第46話 「異常出現、加速」
午前七時三十分。東京ダンジョン管理局、第三会議室。
藤村彩は、壁面に投影されたモニターのグラフを厳しい目で睨んでいた。
赤い折れ線が、異常な角度で右肩上がりに突き上がっている。
横軸は日付。縦軸は魔力濃度。直近七日間の中層全域における平均値の推移だ。
五日前から急角度で上昇し、昨日の時点で通常値の二・四倍。今朝の速報値は二・七倍。まだ上がっている。
会議室には四人がいた。
彩、つむぎ、凛、刃。
イエヤスはいない。あの男はまだアパートで寝ている時間だ。
「説明します」
つむぎが立ち上がり、タブレットをモニターに接続した。画面が切り替わる。
「中層全域における魔物出現頻度の推移です。直近七日間で、出現頻度が通常の三倍に達しました」
棒グラフが並ぶ。七日前は一日二十三件。三日前、五十一件。昨日——七十一件。
「一週間で三倍。過去十年のデータと比較しても、これほど急激な増加は記録されていません」
つむぎの声は淡々としていた。感情を排し、事実だけを並べる研究者の声。
「中でも、イエヤスさんが採掘を行っている第八区画周辺の増加が顕著です。ここだけで昨日、十四件の遭遇が報告されています。平常時の五倍です」
凛が腕を組んだまま、険しい顔をした。
刃はパイプ椅子に深く腰掛け、無言でモニターのグラフを見つめている。表情は動かない。
「次に、これを見てください」
つむぎの操作で、モニターに二つの波形が重なって表示された。
赤と青の波形。山と谷の位置が、不気味なほど完全に一致している。
「赤が中層全域の魔力濃度の変動パターン。青が、イエヤスさんの採掘した魔鉱石から検出された魔力波形です。二つの相関係数は〇・九一。統計的に極めて高い一致を示しています」
会議室が静まり返った。
「仮説があります」
つむぎはタブレットを下ろし、全員の顔を見回した。
「イエヤスさんが中層で特殊な採掘を続けることによって、深層と中層の間の魔力均衡が変動している可能性があります。彼が掘り起こす魔鉱石の波形が、深層の——『何か』と共鳴し、中層全域の魔力濃度を押し上げている」
つむぎは一度言葉を切り、続けた。
「二日前の作業中、イエヤスさんが壁の奥から『巨大な脈動音』を聴取したと報告しました。機器では検知できず、彼の耳だけが拾った音です。あれは、この仮説を裏付ける可能性があります」
「深層の何かが、中層に影響を及ぼし始めている」
彩が、つむぎの言葉を引き取った。
つむぎが静かに頷く。
「はい。深層の何かが、です」
会議室の空気が限界まで重くなった。
深層。ダンジョンの最深部。現在、全面立入禁止の絶対死地。過去にその領域を単独で踏破したのは、特級探索者・神代烈火ただ一人。
刃の組んだ腕に、無意識に力が入った。
「結論を言います」
彩が椅子から立ち上がった。管理官の冷徹な目だ。
「本日〇八〇〇をもって、中層第七区画から第九区画を一時封鎖。全採掘作業を即時中止。探索者および採掘者の立ち入りを厳禁とします」
沈黙。
「監視レベルはA。イエヤスには、私から伝えます」
◇◇◇
午前八時四十五分。ダンジョンゲート前。
イエヤスは、ツルハシを肩に担いで立っていた。
いつものTシャツとジャージ姿だが、今日は足元が違う。サンダルではなく、しっかりとした作業用のブーツを履いている。中層の奥へ入る気満々の装備だ。
その前に、彩が立ち塞がっていた。
「——だから、今日は掘れない」
「なんで?」
「魔力濃度が危険域に達しているの。第八区画は封鎖。本部の絶対命令よ。誰も入れない」
イエヤスの表情が変わった。
普段の、のんきで力の抜けた顔ではなかった。イエヤスが何かを真剣に考えている時の顔を、彩はほとんど見たことがない。
「彩さん」
「何」
「閉鎖区画の奥でさ、音がしてるんだよ」
彩の眉が動いた。
「二日前の、あの脈動音?」
「あれとは違う。昨日の夜から、もう一個聞こえるようになった」
彩は一歩近づいた。
「どんな音?」
「キラキラした音。すげーいい鉱石が光ってる時みたいな、高い音。でも——」
イエヤスは少し黙り、真っ直ぐに彩を見た。
「——泣いてる」
彩は息を呑んだ。
「今まで聞いたことないくらいデカい音なのに、泣いてるんだ。封鎖区画の、ずっと奥のほうで」
彩は黙った。
機器には何も映らない。音響センサーも異常なし。だが、この野生児の耳だけが、深層からの悲鳴を確実に拾っている。
「……イエヤス。あなたの報告は本部に送信済みよ。でも、機器で検知できない以上、封鎖の判断は覆らない」
「でも泣いてるんだよ、彩さん」
イエヤスの声には、明確な『焦り』があった。
この底抜けに図太い男が焦るのを、彩は初めて聞いた。
「掘らなきゃ駄目なんだ。あの音の場所まで、俺が掘って行かないと」
「行ってどうするの」
「分かんない。でも……」
イエヤスはツルハシを強く握り直した。
「泣いてるのに、放っておくのはモテないだろ」
彩が言葉に詰まった、その時だった。
「素人が粋がるな」
低く、冷たい声が背後から響いた。
氷室刃が歩いてきた。
黒い探索者装束。左腰に探索者刀。端正な顔に、冷静な表情を貼りつけている。
刃はイエヤスの前に立った。正面から。
「お前の耳に何が聞こえているのかは知らない。だが、封鎖区画の先に何がいるかも分からない状態で、採掘者が突っ込むのは自殺行為――いくらお前が強くても、だ」
「刃——」
「危険区域の先行調査は、探索者の仕事だ。領分を誤るな」
刃の声は硬く、揺るぎなかった。まるで自分に言い聞かせるように。
「俺が前を斬り開く。お前は後ろで掘れ」
彩が口を開きかけた。本部の許可なく封鎖区画に入ることはできない。管理官として、止めなければならない。
だが、刃の目を見て言葉を飲んだ。
殺意ではなかった。
数日前まで刃の目にあったもの——神代烈火の血への憎悪、復讐の暗い光。それが、今は全く違うものに入れ替わっている。
不本意ながらも、兄が弟を守ろうとする目。
イエヤスが刃を見た。
「刃、いいのか?」
「護衛任務の範囲内だ」
刃の顎が、ほんの僅かに引かれた。
「対象の安全を確保するために、危険を事前に排除する。いつもと変わらない」
言い訳だった。
彩にはそれが分かった。凛にも分かった。つむぎにも分かった。
分からないのは、イエヤスと、必死に自分を誤魔化している刃本人だけだ。
「——私も行くわ」
凛が、通路の壁から背を離した。
左手に刀。最初から、行く準備が完全にできていた。
「彩さん。封鎖区画内の魔力濃度が上昇し続ける場合、中層全域に被害が拡大します。原因の特定には、現地調査が不可欠です」
凛の声は落ち着いていた。管理官が本部に報告しやすい「建前」を、理路整然と並べている。
「氷室刃と私の二名で先行調査を実施し、イエヤスの採掘による原因区域の特定を支援します。これは探索者の本来業務です」
彩は凛を見た。凛は真っ直ぐに見返した。
彩は刃を見た。刃はゲートの奥の闇を睨んでいた。
彩はイエヤスを見た。イエヤスは嬉しそうにツルハシを握り締めていた。
「…………10分だけ、待ちなさい」
彩はタブレットを取り出し、本部への緊急特別申請をものすごい速度で打ち始めた。
この無茶苦茶なチームを、合法的に動かすために。
◇◇◇
午前九時十五分。中層第八区画、封鎖ライン前。
黄色と黒の警戒テープが、通路を横断して張られている。テープの向こうはひどく暗い。魔灯石の光が、魔力の過負荷で弱々しく明滅している。
彩が端末を確認した。
「本部から許可をもぎ取ったわ。制限時間は二時間。午前十一時十五分までに封鎖ラインまで帰還すること。それ以降は強制撤退の対象になる」
「行くぞ」
刃が最初に警戒テープをくぐった。直刀を抜き、切先を前方に向けたまま、暗い通路に足を踏み入れる。
凛が続いた。刃の右斜め後方、二メートルの位置。死角を完全にカバーする完璧なフォーメーション。
イエヤスが最後に入った。左手を壁に触れ、指先で岩肌の振動を拾いながら、二人の背中についていく。
——チームだ。
封鎖ラインの手前で見送る彩は、そう確信した。
数日前までは、復讐者と護衛と採掘者だった。バラバラの目的で、たまたま同じ場所にいただけの烏合の衆。
それが今、一つの明確な意志を持って、深層の闇へ向かって歩いている。
「頼んだわよ、あんたたち」
三つの背中が闇に溶け、見えなくなった。
◇◇◇
封鎖区域内。第八区画南側、深層方面通路。
空気が違った。
刃は直刀を構えたまま、通路の空気を肌で感じていた。ただ冷たいのではない。呼吸をするたびに、肺の中に鉛のようなものが溜まっていく感覚。
魔力濃度。体感で、封鎖ライン外の倍以上。
「来る」
低く、短く。刃の声が通路に響いた。
凛が即座に刃の右に並んだ。二人の刀が、同じ高さでピタリと構えられる。
闇の奥から、複数の足音。爪音。唸り声。
中層型。だが、数が異常だ。
『反応十五。まだ増えています』
後方待機のつむぎから、インカム越しに緊迫した声が届く。
「凛。右を任せる」
「了解。正面からの突進は半分ずつよ」
二人が並んだ。通路の幅いっぱいに、二本の刀が強固な壁を作る。
凛と並んで構えるのは、探索者訓練校の卒業試験以来だった。
首席と次席。互いの実力を認め合いながらも、決して交わらなかった二本の刃。それが今、背後にいる無防備な採掘者を守るために、完璧に同期している。
「来るわ!」
凛の声を合図に、闇の中から灰色の甲殻の群れが雪崩のように押し寄せてきた。
刃の直刀が閃く。二日前の地下訓練場でリミッターを外した時を思わせる、空気を爆裂させるような神速の剣技。容赦のない気迫の刃が、群れの先頭を瞬く間に粉砕していく。
凛は、その背中に必死に食らいついていた。
地下訓練場での模擬戦。あの時、刃が隠し持っていた底知れぬ真の実力に手も足も出ず、吹き飛ばされた。
(イエヤスを守るのは私の役目なんだからっ……!)
ここで足手まといになるわけにはいかない。
肺が焼け切れそうになっても、凛は己の限界を超えて刀を振り続け、刃の死角へ迫る魔物を次々と斬り伏せていった。
——七分後。
通路に、二十体近いモンスターの残骸が散乱していた。
刃は息を荒げていた。左腕に浅い切り傷。
凛は右肩で激しく呼吸をしていた。装束の左袖が裂けている。実力の差を気力で埋め、どうにか刃の背中を守り抜いた代償だった。
二十匹を七分。二級探索者同士の連携で、損害は軽微。驚異的な戦果だ。
だが、二人の目は背後を向いていた。
イエヤスは、激しい戦闘中、一度も振り返らなかった。壁に手を当て、ただひたすらに「音」を探り続けていたのだ。
背後からモンスターが迫ろうが、血飛沫が飛ぼうが、微塵も動じない。
それは、刃と凛が「絶対に自分を守り切る」と、完全に信頼しきっている何よりの証拠だった。
「イエヤス。方向は」
刃が刀の血を振り払いながら問う。
「……あと百メートルくらい。この壁の向こう側だ」
イエヤスが壁から手を離し、ツルハシを構え直した。
「キラキラした音が、ずっと鳴ってる。掘るぞ」
◇◇◇
午前十時五十八分。封鎖ライン外。
彩の端末が鳴った。凛からだ。
『先行調査を終了、封鎖ラインに向けて帰還中。到着予定、十一時〇五分。全員、行動に支障なし』
彩は端末を耳に当てたまま、深く息を吐いた。
「了解。……お疲れさま」
つむぎがタブレットから顔を上げた。
「彩さん。三名の進入ルート上の魔力濃度データですが」
「何かあった?」
「三名が通過した区域の濃度が、通過後に微量ですが低下しています。原因は不明ですが……イエヤスさんが壁に手を触れていた区間と、濃度低下の区間が完全に一致しています」
彩は何も言わず、テープの向こうの暗い通路をじっと見つめた。
十一時三分。
闇の奥から、三つの足音が近づいてきた。
最初に刃の顔が光に照らされた。次に凛。
最後にイエヤスが、ツルハシを肩に担いで、泥まみれのブーツでのんきに歩いてくる。
「彩さん、ただいま」
「……おかえりなさい。報告は会議室で聞くわ」
彩はそう言って踵を返し、三歩歩いたところで立ち止まった。振り返らずに言った。
「三人とも、よく帰ってきたわね。上出来よ」
端末の画面には、つむぎのデータが表示されたままだった。
魔力濃度の推移グラフ。赤い折れ線は、まだ不気味に上がり続けている。
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