第39話 「彩の酒」
夕方六時。中層での採掘を終えたイエヤスが、管理局の更衣室で作業着を脱いでいた。
泥と鉱石の粉で白かったはずのシャツは完全に灰色になっている。左腕の包帯は今日も交換が必要だ。シャワーを浴びて着替えると、ロッカーの上に置いたスマホが震えた。
彩からのメッセージ。
『今日、時間ある? 屋上で少し話したいことがあるんだけど』
イエヤスは三秒ほど画面を見て、「うす」とだけ返信した。
話したいこと。なんだろう。明日の採掘スケジュールか、それとも管理局の面倒な書類関係か。まあ、行けばわかる。
イエヤスは濡れた髪をタオルで雑に拭きながら、屋上へ続く階段を上った。
◇◇◇
管理局ビルの屋上。
三月の夕暮れは空気が冷たい。東京の街並みがオレンジ色に沈み、遠くのダンジョンゲートを囲むビル群がシルエットになっている。
フェンス沿いのベンチに、藤村彩が一人で座っていた。
隣に缶コーヒーが二本。片方はブラック、もう片方は甘いカフェオレ。
彩は自分の缶——ブラックのほうを開けて、一口飲んだ。苦い。
今日は本当は酒が飲みたかった。度数の高いストロング缶でもあれば、もう少し楽に切り出せる気がする。
でも相手は未成年だ。仕事終わりに未成年を呼び出して、自分だけ酒を飲むわけにもいかない。
屋上の重い鉄のドアが開いた。
「彩さん、来たっす」
イエヤスがタオルを首にかけたまま歩いてくる。髪はまだ半分濡れている。シャワー上がりの、妙に清潔な姿が逆に違和感がある。この男には、いつだって泥だらけのほうが似合う。
「座って。はい、これ」
彩がカフェオレを差し出すと、イエヤスは「うす」と受け取って隣にドカッと座った。プルタブを開ける音が、静かな屋上に響く。
「甘っ。うまい」
「そう。よかった」
沈黙。
彩は缶コーヒーを両手で包んだ。指先が冷たい。三月の風が髪を揺らす。
——言わなきゃ。
今日こそ、絶対に言わなきゃいけない。
藤村彩、二十二歳。東京ダンジョン管理局・一級採掘者。イエヤスを採掘者として受け入れた張本人であり、現在彼のチームを統括する責任者。
そして——あの『嘘』をついた人間。
半年前。ダンジョン管理局の受付で、採掘者志望の純粋な少年に言った言葉。
『採掘者はモテるよ』
真っ赤な嘘だ。
採掘者はモテない。業界の常識として、探索者に比べて地味で、給料も低く、危険な割に華が一切ない。合コンで「採掘者です」と言えば、大抵の女性は苦笑いしてフェードアウトする。それが現実だ。
あの日、彩は万年人手不足の採掘枠をなんとか埋めるために、目の前の少年にでたらめを言った。
『モテる』という、たった一言の嘘で、イエヤスの人生を決定づけてしまった。
結果的に、イエヤスは毎日楽しそうにしているが、だからといって、嘘が嘘でなくなるわけではない。彼を危険な中層——ひいては深層の死線へ送り込んでいる動機が、「私のついたしょうもない嘘」である事実に変わりはないのだ。
彩は深く、長く深呼吸した。
「イエヤス」
「うす」
「あんたに——謝らなきゃいけないことがある」
声が、少し震えた。自分でも驚くくらい。
イエヤスがカフェオレの缶から口を離して、彩の顔を見た。真剣な表情が珍しかったのか、少しだけ目を丸くしている。
「謝る? 彩さんが? 俺なんかされたっけ」
「……した。私が、あんたに」
彩は膝の上で拳を握った。
「あの時——あんたが初めて管理局に来た日。『採掘者はモテるよ』って言ったの、覚えてる?」
「もちろんっすよ。あれで俺、採掘者になったんすから。彩さんのおかげっす」
笑顔。まっすぐな、一片の曇りもない笑顔。
彩の胸が激しく痛んだ。
言え。言うんだ、藤村彩。お前はこの少年に嘘をついた。その嘘のせいで、この子は命を懸けてダンジョンに潜り、深層級のバケモノと戦い、血だらけになった。
お前の身勝手な一言が、全ての始まりだったんだと。
彩は覚悟を決め、口を開いた。
「あの時、『採掘者はモテるよ』って言ったのは——」
——ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。
盛大な、信じられないほど間の抜けた音が、夕暮れの屋上に響き渡った。
イエヤスの腹の音だった。
沈黙。
三月の冷たい風が吹いた。
「…………」
「…………あ、ごめん。腹減ってて。続けて」
イエヤスが申し訳なさそうに腹を押さえている。耳が少し赤い。
「……いや」
彩は額に手を当てた。
「無理でしょ。今の空気で続けられないでしょ!」
「いや、大丈夫っすよ。俺ちゃんと聞いてるから」
「大丈夫じゃないの! こっちのメンタルの問題なの!」
彩は天を仰いだ。東京の空は薄い紫色になっている。一番星が瞬いていた。
——なんで。なんでこの男は、毎回毎回こうなるんだ。
特級探索者の血筋には、シリアスな空気を根本から破壊する呪いでも組み込まれているのか。
「……お腹空いてるなら、先にご飯食べなさいよ」
「いや、彩さんの話が先っす。すげー大事な話なんすよね?」
「大事だけど……もういい。今日はもういいわよ……」
彩は立ち上がって、フェンスに寄りかかった。ぬるくなった缶コーヒーの最後の一口を飲み干す。
「また今度、ちゃんと話すから」
「うす。いつでも聞くっすよ」
イエヤスも立ち上がった。空になったカフェオレの缶を丁寧に潰して、ポケットに入れる。
「彩さん」
「なに」
「なんか、ありがとうございます」
「……何に対してのお礼よ」
「わかんないっすけど。彩さんがすげー真剣な顔してたから、俺のことちゃんと考えてくれてんだなって。それが、なんか嬉しくて」
彩は振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん顔がぐちゃぐちゃになっているのを隠せないから。
「……早くご飯食べに行きなさい」
「うす」
イエヤスの足音が遠ざかる。屋上の重いドアが開いて、閉まる。
一人になった屋上で、彩は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
「……言えなかった……っ」
声が、少しだけ掠れていた。
◇◇◇
翌日。
彩は決意した。今日こそ言う。昼休みに、休憩室で、二人きりの時に。
昼の十二時十五分。休憩室にイエヤスがいる。鮭おにぎりを食べている。完璧なタイミング。彩は深呼吸をして、向かいの椅子に座った。
「イエヤス。昨日の続きなんだけど」
「あ、はい。なんすか」
「あの日、私があんたに言った——」
——ぶっくしゅんっ!!
イエヤスが盛大にくしゃみをした。おにぎりの米粒が一つ、テーブルの真ん中に飛んだ。
「ぶっ……すんません。今日、中層やけに寒かったんで」
「…………」
彩は五秒間、無言でイエヤスを見つめた。
「……なんでもない」
「え、いいんすか? 大事な話……」
「いいの」
◇◇◇
翌々日。
今度は中層第八区画の安全スペースで。採掘の合間。二人きり。条件は完璧だ。
「イエヤス。大事な話が——」
「イエヤス! ちょっとこっち来なさいよ!」
彩の言葉を遮って、凛の声が安全スペースに響いた。
振り返ると、凛が小走りでこちらに向かってくる。手には重箱のような立派な弁当箱が抱えられている。
「あ、凛! 弁当食っていいのか!?」
「つ、作りすぎたから仕方なくよ! ほら、食べなさい!」
「やった! 卵焼き入ってる! サンキュー凛!」
「イエヤスさん、その前に汗を拭いてください。そのままでは風邪を引きます」
凛の背後から現れたつむぎが、清潔なタオルを取り出してイエヤスの首元に背伸びしながら押し当てる。
「おっ、すまんつむぎ。助かる」
「ちょっと二人ともズルい! イエヤスくん、今の掘りすっごい良かったからサムネ用に笑顔頂戴!」
あかりが小型カメラを構えながら、イエヤスの顔のドアップを撮りに回り込む。
「おー、撮るか? こうか?」
「そうそう! その無邪気な感じで!」
三人の少女に一瞬で取り囲まれ、イエヤスは「おっ」「うめぇ!」「撮るか!」と大忙しだ。
彩は少し離れた岩の上に座ったまま、そのあまりにも騒がしい光景をぼ然と見つめた。
——三回目。
三回連続で、懺悔が中断された。
一回目は腹の音。二回目はくしゃみ。三回目は……この、絵に描いたようなラブコメ展開。
彩は膝を抱えて、小さく息を吐いた。
(言えない……)
いや、違う。言う必要が、もうないのかもしれない。
『採掘者はモテる』。半年前、私がついたあの嘘。
でも、今目の前で三人の美少女に囲まれ、甲斐甲斐しく世話を焼かれ、満面の笑みを浮かべているあのバカの姿は——どう見ても『モテている』。
配信の画面の向こうには何万人というファンもいる。
結果的に、私の嘘は、本当になってしまったのだ。彼自身の規格外の才能と、真っ直ぐな努力によって。
今さら私が「あれは嘘だったの」と深刻ぶって打ち明けたところで、あのバカを混乱させるだけだ。そもそもモテるということがどういうことが理解していない。
それよりも大事な事は、イエヤス自身及び周りの人々の誰もが幸せそうに見えることだ。なら、自己満足の贖罪をして、波風を立てる必要は無い。
自分の罪悪感は自分で片をつければいい。
彩は少しだけ肩の力を抜いた。
このまま、彼がどこまで行くのか見守ろう。そう思えた。
ただ。
凛が作った甘い卵焼きを頬張って「うまっ!」と笑うイエヤスを見て。
つむぎに腕の泥を拭いてもらい、あかりのカメラに無邪気にピースサインを向ける姿を見て。
彩の胸の奥が、ほんの少しだけ、チクッと痛んだ。
(……なんか、ちょっと面白くないわね)
自分が拾って、自分が育てた、手のかかる可愛い後輩が。
自分以外の女の子たちとキャーキャー言いながらイチャイチャしている。
このモヤモヤはなんだろう。保護者としての寂しさか。それとも——。
「彩さーん! 凛の卵焼き、一個食うっすか!?」
「いらないわよ! さっさと食べて次の区画行くわよ!」
彩は立ち上がり、パンパンとズボンの土を払って歩き出した。
◇◇◇
その日の夜。管理局の誰もいないオフィス。
自分のデスクで、彩は引き出しの奥から小さなガラス瓶を取り出した。
日本酒のワンカップ。残業で限界を迎えた時用の、非常用アルコールだ。未成年のバカがいないところなら、飲んでもいいだろう。
プルタブを開け、一口飲む。喉がカッと熱くなる。
デスクの上のモニターには、あかりのチャンネルの今日の配信アーカイブが映っている。
イエヤスが三人の少女に囲まれて嬉しそうにしているシーン。
コメント欄は『イエヤスくん両手に花じゃん』『ついにモテ期到来か』『特級の血すげー』『てか彩さんは完全に保護者枠だなw』という文字で埋まっている。
彩はモニターをキッと睨みつけ、もう一口日本酒を煽った。
「……保護者で悪かったわね」
ドン、と瓶を机に置く。
嘘がバレるかもしれないという罪悪感は、すっかり消えた。その代わりに、なんとも言えない別のモヤモヤが胸の奥に居座っている。
「……明日会ったら、ちょっとだけしごいてやろ」
誰もいないオフィスで、彩は赤くなった頬を冷たい手のひらで押さえた。
───────────────────




