考えるのをやめた。自分の感情に名前をつけるのは性に合わない。ただ、やるべきことをやる。それだけだ。
魔鉱石をポケットに戻し、ベッドに横になる。
目を閉じた。
——三秒後に目を開けた。
瀬田の店は二十四時間営業だ。明朝、寮を出てすぐ寄れる。
……ブラックの缶コーヒーを買わなければ。
ついでに、……あくまでもついでにイエヤスの分の鮭おにぎりを二つ買って、ドアの前に置いておけばいい。
刃はもう一度目を閉じた。今度は、そのまま深く静かに眠りに落ちた。
枕元には、完璧に研ぎ上げられた太刀が立てかけてあった。
◇◇◇
屋上の鉄のドアを開けると、五月の夜風が彩の顔にぶつかった。
彩はフェンス沿いのベンチに向かった。出会った日、イエヤスの腹の音が響いたベンチ。
座って、缶コーヒーを開ける。ぬるい苦さが喉を通る。
——私は、あの子のことをどう思っているんだろう。
拾った後輩。手のかかる部下。嘘で引き入れた、才能のある少年。
最初は本当に、それだけだった。
いつから変わったのかはわからない。気づいた時には、イエヤスが中層から戻ってくる時、無事な姿を確認するまでの数秒間が異様に長く感じるようになっていた。他の採掘者が帰還する時には感じない、あの胸の締めつけ。
それを「責任感」だと思い込もうとしていた。
「——うす」
声がして、彩はびくりと肩を揺らした。
屋上のドアからイエヤスが出てきた。片手に鮭おにぎりを二つ。もう片方の手に、みかんジュースの缶。
「こんな時間に珍しいっすね」
「……あんたこそ。明日早いのに」
「なんか目が冴えちゃって。風当たりに来たっす」
イエヤスは彩の隣に座った。あの日と同じ位置。同じベンチ。違うのは、季節と、彩の胸の中身だけだった。
イエヤスは鮭おにぎりにかぶりつき、咀嚼しながら闇に沈むダンジョンのゲートを見つめた。
「明日、いよいよっすね」
「ええ。計画書は仕上げたわ。あんたの配置は中央。私が後ろから全体を管理する」
「彩さんも来る?」
「当たり前でしょ。私が組んだんだから」
イエヤスはおにぎりを飲み込んで、二つ目に手を伸ばした。
「彩さん」
「なに」
「明日も、俺の後ろにいてくれるんすよね」
彩は一瞬、言葉の意味を計りかねた。
「後ろ?」
「管理官ってさ、後方で全体見てるんすよね」
管理官として、後方にいる。全体を俯瞰して、危険があれば撤退を命じる。——それが、彩の役割だ。
「当たり前でしょ。あんたが無茶したら止めるのが私の仕事なんだから」
「っすよね」
イエヤスはおにぎりの二口目を頬張りながら、へへっと笑った。
「彩さんが後ろにいると、安心するんすよ。なんていうか……彩さんが見ててくれてると、思い切り掘れるっていうか。余計なこと考えなくていいっていうか」
彩の心臓が、どくんと跳ねた。
それは、保護者や上司に対する安心感だ。わかっている。
イエヤスの中で、藤村彩は「頼れる管理官」であり「自分を拾ってくれた人」だ。それ以上でも、それ以下でもない。
——わかっているのに。
心臓がうるさい。缶コーヒーを持つ手が、わずかに震えている。つむぎの気持ちが、今なら痛いほどわかった。
(「ねえイエヤス。あんたにとって私って何?」)
——とは、聞けない。二十二歳の管理官が、十七歳の部下にそんなことを聞けるはずがない。
「……あんた、明日ちゃんと帰ってきなさいよ」
代わりに口に出た声は震えた。イエヤスには気づかれない程度の、ほんの少しだけ。
「当たり前っすよ。帰ってきて鮭おにぎり食わなきゃいけないし」
イエヤスは笑った。いつもの、何も考えていないような、まっすぐな笑顔だった。
彩はその横顔を見た。
おにぎりの米粒が唇の端についている。鼻の頭に、今日の粉塵がまだ少し残っている。前髪が風に揺れている。十七歳の男の子の横顔。自分より五つ年下の、手のかかる、鈍くて、まっすぐで、どうしようもなく——。
彩は、静かに認めた。
心の中で。誰にも聞こえない場所で。
——ああ。私、この子のこと好きなんだ。
保護者でも、上司でもなく。一人の女として。
認めた瞬間、胸の奥のモヤモヤが、すとんと名前を持った。
凛への苛立ちも、つむぎへのざわつきも、あかりへの痛みも、全部——嫉妬だ。みっともないくらい、わかりやすい嫉妬だった。
二十二歳の管理官が、十七歳の部下に嫉妬している。笑えるくらい、格好悪い。
でも、言わない。
今は、言えない。明日、全員を無事に帰還させることが最優先だ。自分の感情で判断を鈍らせるわけにはいかない。「やめろ」と命じるべき瞬間に、「もう少し掘らせてあげたい」という甘さが混じったら——全員が死ぬ。
自分の気持ちは、全員が無事に帰ってきた後で考える。
彩は缶コーヒーを一口飲んだ。頭が冴える苦さだった。
「——イエヤス」
「うす」
「明日のブリーフィング、内容を先に伝えておくわ」
彩の声から、震えは完全に消えていた。冴え渡る管理官の声だ。
「突入は〇八〇〇。制限時間は計測込みで六十分。それを超えたら、状況に関わらず絶対撤退」
「六十分。了解」
「もう一つ。魔力濃度が基準値の八倍を超えた時点で、私が撤退命令を出す。その時は——何があっても、ツルハシを止めなさい。約束して」
イエヤスは彩を見た。彩の目は真剣だった。
「……約束するっす。彩さんが『止めろ』って言ったら、止める」
「よし。いい子ね」
彩は少しだけ口の端を上げた。完璧な上司の笑顔だ。それ以上のものは、何も見せない。
「じゃあ明日、〇七三〇にゲート前。遅刻したら始末書よ」
「了解っす。じゃ、俺先に戻るっすね。おやすみなさい、彩さん」
「おやすみ」
イエヤスが立ち上がり、鮭おにぎりの空袋をポケットに突っ込みながら屋上のドアの向こうに消えた。
一人になった屋上で、彩は缶コーヒーの残りを見下ろした。
「……全員帰還。それが最優先」
夜風に向かって、声に出した。
「私の気持ちは——そのあと」
最後の一口を飲み干した。
苦い。でも、悪くない苦さだった。
◇◇◇
午後十一時。
彩は執務デスクに戻り、計画書の最終ページを開いた。
『緊急撤退の最終判断者:藤村彩』
さっきはここでペンが止まった。
今は、止まらない。
彩はその下に、迷いなく一行書き加えた。
『補足:最終判断者は、いかなる個人的感情にも左右されず、客観的データに基づき判断を下すものとする』
誰に向けた補足か。監査部でも上層部でもない。自分自身に向けた、たった一行の釘だった。
彩はペンを置いて、計画書を閉じた。
「——明日が終わったら、考える」
モニターの電源を落とし、デスクライトを消す。バッグを肩にかけ、オフィスを出た。
一階のロビーで、自販機の前を通りかかった。
ふと足を止める。
ラインナップの中に、みかんジュースがあった。さっきイエヤスが持っていたのと同じやつだ。
彩は三秒ほどそれを見つめてから、百三十円を入れてボタンを押した。ガコン、と缶が落ちてくる。
冷たい缶を手に取って、彩はロビーを出た。飲まなかった。バッグに入れた。
——明日、飲もう。全員が無事に帰ってきた後で。
管理局の正面玄関を出ると、五月の夜風が彩の髪を揺らした。ダンジョンのゲートが、闇の中で静かに光っている。
見上げると、職員寮の三階の窓が一つだけ暗くなったところだった。刃の部屋だ。あの男も、明日に備えて眠りについたらしい。
もう一つ上の階——四階の角部屋からは、まだかすかに灯りが漏れていた。イエヤスの部屋だ。
彩は前を向いて歩き出した。
背筋は伸びていた。二十二歳の、管理官の背中だった。
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