第42話 「女たらしの血」
護衛二日目。昼休み。
中層第八区画の安全スペースは、天井の高い横穴だ。壁面の発光鉱物が青白い光を放ち、地面には管理局が設置した簡易ベンチが並んでいる。
イエヤスはベンチにドカッと座り、リュックからコンビニの鮭おにぎりを取り出した。
だが、包装の海苔を剥がそうとした瞬間、横から手が伸びてきておにぎりを取り上げられた。
「待ちなさい。おにぎりは後」
「あ、凛」
凛が立派な三段重の弁当箱をイエヤスの膝にドンと置いた。
「ほら、お弁当。昨日も中層で体力使ったんだから、ちゃんとおかずから食べなさい。ご飯は多めにしてあるから」
「おおっ! マジか! 凛の弁当食ってから鮭食うわ! サンキュー!」
イエヤスは嬉々として弁当箱を開け始めた。
氷室刃はいつもの壁際——全員から距離を取った位置で、支給品の携行食を齧っていた。硬い。味がない。だが、余計な感情を排するには丁度いい。
午前の採掘は滞りなく終わった。あの「極限の絶技」を思わせる完璧なツルハシ捌きを今日だけで何百回と見せつけられ、刃の全身には十九年間の努力が揺さぶられる重い疲労感が溜まっていた。
昼休みくらいは、静かに思考を整理したかった。
だが、この異様なチームがそれを許さなかった。
「イエヤス、午後のスケジュール確認するわね」
藤村彩が安全スペースに入ってきた。片手にタブレット、もう片手にカフェオレの缶を持ち、当然のようにイエヤスの隣に座って缶をそっと置く。
続いて、つむぎが入ってきた。
「イエヤスさん。午前の採掘データをまとめました。打撃効率は九七・八パーセントでした。すごいです」
「よし」
つむぎがイエヤスの正面にしゃがみ込み、吐息がかかりそうな至近距離で画面を見せている。
最後に、あかりが入ってきた。
「イエヤスくん、キャッチ!」
「おう」
投げられたエナジードリンクを受け取るイエヤス。あかりはそのままイエヤスの後ろに回り込み、親しげに背後からカメラのアングルを確認し始めた。
刃は壁際から、その光景を見ていた。
携行食を噛む手が、完全に止まっていた。
イエヤスを中心に、四人の女が密集している。
彩がスケジュールを管理し、凛が栄養を管理し、つむぎがデータで効率を支え、あかりが世界に配信する。
四人全員が、それぞれの「もっともらしい仕事」を理由にして、イエヤスの半径一メートル以内に集まっている。
刃の中で、十九年間蓄積された『ある感情』が弾けた。
「——おい」
低く、ドス黒い声が安全スペースに響いた。
全員の視線が刃に集まった。イエヤスだけが鶏の照り焼きを頬張ったまま「ん?」と顔を上げた。
刃は壁から背中を離し、一歩前に出た。
「貴様——親父と同じように、その異常な力にあぐらをかき、女を周りに侍らせているのか」
安全スペースの空気が、一瞬で凍りついた。
「あの男も、こうやって複数の女を周りに置いて役割を振っていたと聞いている。採掘者の風上にも置けぬ最低のクズめ。この歳で既に四人とは——反吐が出る」
刃の声には、激しい怒りと嫌悪があった。
シリアスな殺気が場を支配する——かと思われた。
だが、凛が箸を置き、深く、非常に深くため息をついた。
そして彩と顔を見合わせ、無言で頷き合う。
「ちょっと氷室。ツラ貸しなさい」
「……何?」
立ち上がった凛と彩が、左右から刃の両腕をガシッと掴んだ。
二級探索者と一級採掘者の凄まじい膂力。刃が「なっ、貴様ら何を——!」と抵抗する間もなく、ズルズルと安全スペースの外の薄暗い横穴へと引きずり出されていく。
つむぎとあかりも、無言でそれに続いた。
「凛! 弁当喰わないなら全部もらっていいか?」
一人残されたイエヤスが不思議そうに声をかけたが、凛が「すぐ戻るから先食べてて!」と叫び、横穴の奥へと消えていった。
◇◇◇
安全スペースから少し離れた、イエヤスの声が届かない岩陰。
刃は、四人の女に完全に包囲されていた。
「誤解しないでほしいんだけど」
凛が腕を組み、刃を冷ややかな目でまっすぐ見下ろした。
「あの人は、弁当を渡しても『凛の卵焼きうまい』で終わり。それ以上の意味なんて、考えたことすらないのよ。あのバカは。そもそも――す、好きとかではないしね」
「左に同じ」
彩が淡々と言った。
「私はイエヤスの上司として業務上の確認をしてるだけ。部下に缶コーヒー渡すの、そんなにおかしい?」
だが、彩の目はほんの少しだけ泳いでいた。
「私の場合、イエヤスさんは鉱物学における最も貴重なデータ収集源です」
つむぎが眼鏡を押し上げて答えた。
「至近距離でのデータ取得は研究上不可欠であり、個人的な感情に基づく行動ではありません」
目は泳いでいなかったが、声が普段より早口だった。
「私はコンテンツクリエイターとして、最高の素材を撮ってるだけだよ」
あかりが笑顔で言った。
「面白い人がいるから撮る。仕事仕事」
笑顔だったが、あかりの視線は不自然に斜め上を向いていた。
四人全員が、それぞれ完璧に筋の通った「理由」を述べた。
全て正しい。全て論理的だ。一つも嘘はない。
だが——刃は探索者だ。潜入任務の座学で、対象者の微細な表情変化を読む技術を徹底的に叩き込まれている。
四人全員の目が、嘘を言っていた。
程度の差はある。だが、「仕事だから」「業務だから」「研究だから」「コンテンツだから」という四つの違う言葉が、全て『同じもの』を必死に隠している。
刃は四人の顔を順番に見た。
「……貴様ら」
声が、怒りから深い困惑に変わっていた。
「プライドは、ないのか」
凛が眉をひそめた。彩が目を逸らした。つむぎが小さく首を傾げた。あかりが笑顔のまま固まった。
「好意を一ミリも理解しない鈍感な相手に、毎日弁当を作り、コーヒーを買い、至近距離でデータを取り、カメラを回している。そしてその全員が『仕事だから』と自分に言い訳をしている。それを——恥ずかしいとは思わないのか」
岩陰が完全に静まり返った。
四秒。五秒。
凛が最初に口を開いた。
「……恥ずかしいと思ってるわよ。毎日」
彩が続いた。
「……うるさいわね。年下に言われたくないわ」
つむぎが小さく言った。
「……恥ずかしいという感情と、データの重要性は両立します」
あかりが引きつった笑顔で言った。
「……あはは。刃さん、空気読むの下手だね」
四人全員が、否定しなかった。
刃は——宇宙猫のような顔になった。
怒鳴れば否定してくると思った。「違う」と言い返してくると思った。だが、四人はあっさりと認めた。恥ずかしいと思いながら、それでもあの男の傍にいることを、認めたのだ。
刃の人生には、効率と目的と復讐しかなかった。恥ずかしいならやめればいい。未練があるなら断ち切ればいい。そうやって十九年間生きてきた。
なのにこの四人は、自分の感情を認めた上で、変わらずあの場所にいる。
理解が、できない。
「おーい、刃ー」
横穴の向こうから、のんきな声がした。
四人の包囲網がサッと解け、刃がフラフラとした足取りで安全スペースに戻ると、イエヤスが弁当を食べ終えていた。
「お、戻ったか。なんか腹減ってイライラしてんだろ。親父も腹減るとすぐ丸太投げてきたしな。ほら、鮭おにぎり一個やるよ。俺弁当食って腹いっぱいになったから」
親父への復讐鬼として殺気を放っている相手に、腹が減っているから怒っているのだと解釈し、餌を与えるような無頓着さ。
イエヤスにとって、凛の弁当も、彩のコーヒーも、つむぎのデータも、あかりのカメラも、ただの「うまい飯」であり「いつもの風景」でしかない。
だからこそ、四人は安全にあそこにいられる。告白もされず、拒絶もされず、「仕事だから」という言い訳が永遠に機能し続ける。
奇跡的なバランスで成り立つ、最悪の均衡だった。
これ以上この異様な空間で論理的な反論を試みるのは無駄だと、刃の生存本能が悟った。
「……ッ」
刃は無言でおにぎりを受け取った。
海苔を剥がす。一口齧る。
鮭。塩気。米。百二十円の、何の変哲もない味。
——不味くはなかった。
「あの親父の息子だ。女たらしの血だ」と断じたかった自分の怒りが、急速に行き場を失って溶けていく。
これは女たらしではない。ただの天然の災害だ。
「なんなんだ、これは……」
壁際で鮭おにぎりを齧りながら、刃は誰にも聞こえない声で呟いた。
答えは、もちろん返ってこなかった。
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