第37話 「つむぎの学会」
問題は、スーツだった。
「イエヤスさん。明後日、学会にイエヤスさんを連れていきたいんだけど」
つむぎがそう切り出した翌日、彩はイエヤスを駅前の紳士服店に連れ出していた。
「学会って何着てけばいいんすか」
「スーツよ。持ってないでしょ」
「スーツって何すか」
「……よし、行くわよ」
紳士服店の試着室から出てきたイエヤスを見て、彩は頭を抱えた。
サイズが合わない。
正確には、既製品でイエヤスの体に合うスーツがこの店に存在しなかった。肩幅と胸囲の筋肉に合わせるとLLサイズになるが、ウエストがガバガバになる。ウエストに合わせてMにすると肩が全く入らない。Lを着せたら袖が手首の上で止まり、背中の布地がパツパツに張って今にも裂けそうだった。
「なんか窮屈っすね。作業着の方が楽なんだけど」
「血まみれの作業着で学会には行けないの!」
結局、Lサイズのジャケットを買い、ボタンは閉めない前提で着ることにした。ネクタイは結べないので省略。白いシャツだけはなんとかサイズが合った。
「これでいいすか」
「よくはないけど、最低限の体裁は整ったわ。髪の毛の寝癖はどうにもならないけど」
「これが俺のいつもの髪型っすけど」
「知ってる。もういいわ」
彩は財布から一万二千円を抜き、レジに向かった。後輩の服を買うのは初めてだった。
(……なんか、手のかかる息子を持った親みたいだな)
ふとそう思って、彩は軽く身震いした。
◇◇◇
翌日。都内のカンファレンスホール。
「第二十三回ダンジョン鉱物学会・秋季年次大会」の看板が掲げられたホールの前に、イエヤスは立っていた。
パツパツのジャケットに、ボタンを閉められない白シャツ。首元が開いていて、鎖骨の下あたりまで日焼けした肌が見えている。右肩の分厚い包帯がシャツの上からでもはっきりと分かる。
周囲を歩く参加者は全員スーツにネクタイ、あるいは白衣。大学教授や研究機関の人間が大半で、平均年齢は四十代半ば。その中に、十六歳の筋肉質の少年が一人。
控えめに言って、浮きまくっていた。
「イエヤスさん、お待たせしました」
つむぎが小走りで合流した。白衣にジャケットを羽織り、首から参加証を下げている。大きすぎるリュックは預けてきたらしく、今日は薄いブリーフケースだけだ。丸眼鏡を押し上げ、少しだけ緊張した面持ち。
「おう、つむぎ。すげーでかい建物だな。ここで発表すんの?」
「はい。午後のセッションで。鉱石のスペクトル分析の結果と、採掘手法の影響に関する論文です」
「全然わかんないけど、すげーな。頑張れ」
「……ありがとうございます。あの、一つお願いがあるんですが」
「おう」
「寝ないでください」
つむぎの目が、冗談抜きで真剣だった。
「わかった。頑張る」
イエヤスも真剣な顔で頷いた。
◇◇◇
午後二時。第三セッション会場。
二百名収容の講演ホールに、約百五十人の研究者が座っていた。前方の巨大スクリーンに論文タイトルが映し出される。
『浅層境界域における高純度魔鉱石の結晶保存率に関する定量分析——非定型採掘手法が結晶格子の配向秩序に与える影響の考察』
座長が紹介する。
「続いての発表は、ダンジョン庁管轄鉱物研究所の雪平つむぎ研究員です。雪平さんは十四歳で本研究所に着任し、魔鉱石の結晶構造分析で顕著な業績を——」
つむぎが壇上に立った。白衣の裾が少し長い。マイクの高さを調整する。
「雪平つむぎです。本日は、三級採掘者イエヤスさんの採掘サンプルを用いた分析結果をご報告します」
スライドが切り替わる。グラフ、複雑な数式、結晶構造の三次元モデル。
つむぎの口調が変わった。年齢相応の緊張は最初の三秒で消え、そこからは純粋な『天才研究者』としての知性の奔流だった。
「まず、サンプル十七個の結晶密度分布をご覧ください。浅層産の平均値と比較して、標準偏差が二・三倍の幅で上方に——」
「魔力伝導率の測定には、改良型スペクトロメーターを使用し、波長三百二十ナノメートルにおける吸光度の——」
「特に注目すべきは、劈開面における微細亀裂の完全な不在です。通常の採掘行為では、結晶軸に対して垂直方向の応力が——」
イエヤスは客席の最前列ど真ん中に座っていた。つむぎが「一番近くで見ていてほしい」と指定した席だからだ。
発表が始まって三秒後。
イエヤスの頭が、ゆっくりと傾いた。
五秒後。目が閉じた。
七秒後。船を漕ぎ出した。
快眠という大海原に旅立ったのだ。
隣の研究者が「おい君」と小声で突いたが、返事は幸せそうな寝息だった。
パツパツのジャケットの肩が規則正しく上下している。
寝ているイエヤスの顔は、深層級モンスターと戦っている時より遥かに穏やかだった。難解な学術用語は、ダンジョンのどんな敵より効果的にこの少年の意識を刈り取った。
◇◇◇
二十分後。発表が終わり、質疑応答に入った。
「雪平さん、素晴らしい発表でした。一点お聞きしたいのですが」
前列の白髪の教授が手を挙げた。有名大学のダンジョン鉱物学の権威だ。
「論文中の『非定型採掘手法』について、もう少し具体的にお聞かせいただけますか。結晶格子の配向秩序をここまで保存できる採掘手法は、既存の文献にはありません。理論上、打撃角度を一打ごとに最適化する必要がありますが、それを人間の手で実現するのは不可能では——」
「はい。それについては、実際の採掘者であるイエヤスさんに直接お聞きいただくのが最も正確かと思います」
つむぎが客席の最前列を見た。
イエヤスは、盛大に寝ていた。
口が半開きで、ごく微かに「すー」と寝息が漏れている。
会場に、微妙な空気が流れた。
つむぎの眼鏡の奥で、何かが光った。笑顔だった。笑顔だったが、目が一切笑っていなかった。
つむぎは壇上からマイクを通して、よく通る声で言った。
「イエヤスさん。起きてください」
反応なし。
「イエヤスさん」
反応なし。
「……起きないと、一生モテませんよ」
イエヤスの目が、瞬時にカッと開いた。
「起きてる! 俺ずっと起きてたっす!!」
会場にドッと笑いが漏れた。つむぎは深くため息をつきながらも、声を整えた。
「イエヤスさん。白石教授が、あなたの採掘手法について質問されています。前に来てください」
「え、俺?」
イエヤスは寝ぼけ眼のまま立ち上がり、壇上に向かった。パツパツのジャケット。寝癖のついた髪。包帯の巻かれた右肩。百五十人の研究者の視線が一斉に集まったが、本人は全く気にしていない。
壇上に立ったイエヤスに、白石教授が改めて質問した。
「結晶構造を損傷せずに採掘する際の、最適な打撃角度の理論的根拠は何でしょうか。雪平さんの論文では結晶軸に対して七度から十二度の範囲が最適とされていますが、あなたはそれを現場でどのように判断しているのですか」
イエヤスは腕を組んだ。寝ぼけた頭で、教授の質問を咀嚼している。
「えーと、ななど、とか、じゅうにど、とかは正直わかんないっす。分度器持ってないし」
「では、どうやって角度を決めているのですか」
イエヤスは数秒考えて、平然と言った。
「石が嫌がる方向からは叩かない。石が喜ぶ方向から叩く」
会場が、しん、と静まり返った。
百五十人の研究者が、一斉に言葉を失っている。白石教授の手に持ったペンが空中で止まっている。
三秒。五秒。
白石教授が、ゆっくりと口を開いた。
「……もう少し詳しくお聞かせいただけますか」
「壁を叩くと、石が返事してくるんすよ。『こっちからはやめてくれ』って感じの振動と、『こっちならいいぞ』って感じの振動がある。嫌がってる方から叩くと、石が割れる。喜んでる方から叩くと、きれいに剥がれる。だから、石が喜ぶ方を探して叩く。それだけっす」
沈黙が続いた。
そして、会場の後方から、一人の研究者が震える声でぽつりと言った。
「……劈開面の応力応答を、ツルハシ越しの触覚と聴覚だけでリアルタイムにフィードバックしている……? 理論的にはあり得る。だが、人間の感覚精度でそれが可能だとは——」
その言葉をきっかけに、会場が一気にざわめいた。
「打撃時の微細振動を骨伝導で感知しているということか!?」
「結晶軸の方向を触覚だけで判定できるなら、現場での角度の最適化は理論上可能だが——」
「いやしかし、それは最新の計測機器レベルの感度が必要なはずで——」
研究者たちが興奮して議論し始めた。イエヤスの「石が喜ぶ方向」というバカ丸出しの一言が、百五十人の科学者の知的好奇心に特大の火をつけてしまった。
白石教授が、深く、深く頷いた。
「雪平さんの論文に記載された『非定型採掘手法』の正体が、今の一言で完全に腑に落ちました。これは理論ではなく、天賦の才——感覚の極致ですね。素晴らしい。大変、素晴らしい」
拍手が起きた。
最初はまばらに、そしてすぐに会場全体に広がった。百五十人のインテリ研究者が、泥まみれ(今日はスーツだが)の採掘者の少年に惜しみない拍手を送っている。
イエヤスは首を傾げた。
「え、何。なんで拍手? 俺なんか変なこと言った?」
壇上のつむぎは、頬を限界まで膨らませていた。
「……私の三ヶ月の研究を、アホみたいな一言で要約しないでください」
「え? ごめん。つむぎの発表と関係あったのか」
「大ありです! 百二十ページの論文で複雑な数式と統計処理を駆使してやっと証明したことを、あなたは『石が喜ぶ方向から叩く』で全部言い切りました。査読者の数日を返してください!」
「ごめん」
「……まあ、いいですけど」
つむぎは頬を膨らませたまま、でも口角がわずかに上がっていた。
イエヤスの言葉は、つむぎの論文を否定したのではない。つむぎが百二十ページかけて証明した真実を、この馬鹿は最初から体で知っていたのだ。科学と本能が同じ結論に達した。それは、つむぎの研究が完璧に正しかったことの何よりの証明だった。
悔しいけれど、嬉しい。
その両方が、十四歳の天才の胸の中でぐるぐると渦を巻いていた。
◇◇◇
学会が終わり、夕暮れの街を二人で駅に向かって歩いていた。
カンファレンスホールから駅までの十五分。つむぎは、いつもよりほんの少しだけゆっくり歩いていた。
「つむぎ、疲れた? ブリーフケース持とうか」
「大丈夫です。紙の束しか入ってないので」
「そっか。あ、そういえば」
イエヤスが、隣を歩くつむぎを見下ろした。
「さっきの発表、すげーかっこよかったぞ」
つむぎの足が、ピタリと止まった。
「……寝てたくせに」
「最初のとこだけ見た。なんか難しいこと言ってる時のつむぎ、いつもと全然違う顔してた。目がキラキラしてて。あー、こいつ本当にこの仕事好きなんだなって」
つむぎは前を向いたまま、唇を強く引き結んだ。
「……見てたんですか。最初のところ」
「うん。三秒くらい」
「三秒」
「すげー濃密な三秒だった」
つむぎは「三秒で何が分かるんですかバカ」と言おうとしたが、言葉が出なかった。代わりに、眼鏡の奥の目が不覚にも熱くなった。
周りの大人たちは、つむぎの発表を「優秀ですね」「将来有望ですね」と評価する。内容を褒める。数字を褒める。成果を褒める。
「かっこよかった」と言ったのは、この馬鹿だけだ。
内容なんか一ミリも理解していないくせに。三秒しか起きていなかったくせに。
でも、「かっこよかった」は——つむぎが一番言ってほしかった言葉だった。
「っ——子供扱いしないでくだ、さ——」
言いかけた頭の上に、大きな手がぽんと載った。
「子供扱いじゃねーよ。つむぎが頑張ってたから、すげーって言ってるだけ。研究者ってかっこいい仕事だな。モテそうだし」
ぽんぽん、と二回。
硬くて、大きくて、少しだけ土の匂いが残る手。
つむぎは俯いた。眼鏡が夕日を反射して、真っ赤になった顔が見えない。
「……ありがとう、ございます」
声が、小さく震えていた。
イエヤスは「おう」とだけ言って、手を離した。つむぎがどんな顔をしているか、見てはいなかった。
二人は駅まで並んで歩いた。つむぎはずっと無言で、イエヤスは鼻歌を歌っていた。音程は壊滅的に外れていた。
駅の改札前で、つむぎが立ち止まった。
「イエヤスさん」
「ん?」
「あの鉱石の分析、まだ続きがあるんです。境界区画の深層固有種のデータも合わせて、次の論文を書こうと思っています」
「おう。頑張れ」
「それで……もう少し、一緒にダンジョンに入る回数を増やしたいんですが」
つむぎは眼鏡を押し上げ、まっすぐイエヤスを見た。
「データ収集のためです。個人的な感情は一切ありませんから」
「おう。いつでも来いよ。モテる採掘の仕方、見せてやる」
「……はい。では、また明日」
つむぎが改札を抜けていく。小柄な背中が人混みに紛れて見えなくなった。
イエヤスは手を振って見送り、パツパツのジャケットの裏ポケットに手を入れた。
——いつの間にか、つむぎが忍ばせていたメモが一枚。
『本日のデータより、中層の魔力変動パターンに異常な周期性を確認。変動の振幅が拡大傾向にあります。何かが、加速しています』
そんな深刻なメモが入っているとはつゆ知らず。
イエヤスは夕日に向かって、「いやぁ、よく寝たからスッキリしたな」と的外れな充実感を噛み締めながら帰路についた。
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