第43話 「生態調査——刃、コンビニへ征く」
午前四時五十二分。
氷室刃は、管理局の仮眠室で目を開けた。
正確には、眠れなかった。
護衛任務に就いて三日。神代烈火の隠し子であるイエヤスを間近で観察し続けた結果、分かったことが二つある。
一つ。この男の採掘技術は、父と同等の極限の身体操作に支えられている。
二つ。この男の周りには、常に女がいる。
管理官の藤村彩。護衛の早瀬凛。研究員の雪平つむぎ。配信者の伊吹あかり。
四人。任務時間中、イエヤスの半径二メートル以内に必ず誰かがいる。
殺意はまだある。あるはずだ。
だがそれよりも先に、一つの疑問が刃の思考を占拠していた。
——あの男は、朝何をしている?
任務時間は午前九時から午後五時。その外側が、完全な空白だった。
対象の生態を把握せよ。探索者の基本だ。
刃はベッドから降り、黒いパーカーのフードを深く被った。
◇◇◇
午前五時十八分。資料で調べたイエヤスの自宅前。
廊下の角で息を殺す。イエヤスの部屋——三〇七号室——のドアが開く気配を待っている。
五時二十一分。ドアが開いた。
寝癖のついた黒髪。洗いざらしのTシャツ。ジャージ。素足にサンダル。左手はポケットに突っ込んでいる。
刃は十メートルの距離を保ち、尾行を開始した。
寮の正面玄関を出る。五月の朝、空気はまだ冷たい。街灯のオレンジ色が歩道に落ちている。
イエヤスは迷いのない足取りで北東方向へ歩き始めた。目的地がはっきりしている歩き方だ。
七分後。大通りに面したコンビニエンスストアの前で、イエヤスが立ち止まった。自動ドアが開き、中に消える。
刃は店の外壁に背を預け、ガラス越しに店内を観察した。
◇◇◇
レジカウンターの向こう側に、店員が一人。
派手なネイル。つけまつげ。制服の上からでも分かるアクセサリーの量。名札には「瀬田」。
刃はフードの影から目を細めた。
イエヤスが棚の前に立つ。おにぎりの棚だ。数秒間視線を左右に動かした後、何も持たずにレジに向かった。
——手ぶらで?
違った。
店員が、カウンターの下からコンビニ袋を取り出した。中身をイエヤスに差し出している。おにぎりが三つと、フランクフルトが一本。
確保されていた。
刃の目が鋭くなった。
棚にないものを、レジの下に隠しておく。それはつまり、この店員がイエヤスの来店時間と購入品目を完全に把握し、事前に取り置きしているということだ。
イエヤスが財布を出す。小銭を並べる。何か足りないらしく、店員が深い溜息をついている。だが、会計は通った。
イエヤスがイートインスペースに座り、おにぎりを食べ始める。店員はカウンターに肘をつき、何事もなかったように視線を窓の外に向けた。
刃は壁に背をつけたまま、動けなかった。
——まだもう一人いたのか。
上司。護衛。研究員。配信者。その四人だけで十分に異常だった。任務時間内にあれだけの女が理由をつけて集まる光景を、刃は三日間見せつけられてきた。
だが、これは任務時間外だ。
午前五時三十分。勤務開始の三時間半前。誰の目もないはずの早朝に、この男は当たり前のようにコンビニに来て、当たり前のように店員に商品を確保させている。
しかもこの女は、あの四人のように「仕事だから」という建前すらない。ただ棚の裏に鮭おにぎりを隠して、金が足りない常連を待っているだけだ。
最も厄介な種類だと、刃は本能で理解した。
——女誑しの血だ。
クソ親父の顔を思い出しかけて、刃はギリッと奥歯を噛んだ。
その時、ガラス越しにこちらを見ている目と、視線が完全にぶつかった。
店員だ。
派手なネイルの指が、ガラスの向こうで刃を真っ直ぐ指差している。
——見つかった。
逃げるのは不自然だ。刃は腹を括り、自動ドアをくぐった。
◇◇◇
店内は冷えていた。蛍光灯の照明が白い。
レジカウンターの奥で、店員がこちらを睨んでいた。眉間に深い皺が寄っている。
「——あんた、さっきからずっと外に立ってたよね」
声は低い。警戒の色がはっきりしている。
イートインスペースで、イエヤスがおにぎりの二個目を開けながらのんきに顔を上げた。
「刃、なんで家からついてきてんの?」
「……気づいていたのか」
尾行は最初の一歩から看破されていた。二級探索者としての矜持が音を立てて崩れた。
店員——瀬田ユアの視線が、刃を上から下まで往復した。黒いパーカー。冷たい目。隙のない体格。イエヤスとは似ても似つかない。
「誰、この人」
「護衛の人。氷室刃。あと、腹違い?の兄貴」
「お前を弟とは認めていない」
「いや、刃がそう言ったんだろー」
ユアの眉間の皺が、さらに深くなった。
刃はその表情を注意深く観察した。怒りではない。警戒でもない。
純粋な『呆れ』だ。
この店員は今、「またか」という顔をしている。イエヤスの周囲に新しい人間が現れることに対する、心底からの呆れ。
刃は確信した。この女もまた、イエヤスという天然の災害に巻き込まれた被害者の一人だ。
「……座んないの」
ユアが言った。
「立ってると防犯カメラに不審者で映るから。座って」
「俺は客ではない」
「じゃあ何か買いなよ。コーヒーでもいいから」
刃は無言で棚に向かい、缶コーヒーを一本取った。ブラック、百三十円。レジに置く。
ユアがバーコードをスキャンした。
「百三十円」
刃は財布から正確に百三十円を出した。一円の過不足もない。
「……あんたは、ちゃんと払えるんだ」
「当然だ」
「あんたの弟にも教育してくれる?」
「だから、弟ではない」
イエヤスがフランクフルトを齧りながら口を挟んだ。
「刃、朝メシ食ってないんだろ」
「食べている。プロテインバーを摂取した」
「それ朝メシじゃねぇだろ」
刃はイートインスペースの椅子に、イエヤスから一席空けて座った。缶コーヒーのプルタブを開ける。
沈黙が落ちた。
イエヤスはおにぎりの三個目を食べている。ユアはカウンターに肘をつき、スマートフォンを眺めている。刃は缶コーヒーを啜っている。
三人の間に、会話はない。
だが不思議と、居心地は悪くなかった。
——いや。
刃は缶を強く握り締めた。居心地がいいと感じている場合ではない。復讐だ。殺意だ。神代烈火の血を引く男を潰すために、自分はここにいるのだ。
ユアが呟いた。目はスマートフォンに落としたまま。
「あんたも、イエヤスに振り回されてんのね。……おもしろいよね、コイツ」
「……生態調査だ」
「いいこと教えてあげる。ストーカーって言うんだよ、それ」
イエヤスが首を傾げた。
「ストーカーってなんだ?」
「お前は黙っていろ」
ユアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。すぐに消えたが、刃は見逃さなかった。
午前五時四十六分。窓の外が白み始めていた。
刃は缶コーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「……任務開始は九時だ。先に戻る」
「うす。じゃあまた後で」
「ユアさん、ごちそうさまでした」
自動ドアが開く。五月の朝の冷気が店内に流れ込んだ。
刃は一歩踏み出し、立ち止まった。振り返らずに言った。
「——瀬田。あの男のおにぎりを確保するのは勝手だが」
「なに」
「あと何人いる」
「は?」
「あの男の周りに、あと何人いるのかと聞いている。俺の知らない人間が」
ユアは数秒、黙った。
「知らないよ、そんなの。あたしはただのコンビニ店員だし」
「…………そうか」
自動ドアが閉まった。
刃は歩き出した。朝の空気が冷たい。ポケットに手を突っ込んだ瞬間、指先に硬い感触があった。
紫色の魔鉱石の欠片。四つ目。
いつ入れられたかも、全く分からない。
刃は欠片を握り締め、管理局の方角へ足を向けた。
背後で、コンビニの蛍光灯が白く光り続けていた。
◇◇◇
瀬田ユアは、自動ドアが閉まるのを見届けてから深い溜息をついた。
イートインスペースには、まだイエヤスが座っている。フランクフルトの棒をゴミ箱に捨て、席を立つところだった。
「ユアさん、すんません。あいつ、ちょっと面倒くさい感じの人で」
「ちょっと?」
「わりと」
「だいぶ、でしょ」
ユアはカウンターの裏に貼った付箋に目を落とした。
『イエヤス −10円(3回目)』
その横に、ボールペンで小さく書き足した。
『兄(仮) 缶コーヒー 済』
イエヤスが店を出ていく。自動ドアが閉まり、店内に静寂が戻った。
ユアはレジに肘をつき、白い天井を見上げた。
「——ほんと、次から次へと来るよね」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
シフト終了まで、あと十四分。
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