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第45話 「面倒な兄弟」

午後五時四十分。東京ダンジョン管理局、屋上。


 氷室刃(ひむろじん)は、フェンスに背を預け、缶コーヒーを飲んでいた。


 五月の夕風が、パーカーのフードを揺らしている。

 西の空が橙色に焼けていた。管理局の屋上は吹きさらしで、周囲に遮るものがない。遠くに東京の市街地が霞み、手前にダンジョンゲートの巨大な鋼鉄の枠が黒く立っている。


 ここに来たのは、初めてだった。

 地下訓練場を出て、廊下を歩いて、気がついたら階段を上っていた。人のいない場所を、体が勝手に探していた。


 缶コーヒーを一口。苦い。

 ポケットの中の魔鉱石(まこうせき)に指が触れた。イエヤスからもらったものを憎悪を忘れないために持ち歩いている。


 護衛五日目が終わった。

 地下での立ち合い。極限の打ち合いの中で、己の内に湧き上がった『闘うことの楽しさ』。自分の中にも確かに流れている、あの男と同じ戦闘狂の血。

 そして、それを呆気なくへし折った、間抜けな腹の虫の音。

 さらに、砕けた岩盤の奥から響いたという『泣いている音』。


 感情の整理が、全くついていなかった。

 刃は缶コーヒーを握り締め、夕焼けを睨んだ。



          ◇◇◇



 屋上のドアが開いた。


 振り返らなくても分かった。足音の重さと、サンダルが金属の床を叩く間抜けなリズム。


「——お前か」

「刃もここにいたのか」


 イエヤスが屋上に出てきた。シャワー上がりのTシャツに、ジャージ。右手にペットボトルの麦茶。濡れた黒髪が風に乱れている。


「何の用だ」

「屋上は風が気持ちいいから来ただけ。刃は違うのか?」


 嘘ではないだろう。この男は人間関係を円滑にする方便は使えない、刃は流石に学んだ。


 イエヤスはフェンスに近づき、刃から三メートル離れた右側に立った。ペットボトルのキャップを開け、一口飲む。


「いい風だー」

「……」


 沈黙が落ちた。


 夕風が吹いている。管理局の屋上は広い。二人の間に三メートルの空白がある。コンビニではイートインスペースで一席空けた。今日は三メートル。距離が広がっている。

 だが刃は、その距離を詰めようとも、広げようともしなかった。


 イエヤスが黙って夕焼けを眺めている。何も言わない。何も聞かない。ただ立って、風を受けて、麦茶を飲んでいる。

 その沈黙が——不思議と、重くなかった。


 刃は缶コーヒーを一口飲んだ。苦い液体が喉を通る。

 口をから出た言葉は自分でも予想していなかったものだ。


「母親は、俺が生まれる前に逃げた」


 刃の声は低く、平坦だった。感情を押し殺しているのではない。十九年間、何度も反芻した言葉は、もう感情を伴わずに口から出てくる。


神代烈火(かみしろれっか)。特級探索者。ダンジョンの深層(しんそう)を単独踏破した、史上最強の探索者——世間の評価はそうだ」


 イエヤスは黙って聞いていた。ペットボトルを手に持ったまま、視線は夕焼けに向いている。


「だが母にとっては違った。女たらしで、戦闘しか頭にないクソ男。ダンジョンに潜れば何ヶ月も帰って来ない。帰って来たと思えば、別の女の匂いをさせている。子供が生まれることを告げても『そうか』の一言。それが神代烈火(かみしろれっか)だ」


 缶コーヒーを傾けた。もう半分しか残っていない。


「母は俺を連れて逃げた。姓を変え、住所を変え、烈火の名前が届かない場所まで逃げた。俺は母方の姓で育った。氷室(ひむろ)は、母の姓だ」


 風が強くなった。フードが揺れる。刃は手で押さえなかった。


「十九年間。俺はあの男を超えるためだけに剣を振ってきた。母が逃げなければならなかった理由を、あの男に突きつけるために。お前と地下で立ち合ったのもそうだ。あの男の血を引くお前を叩き潰せば、俺の復讐心が再び燃え上がると思った」


 刃はフェンスの向こうの夕焼けを睨んだ。


「お前を見れば、あの男の血がどういうものか分かると思った。……だが、違った。俺は闘いを……親父と同じように、楽しんでしまっていた。自分の中に流れる血に、反吐が出る」


 刃の声が、初めて微かに震えた。


「分からない。全部、分からなくなった。お前は、一体なんなんだ」


 刃は缶コーヒーを一気に飲み干した。空の缶を握り潰す。アルミが歪む音が、夕風に消えた。

 それきり、刃は黙った。



          ◇◇◇



 イエヤスは、しばらく何も言わなかった。


 夕風がTシャツの裾を揺らしている。ペットボトルの麦茶を一口飲み、キャップを閉めた。

 それから、ゆっくりと口を開いた。


「そっか。親父、マジでクソだな」


 淡々と。否定でも、同情でも、慰めでもない声で。


「俺の鮭おにぎり勝手に食った時も、クソだと思った」


 刃の眉間に、深い皺が刻まれた。


「……何の話だ」

「いや、修行しているとき、昼飯の鮭おにぎり、勝手に食いやがった。あれはマジで許せなかった」


 自己嫌悪と十九年間の母の苦しみが、鮭おにぎり一個と同列に並べられた。

 刃は無意識に拳を握った。怒りではない。常識の外側からの打撃に、理解が追いつかず体が勝手に力むのだ。


「——お前、俺の話を聞いていたか」

「聞いてたよ。母さんが逃げたこと、十九年剣振ったこと、全部聞いてた」

「聞いていて、返す言葉がおにぎりか」

「だって、クソなもんはクソだろ。親父がクソだってのは、俺も同じ感想だし。ついでにバカでもあるよな」


 イエヤスはペットボトルを足元に置き、フェンスに両肘を載せた。夕焼けの橙が、横顔を照らしている。


「でもさ、刃」


 イエヤスの声は変わらなかった。のんきで、力が抜けていて、シリアスさのかけらもない——いつもの声。


「親父殺しても、モテないだろ?」


 刃の思考が、完全に停止した。


「——何?」

「だから、仮に親父ぶっ倒したとして。で? って話じゃん。復讐成功しました、はい終わり。バカな俺がいう事じゃないと思うけど、それはモテることとだいぶ遠い気がするわ」


 刃は、返す言葉を探した。「復讐はモテるためにやるのではない」と言えばいい。「母の無念を晴らすためだ」と言えばいい。理屈はいくらでもある。十九年間積み上げてきた強固な正当性がある。


 だが、イエヤスは刃の理屈を聞いていない。聞いた上で、全く別の座標から平然と話している。


「ずっと怒ってる奴よりさ」


 イエヤスが夕焼けを見たまま、のんきに言った。


「なんかすげーことやってる奴のほうが、絶対女の子は見てくれるぞ」


 最低のアドバイスだった。


 十九年間の復讐心に対する回答が、「モテない」。母の苦しみに対する処方箋が、「すげーことをやれ」。論理の体を成していない。反論する気にもならない。まともに取り合う価値がない。


 ——はずだった。


「……お前、本気で言っているのか」


 刃の声は、自分でも驚くほど静かだった。怒りではなかった。嘲りでもなかった。本当に、純粋に確認したかっただけだ。この底抜けの馬鹿が今の言葉を、本心で言っているのかどうかを。


 イエヤスが振り返った。夕焼けを背にした顔は逆光で陰になっている。表情はよく見えなかった。


「当たり前だろ」


 即答だった。

 一秒の躊躇もなかった。


「親父がクソなのは変わんないし、刃の母さんが辛かったのも本当だろ。でも、刃がこの先ずっと怒ってるだけなのは、もったいないと思う。刃、強いし、顔いいし」

「顔は関係ない」

「あるだろ。超あるだろ。さっきの配信のコメント欄見たか? お前ファン爆増してたぞ」

「見ていない」

「見ろよ。モテるための第一歩だろ、それ」


 刃は深く、長く、息を吐いた。


 反論が出てこなかった。

 正確には、反論はある。いくらでもある。だがその全てが、目の前のこの男に対しては完全に無効だという確信があった。論理は通じない。常識も通じない。復讐の悲壮感すら、全く通じていない。


 この男は、ただ真っ直ぐに「楽しいことを探せ」と言っているのだ。

 十九年間誰にも言われなかった言葉を、鮭おにぎりの恨みと同じ温度で。


 屈辱だ。

 馬鹿にされている。


 ——なのに。


 肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。


 自分でも気づかないほど微かに。フェンスに預けた背中の角度が、一度だけ変わった。固く握りしめていた拳の力が、ほんの一瞬だけ緩んだ。


 刃はそれに気づき、すぐに拳を握り直した。


 復讐は、捨てていない。殺意は、消えていない。

 神代烈火(かみしろれっか)のしたことを、あんな言葉一つで許せるわけがない。


 だが——目の前の馬鹿の言葉が、胸の奥のどこかに小さく刺さっている。抜こうとすればすぐに抜けるはずの、些細な棘。

 刃は、まだそれを抜くつもりは無かった。



          ◇◇◇



 夕焼けが薄くなり、空の端から紺色が広がり始めていた。


「……そろそろ戻る」

 刃が言った。


「うす。俺ももうちょい風に当たったら帰るわ」


 刃はフェンスから背を離し、屋上のドアに向かった。空の缶コーヒーを持ったまま歩く。途中で立ち止まり、振り返らずに言った。


「イエヤス」

「ん?」

「明日からも俺は俺の任務を果たすだけだ」

「おう。でもまた腹減ったら休むぞ」

「……勝手にしろ」


 屋上のドアを開け、階段を降りていく。

 重い金属製のドアが、バタンと閉まった。


 刃の足音が階段に反響し、やがて完全に消えた。

 屋上にはイエヤスだけが残った。フェンスに肘を載せ、紺色に変わっていく空を見上げている。

 ペットボトルの麦茶は、もう空だった。


「……そういや、腹減ったな」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。

 風が吹いた。五月の夕風は、もう冷たくなっていた。



          ◇◇◇



 同時刻。管理局一階、モニタールーム。


 藤村彩(ふじむらあや)は、端末の画面を見つめていた。

 屋上の監視カメラ映像。音声は拾えない。だが、フェンスに並んで立つ二人の姿は、はっきりと映っている。


 片方が先に去り、もう片方が一人残った。

 彩は画面を閉じ、椅子の背に深くもたれた。


「…………面倒な兄弟」


 机の上のカフェオレに手を伸ばし、一口飲んだ。完全に冷めていた。

 端末に、本部からの返信がようやく届いていた。


深層異常音(しんそういじょうおん)の件、了解。第八区画の監視レベルをBからAに引き上げ。詳細は追って通達。』


 彩は返信を確認し、端末を閉じた。

 冷めたカフェオレを、もう一口だけ飲んだ。



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