第41話 「復讐鬼とバカ」
午前九時四十分。ダンジョンゲートを抜け、中層へ続く薄暗い通路を歩く。
先頭にイエヤス。右後方に凛、左後方に氷室刃。後方につむぎとあかり。
刃は前を行くイエヤスの背中を鋭く睨みつけ、口を開いた。
「イエヤス」
「うす」
「ゲート前での話を覚えているか。俺が——あの男を叩き潰すと言ったことを」
「ああ、言ってたな。で、今日の区画どこだっけ」
殺意が、見事に空振りした。
刃は思わず足を止めかけたが、イエヤスは振り返りもせず歩き続ける。
「……聞いていたのか」
「聞いてたよ。刃が親父嫌いなのはわかった。で、第八区画の奥って昨日の続きからっすか?」
話題がすでに採掘に戻っている。
十九年越しの復讐の宣言が、こいつの中では「聞いた。わかった。で、次」という事務処理レベルで片付けられている。
激しい怒りを感じるべき場面のはずだった。だが、持っていき場がない。
無視されているのではない。話はちゃんと聞いている。聞いた上で、こいつの中で何一つ変わらないのだ。
凛が後方から、小さく呟いた。
「慣れなさい。あれが通常運転よ」
「……助言は求めていない」
刃の低い声に、凛は「忠告よ」と深くため息をついた。
◇◇◇
中層第八区画。
イエヤスが足を止め、ツルハシを下ろして壁に右手を当てた。
「ここだ。この裏に、すげー重くて太い音がする」
イエヤスが目を開け、ツルハシを構えた。
刃は三メートル後方で観察態勢に入る。
——カンッ。
最初の一撃。音が違った。
重く、芯があり、余韻が澄んでいる。金属が岩を叩く音ではなく、ツルハシの全エネルギーが岩盤の急所に「抜ける」音。
——カンッ。カンッ。カンッ。
一定のリズム。だが、刃の鍛え抜かれた目が捉えたのはその奥だ。
肩の回転半径が、一撃ごとにミリ単位で変わっている。壁面の硬度の変化をインパクトの瞬間に感知し、次の一撃の角度をコンマ数ミリ修正している。
下半身からの捻り。足裏からツルハシの先端へと、エネルギーが一本の美しい線として伝達され、途中で力が全く逃げていない。ロスが、ゼロだ。
刃の心臓が、異様に速く打ち始めた。
(——知っている)
神代烈火の戦闘理論——『極限の絶技』。
刃が養成学校の資料室で擦り切れるほど見た、一撃で深層級モンスターの装甲を両断する伝説の身体操作。
それが今、目の前で振るわれるツルハシの中にあった。
いや、三十年前の粗い映像よりも遥かに滑らかだ。マグマの横で素振り三千回。幼少期からの狂ったような反復訓練だけが到達できる領域。その全てが、この一撃一撃に圧縮されている。
——カァンッ!
壁が大きく割れ、濃い紫色の巨大な結晶層が露出した。
「おお! デカいのキタ!」
イエヤスがツルハシを置き、子供のように目を輝かせる。
(……ただ石を掘るためだけに、使っている)
刃の拳が、白くなるほど強く握り締められていた。
自分が十九年間、血を吐くような努力で追い続けた技。烈火を超えるための到達目標。
それをこの男は、戦場ではなく採掘場で、敵を斬るためではなく石を掘るために使っている。しかも本人は、それがどれほど途方もないことか微塵も自覚していない。
怒りでも、悔しさでもなかった。
自分の十九年間が想定すらしていなかった場所に「正解」があったという、圧倒的な脱力感だった。
「なぁ、刃」
イエヤスが振り返った。親指の先ほどの魔鉱石の欠片を差し出してくる。
「やる」
「……いらない」
刃は即答した。
「そうか」
イエヤスはそれだけ言って、欠片を自分の作業着のポケットにしまった。
怒らない。「なんでだよ」もない。断られたことをそのまま受け入れて、次の瞬間には壁を撫でて新しい鉱脈を探し始めている。
この男には、拒絶が刺さらない。好意を押し付けもしなければ、拒否に傷つきもしない。
憎む相手には、反応がほしい。怒りでも恐怖でもいい。自分の感情が届いている手応えがなければ、憎しみは空を切る。
イエヤスは、刃の殺意を受け止めもしなければ弾きもしない。ただ、そこに存在しないかのように通り過ぎていく。
十九年間研ぎ澄ませた名刀で、水面を斬っている感覚だった。
◇◇◇
午後五時。帰還。
ダンジョンゲートを出て、管理局のロビーに戻った。
イエヤスが更衣室に向かう。凛がミーティングルームへ。つむぎが研究室へ。あかりが編集室へ。それぞれの場所に散っていく。
刃は報告書を書くためにデスクに向かった。
椅子に座り、万年筆を取り出す。報告書のフォーマットを広げる。
——書けない。
「護衛対象の採掘技術は極めて高い」。それはそうだ。だが、その一文では到底収まらないものを、今日は見てしまった。
万年筆を置いた。両手を組み、デスクに額をつけた。
十九年間、烈火を超えるためだけに剣を振ってきた。その烈火の技が、目の前で——ツルハシとして完成されていた。しかも本人は、それを「すげー石が掘れた」程度の認識で振っている。
自分の十九年間は、何だったのか。
その問いに、まだ答えが出ない。
「氷室さん」
声がした。顔を上げると、つむぎが立っていた。タブレットを抱えている。
「……何だ」
「今日の採掘データの速報です。氷室さんも護衛チームの一員ですので、共有しておきます」
つむぎがタブレットの画面を見せた。数値とグラフが並んでいる。
「午前の打撃効率は九七・三パーセント。午後は九八・一パーセント。午後のほうが数値が高いのは、壁の岩質に慣れたためと推測されます。一般的な三級採掘者の平均が六二パーセントですので、比較になりません」
「…………」
「なお、打撃リズムの中に三十撃周期で〇・二秒の揺らぎがあることを確認しました。岩盤内部の構造変化に対する無意識の適応と見られます。氷室さんも気づいていましたか?」
刃は、つむぎの目を見た。感情のない、純粋にデータに向き合う目。この女は、刃の感情など一切気にしていない。ただ、事実を共有している。
「……気づいていた」
「やはり。探索者としての観察眼ですね。凛さんも同様の指摘をしていました。では」
つむぎは一礼して去っていった。
刃は再びデスクに向き合った。
報告書のペンを取る。今度は、書けた。
『護衛対象の採掘技術は事前情報を大幅に上回る。身体操作の体系は特級探索者・神代烈火の技術理論と同一であり、かつ採掘という特化した領域において高度に最適化されている。打撃効率は一般採掘者の一・五倍以上。無意識領域での岩盤適応を含め、この技術水準を独学で到達したとは考えにくく、幼少期からの反復訓練によるものと判断する。引き続き観察を継続する』
ペンを置いた。
ポケットに手を入れた。
——冷たいものが、指に触れた。
取り出す。紫色の魔鉱石の欠片。親指の先ほどの大きさ。午後にイエヤスが掘り出した青みがかった結晶とは違う。午前に出た、濃い紫色の欠片。
断ったはずだ。「いらない」と言った。イエヤスは「そうか」と言ってポケットにしまった——自分のポケットに。
なのに、それが今、刃のポケットに入っている。
いつ入れた。
昼休みか。午後の採掘中か。帰りの通路か。記憶にない。気配もなかった。あの男は、拒否された石を、黙って刃のポケットに滑り込ませた。
「やる」と言って断られたから、今度は言わずに渡した。それだけのことだ。おそらく深い意図はない。余った石があったから、隣にいた人間のポケットに入れた。犬が拾った棒を飼い主の足元に置くのと同じ原理だろう。
刃は欠片を掌の上に載せた。紫色の光が、蛍光灯の下で微かに明滅している。
冷たい。硬い。小さい。
捨てればいい。
刃は十秒ほど欠片を見つめた。
デスクの引き出しを開けた。引き出しの奥——文房具の裏に欠片を置いた。
保管しているわけじゃない。ただ、まだ判断を保留しているだけだ。
刃はそう自分に言い聞かせて、報告書をファイルに挟み、管理局を出た。
三月の夜風が冷たかった。
明日もあの男の隣で、あのツルハシの音を聞くのかと思うと、感情の置き場がなかった。
殺意は——まだ、ある。あるはずだ。
ただ、今日一日で「虚無」という名前の霧が、その殺意の輪郭を少しだけ曖昧にし始めていた。
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