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第40話 「氷室刃」

朝八時。東京ダンジョン管理局、三階会議室。


 藤村彩は机の上に広げられた一枚の辞令書を見つめていた。紙コップのコーヒーはまだ一口も飲んでいない。


『中層活動強化に伴う追加護衛要員の配置について。二級探索者・氷室ひむろじん(登録番号S-2-0699)を、三級採掘者・イエヤスの中層活動時における追加護衛として派遣する。期間は当面の間とし、早瀬凛(二級探索者)との二名体制で任務にあたること——』


 ダンジョン庁からの正式な派遣命令。

 だが、彩の眉間には深い皺が刻まれていた。辞令書の内容ではない。この辞令が出された『経緯』に引っかかっている。


 氷室刃。十九歳。二級探索者。

 探索者養成学校を首席で卒業し、実力は既に一級に匹敵すると評される若手筆頭。冷静沈着、品行方正、任務遂行率は百パーセント。書類上は非の打ち所がない完璧な人材だ。


 問題は、この男が『自ら志願してきた』という点。


 追加護衛の枠は、ダンジョン庁が候補者リストから機械的に選定するのが通常だ。本人が志願して特定の対象の護衛に就くことは規則上可能だが——極めて稀である。


「志願理由が『対象の戦闘技術に関する調査および評価』……ね」


 彩は冷めたコーヒーを一口飲んだ。

 配信動画を見て、イエヤスの異常な身体操作に興味を持った。探索者としての純粋な学術的関心。辞令書に添付された志願書には、そう書かれていた。


 嘘ではないだろう。嘘ではないが、それが『全部』でもない。


 彩は氷室刃の経歴ファイルをもう一度開いた。

 母子家庭。母親の旧姓は氷室。父親の欄は——空白。

 養成学校の入学時から「氷室」の姓を使用している。


 父親の欄が、空白。

 そして、あの神代烈火かみしろれっかの無茶苦茶な女性遍歴。


「…………」


 彩は無言でファイルを閉じた。

 まだ確証はない。だが、もしこの推測が正しいなら——この派遣は、単なる護衛任務などでは絶対に済まない。


 会議室の重いドアが、三回、正確にノックされた。



          ◇◇◇



 ドアが開く前に、空気が変わった。


 凛は一階ロビーのソファに座っていたが、階段を降りてくる足音を聞いた瞬間に立ち上がっていた。聞き覚えのある足音。規則正しく、一切の無駄がなく、床を踏む音が異様に小さい。


 階段の角から、黒いハイネックの戦闘服を着た青年が姿を現した。

 細身だが、隙のない体躯。腰には細身の長剣。切れ長の目は氷のように冷たく、前髪が少しだけかかっている。


 受付の女性職員二人が同時に息を呑んだのが、凛の耳にもはっきりと聞こえた。


 氷室刃。


 養成学校時代の同期。卒業試験の総合成績一位。剣術の実技だけなら凛が上回ったが、座学を含めた総合評価で逆転された、因縁の相手。

 互いの実力は深く認めている。だからこそ、絶対に距離が縮まらない。


「……久しぶりね、氷室」

 凛が腕を組んで言った。


「ああ」

 刃の声は低かった。凛と同じ十九歳だが、声にも瞳の奥にも、年齢以上の鋭く冷たい棘がある。


「追加護衛の志願、あんたがしたって聞いたけど」

「そうだ」

「理由は?」

「辞令書に書いた通りだ」


 凛は三秒ほど刃の目を見つめた。嘘をついている目ではない。だが、全てを語っている目でもない。


「……まあいいわ。任務中は連携を取って。足を引っ張らないでね」

「それはこちらの台詞だ」


 ロビーの気温が確実に二度ほど下がった。受付の職員が「こわっ……でも二人とも顔いい……」と小声で呟いている。



          ◇◇◇



 九時十五分。ダンジョンゲート前の広場。


 イエヤスは今日も泥だらけの作業着にツルハシという出で立ちで、ベンチに座って鮭おにぎりを食べていた。隣にはつむぎがタブレットを操作しており、少し離れた場所であかりがカメラの設定をいじっている。


「イエヤスくん、今日から護衛が増えるんだよね?」

 あかりがレンズを拭きながら聞いた。


「うす。彩さんから聞いた。なんか強い人が来るらしいっすね」

「二級探索者だって。凛ちゃんの同期の——」


 あかりの言葉が途切れた。

 広場の向こうから、二つの人影が並んで歩いてくる。凛と、その隣に——黒い戦闘服の青年。


 朝の光の中で、氷室刃の顔がはっきりと見えた。

 整っている、という表現では足りない。造形そのものが鋭利だ。冷たい切れ長の目、スッと通った鼻筋、薄い唇。


 あかりが小声で「うわ、イケメン……」と呟いた。つむぎがタブレットから顔を上げ、二秒ほど刃を観察してから「客観的に見て、極めて整った顔立ちですね」と平坦に評価した。


 刃はまっすぐ歩いてきて、イエヤスの前でピタリと足を止めた。

 氷のような目が、イエヤスを真っ向から射貫いた。


「三級採掘者・イエヤス」

「うす」


 イエヤスがおにぎりを頬張りながら、のんきに顔を上げた。


「本日より追加護衛を務める。二級探索者・氷室刃だ」

 刃の声は低く、ひどく抑制されていた。


「——お前が、神代烈火の息子か」


 空気が一変した。

 凛の手が反射的に剣の柄に触れた。つむぎのタブレットを持つ手が止まる。あかりのカメラが、無意識に刃の顔を捉えた。


 イエヤスだけが、全く変わらなかった。


「うす。親父を知ってるんすか?」

「知っている」


 刃が一歩、前に出た。


「——俺の父親でもあるからな」


 沈黙。

 ダンジョンゲートから漏れ出す冷たい風が、広場を横切った。


「……は?」

 最初に間抜けな声を出したのは、あかりだった。


 凛は眉をひそめたまま動かない。つむぎが高速でタブレットに何かを入力し始めた。

 イエヤスは五秒ほど沈黙した。おにぎりの最後の一口をごくりと飲み込み、口を開いた。


「へー。兄弟か」


 それだけだった。

 驚いてはいる。だが、それ以上でもそれ以下でもない。「今日の天気は晴れか」と同じ温度で、「兄弟か」と言い切った。


 刃の眉が、微かに動いた。

 想定していた反応ではなかった。敵意。警戒。動揺。あるいは涙。そのどれかが返ってくると思っていた。十九年間抱えてきた暗い感情に対して、何らかのシリアスな反応があるはずだと。


 だが、目の前の男は——おにぎりの空き袋をポケットにしまいながら、ただ「へー」と言っただけだった。


「……それだけか」

 刃の声に、苛立ちが混じった。


「それだけって?」

「俺は、お前の腹違いの兄だと言っている」

「聞いた。で?」

「『で?』だと……!?」


 刃のこめかみが引きつった。


「……いいだろう。ならば正確に言ってやる」


 刃は腰の長剣の柄に手をかけた。声が、さらに低く、ドス黒くなった。


「俺の母親は、あの男——神代烈火の女の一人だった。俺が物心つく前に、母は烈火の異常性を見抜いて逃げた。戦闘しか頭にない。女を使い捨てにする。人間としてまともに付き合える相手じゃないと——母はそう判断した」


 広場の空気が限界まで重くなった。刃の声には、十九年分の感情が静かに、だが確かに詰まっている。


「俺は、あの男を絶対に許さない。あの男の血と、あの男の技と、あの男がこの世に残した全てを——」


 刃の視線が、イエヤスのツルハシに落ちた。


「——叩き潰すために、俺は強くなった」


 完全なる宣戦布告。

 凛が剣の柄を握り直した。つむぎが立ち上がった。あかりはカメラを下ろした。全員が、次のイエヤスの反応を待っている。


 イエヤスは——首を傾げていた。


「お前の母ちゃん、親父から逃げたのか」

「……そうだ」

「逃げ切れたのか?」

「……逃げ切った」

「すげぇな」


 イエヤスの声に、純粋な感心があった。


「俺なんて逃げられなかったからな。毎朝五時に叩き起こされて、山ん中で丸太避けさせられて、冬は滝に突っ込まれて、飯は自分で獲った魚だけで、たまに崖から落とされて——」

「……おい」

「——マグマの近くで素振り三千回とか、洞窟で三日間寝ないで鉱脈探しとか、マジで頭おかしいぞあの人。俺が七歳の時なんか——」

「待て」


 刃が手を上げて遮った。顔色が真っ青に変わっている。


「……本気で言っているのか」

「本気だけど。なんで?」

「七歳の子供にマグマの近くで素振りを——」

「三千回な。左右で」

「…………」


 刃は完全に言葉を失った。

 自分の母親は、正しかった。あの男から逃げたのは、完全に正しい判断だった。逃げなければ、自分もこの男と同じ目に遭っていた。


 マグマの周辺で素振り三千回。七歳で。左右で。

 いや、マグマに何の意味がある?


 背筋が凍った。


「お前の母ちゃん、天才だな。見る目あるわ」


 イエヤスが心の底から感心している。地獄の修行をさせられた側が、それを免れた側の母親を褒めている。価値観の軸が根本から違う。

 刃は、自分の「悲壮な復讐宣言」が一体どこに着地したのか、まったくわからなくなっていた。


「——で」


 イエヤスが、刃の顔をまっすぐ見た。


「お前、めちゃくちゃ顔いいな」


 真顔だった。


「肌に傷一つないし、目とか鼻のバランス完璧だし。親父に殴られてないから顔が綺麗なのか。いいな。電車のテレビで見たけど、顔が良いとモテるんだろ?」

「…………」

「モテないのか?」

「知らん。気にしたことなどない!」

「……そっかぁ。モテる方法を聞こうと思ったんだけどな。まぁいいや。よろしくな、刃」


 イエヤスが右手を差し出した。

 握手。殺意を向けた相手に対して、握手を求めている。特別扱いも遠慮もなく、ただ「よろしく」と。


 兄弟だから、ではない。新しく来た護衛だから「よろしく」。それだけだ。こいつにとって、兄弟であることはおにぎりの具と同じくらいの情報量でしかない。


 刃は差し出された手を五秒ほど見つめた。

 握らなかった。


「……俺はお前を認めたわけではない。実力を見るまでは、何も言うことはない」

「うす。じゃあダンジョン入ってから見てくれ。今日の区画、壁の音がいい感じなんだ」


 イエヤスが手を引っ込めて、ツルハシを担いだ。何も気にしていない顔だった。握手を拒否されたことすら、たぶん三秒後には忘れている。


 背後で、凛が深く額を押さえていた。

「……知ってた。こうなると思ってた」


 つむぎが超高速でタブレットに入力している。

「氷室刃。神代烈火の長子。つまりイエヤスさんの異母兄。宣戦布告から握手の打診までの所要時間、五分二十三秒。イエヤスさんの対人無効化能力——血縁者にも完全に有効と確認」


 あかりは両手で口を押さえていた。カメラは回していないが、目が過去最高に輝いている。

「やばい……やばいやばいやばい……兄弟だったの? しかもクール系イケメンの? これ配信したら百万再生どころじゃないんだけど……!!」


 彩が遅れて広場に到着し、その異様な状況を一瞬で把握して、天を仰いだ。


「……やっぱり、そういうことだったのね」


 彩は無言でポケットから胃薬を取り出し、これから中層に入るというのに、水なしで飲み込んだ。




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