第38話 「あかりの企画会議」
朝十時。東京ダンジョン管理局の休憩室で、伊吹あかりはスマートフォンの画面を睨みつけていた。
受信トレイに届いた一通のメール。
件名:【ご面談のお願い】株式会社スターブリッジ・タレントマネジメント事業部
本文には丁寧な言葉が並んでいる。要約すると、こうだ。
——イエヤス氏を弊社所属タレントとしてマネジメントさせていただきたい。配信プロデュース、テレビ出演交渉、グッズ展開を含む包括契約。初年度の最低保証金として、年間二千四百万円を提示。
二千四百万。
あかりは数字のゼロを三回数え直した。
月二百万の固定給。あかりの現在のチャンネル収益は、スパチャが爆発した月でも四十万がいいところだ。その六倍。しかも保証金だから、再生数が落ちても必ず支払われる。
「……マジか」
あかりはスマホをテーブルに伏せて、天井を見上げた。
伊吹あかり、20歳。
元々は動画編集のフリーランスで、クライアントのつまらないPR動画をこなしながら自分のチャンネルを細々と育ててきた。登録者は三万人で頭打ちになり、ダンジョン系の配信に手を出したのが半年前。
そこで、あの馬鹿に出会った。
最初はただの「ちょっと面白い素材」だった。泥だらけの少年がツルハシを振る映像は、それだけで数字が取れた。浅層の戦闘配信で五百万再生。中層の緊急配信で二千万再生。今やチャンネル登録者は八十七万人を超え、あかりの人生で最も大きな数字と金が動いている。
その数字に、業界最大手の芸能事務所が食いついた。
「あかりちゃん、朝から難しい顔してどうしたの?」
彩が缶コーヒーを二つ持って入ってきた。片方をあかりの前に置く。
「彩さん。これ、見てもらっていいですか」
あかりがスマホを差し出すと、彩はコーヒーを一口飲んでから画面を覗き込んだ。五秒ほどで、一級採掘者の顔色が変わる。
「スターブリッジ……業界最大手じゃない。年間二千四百万の保証って、冗談抜きで本気ね」
「ですよね」
「で、あかりちゃんはどうしたいの?」
「それが……わかんないんです」
あかりは缶コーヒーに両手を添えた。温かい。
「数字だけ見たら、受けない理由がないんですよ。プロのプロデューサーがついて、テレビの露出が増えて、公式グッズも出る。登録者百万なんて来月には届く」
「でも?」
「でも——」
あかりは言葉を探した。
「事務所が入ったら、たぶんイエヤスくんは『商品』になります。台本ができて、撮影スケジュールが組まれて、『今日はこの鉱石を掘ってください』みたいな指示が出る。血まみれの作業着はNGになって綺麗な衣装を着せられるし、あの意味不明なコメントの返し方も『正解』を練習させられる」
彩は黙って聞いている。
「今のイエヤスくんの配信って、全部がリアルじゃないですか。壁に耳あてて『ここ掘る』って言って、本当に掘る。バケモノが来たら本気で戦う。おにぎり食べてる時は本当にお腹空いてる。あの嘘のない空気って、大人が計算して作れるもんじゃないんですよ」
あかりの声に、少しだけ熱がこもった。
「視聴者が観てるのは、作られたコンテンツじゃなくて、『イエヤス』っていう一人のバカな人間なんです。そこに台本を入れた瞬間、たぶん全部壊れる」
彩はコーヒーの空き缶をゴミ箱に投げ入れ、小さく笑った。
「あかりちゃん、もう答え出てるじゃない」
「……出てます?」
「出てる。ただ、二千四百万という大金を蹴る勇気がまだ足りないだけでしょ」
図星だった。あかりは唇を噛んだ。
「……本人に聞いてみます」
「うん。それがいいと思う。——まあ、あのバカの答えなんて聞かなくても分かるけどね」
◇◇◇
昼休み。中層第八区画の安全スペースで、イエヤスは岩肌に背中を預けて座り、鮭おにぎりを食べていた。
今日もユアの店で無事に買えたらしい。
「イエヤスくん、ちょっと話があるんだけど」
あかりが隣に座る。カメラは回していない。イエヤスはおにぎりを頬張りながら「うす」と応じた。
「あのさ、大手の芸能事務所から連絡が来てて。イエヤスくんをタレントとして売り出したいって」
「タレント?」
「テレビに出たり、グッズ作ったり。お金もかなり入る」
イエヤスはおにぎりを咀嚼するのを止め、目を輝かせた。
「よくわかんないっすね。今よりモテるってことすか?」
「……まあ、たぶん。死ぬほどモテると思う」
「マジか! 死ぬほど……」
あかりの胸が、ズキッと痛んだ。
(そっか。……そうだよね。イエヤスくんの目的は『モテる』ことだもんね。なら、テレビに出るのが一番早いし——)
「でもさ」
イエヤスが二個目のおにぎりの袋を開けながら言った。
「テレビ出たら、毎日ダンジョンで掘れなくなるんだろ?」
「え? うん、まあ。撮影とか打ち合わせとかあるし」
「じゃあ無理だな」
あっさりしていた。あまりにもあっさり、二千四百万のオファーを切り捨てた。
「え、でも、死ぬほどモテるんだよ?」
「掘らないと意味ねーし。俺は採掘者だからな。『一度決めたことはやり遂げろ、じゃないとモテない』って親父が言ってたし。掘ってりゃモテるんだから、別にテレビには出なくていいな」
「……そっか」
「ところで、俺って今モテてるのかな?」
「え、えっと、それは私にはちょっと分からないかな」
「あかりさんにも分からないのかー。むずいな、モテって。親父、やっぱすげぇや。バカだけど」
あかりは、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「今回の話ね、私のチャンネルとしてはすごいチャンスではあるんだよ。事務所のバックアップがあれば、もっと大きくなれるし」
イエヤスはおにぎりを美味しそうに頬張りながら、あかりの顔をまっすぐ見た。
「あかりさんは、どうしたいんだ?」
「え?」
「俺のことはいいから。あかりさんが楽しいほうを選べばいいんじゃね?」
あかりは目を瞬かせた。
「俺は別にコンテンツとかよくわかんねぇし。ただ掘ってるだけだから。あかりさんがカメラ回してくれるのは——まあ、なんつーか。あかりさんが一番近くで楽しそうに笑ってるから、いいかなって思ってるだけで」
「……っ」
「楽しくないなら、やめていいし。もっと楽しいことがあるなら、そっち行けばいいし。俺は別にどっちでも、今まで通り掘るからさ」
風が吹いた。中層特有の、冷たい風。あかりの髪が揺れる。
「……イエヤスくんってさ」
「ん?」
「時々、すごいタラシみたいなこと言うよね」
「何が?」
「なんでもない」
あかりは立ち上がって、スマホを取り出した。スターブリッジのメールを開く。
返信を打つ。
『——大変魅力的なお話をいただき光栄です。慎重に検討いたしましたが、今回はお見送りさせていただきたく存じます。当チャンネルは「現場のリアル」を核としており、現時点でのマネジメント契約は方向性と一致しないと判断いたしました。』
送信。
二千四百万円が、電子の海に消えた。
あかりは深呼吸を一つして、いつもの小型カメラを構えた。
「よし。イエヤスくん、午後の採掘やるんでしょ? 撮るよ」
「うす。今日は第八区画の奥、壁の音がいい感じなんだ。多分、モテるぞー!」
「はいはい、壁の音ね。じゃあ回すよ——」
あかりがカメラのスイッチを入れる。赤いランプが点灯する。
画面の向こうに、いつも通りのイエヤスがいる。泥だらけで、包帯が巻かれていて、ツルハシを担いで、鮭おにぎりの最後の一口を嬉しそうに頬張っている。
台本なんか、いらない。
この画が、一番強い。
「あかりさん、こっち。この壁やべぇぞ」
イエヤスがツルハシで壁を指している。目が輝いている。鉱脈を見つけた時の、あの無邪気な顔。
あかりはカメラを向けた。
「了解。世界で一番いい画撮るから、派手に掘って」
「任せろ。今日のは絶対キラキラしてる。モテる気しかしない!」
「……だから、モテるかどうかは知らないけどね」
数字じゃなくて。
肩書きじゃなくて。
ただ、この馬鹿の隣という『特等席』を、誰にも渡したくなかった。
その気持ちにだけは、絶対に嘘はなかった。
◇◇◇
翌朝。管理局ロビー。
凛が腕を組んで立っていた。隣に彩。
「彩さん。あかりが事務所の件、断ったって本当ですか」
「本当。昨日メールで返信したって」
「……理由は?」
「『現場のリアルを重視する方針だから』だってさ」
凛は三秒ほど沈黙してから、小さく息を吐いた。
「あの子も、相当厄介なバカに捕まりましたね」
「人のこと言える?」
「何の話ですか」
凛が即座に彩を睨みつけた時、入口のドアが開いた。
イエヤスがツルハシを担いで入ってきた。今日も泥だらけ。包帯はまだ巻いたまま。
「おはようございます。今日も中層っす」
「うす」
凛と彩が同時に応じた。
その後ろから、カメラを構えたあかりが小走りで駆け込んでくる。
「ちょっと待ってイエヤスくん! 入りのシーン撮り直したい!」
「えー、なんで?」
「光の角度がよくなかった! もう一回ドアから入って! ほら、もっと凛ちゃんの方見て!」
「めんどくせぇな……」
イエヤスがぶつぶつ言いながらドアの外に戻る。あかりがカメラを構え直す。凛が「ちょっと、私を映さないでよ!」と赤面して怒る。彩が呆れてコーヒーを飲む。
いつもの、騒がしい朝が始まる。
ただ、あかりのカメラだけが、昨日よりほんの少しだけ——イエヤスの近くにあった。
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