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第36話 「“鉄壁”との模擬戦」

その日、東京ダンジョン管理局の地下二階にある訓練施設に、異様な緊張が走っていた。


 採掘者や探索者が技術を磨くための空間で、模擬戦用のリングや岩盤サンプルの採掘ブースが並んでいる。普段はがらんとしているが、今日は違った。

 施設の奥にある最大のリング。その周囲に、管理局の職員が遠巻きに集まっている。誰も近づかないが、誰もが見ている。


 リングの中央に、一人の男が立っていた。

 早瀬(いわお)


 五十代半ば。銀灰色の短髪。鍛え抜かれた体躯に、管理局の制服ではなく、実戦用の装備を纏っている。腰には大太刀。ただ立っているだけで、周囲の空気が重い。


 東京ダンジョン管理局顧問。一級探索者。「鉄壁」の異名。


 表向きの名目は「三級採掘者イエヤスの戦闘能力ヒアリング」。深層級モンスターを撃破した人物の実力を、採掘者制度の運営体制見直しのため管理局として正式に評価する必要がある——というのが、巖が自ら提出した書類の文面だった。


 だが、本音は別にある。


(あのバカ息子の実力を、この目で見極める。そして——私の愛娘である凛に近づくのに相応しい男かどうか、叩き直して判断する)


 巖はリングの中央で腕を組み、静かに待っていた。


 入口から、足音が近づいてくる。軽い。だが一歩ごとに重心が安定している。ただ歩いているだけで、極限状態を潜り抜けてきた『戦闘者』の体の使い方だと分かる。


「おっす。ここでいいんすか?」


 イエヤスが、ツルハシを肩に担いでリングに上がってきた。

 作業着のまま。包帯はまだ右肩と左腕に巻かれている。


 巖はイエヤスを見た。正面から。上から下まで。

 百九十近い長身から見下ろすと、イエヤスは小柄に見える。だが体の密度が違う。十六歳の少年の骨格に、異常な強度の筋肉が無理なく載っている。立ち方。重心の位置。両足の幅。


(——見事な体だ。しかも、長年の実戦で磨き上げられた無駄のない立ち姿。十六歳の少年が持つべきものではない)


「早瀬巖だ。管理局顧問を務めている」

「あ、凛の親父でしょ。この前はお世話になったっす」


 巖のこめかみに、青筋が走った。


「……親父、は止めてもらおうか。早瀬で構わない」

「あれ? 親父じゃないんすか。じゃあ、早瀬さんで」


 巖は深く息を吐いた。怒りを飲み込むのに三秒かかった。


「本日は、お前の戦闘能力を管理局として評価するため、模擬戦を行う。武器は普段使っているもので構わない」

「え、模擬戦? 早瀬さんとっすか?」

「そうだ」

「いいっすけど、怪我まだ治ってないっすよ。俺、左腕あんま動かないし」

「承知している。こちらも本気は出さん。お前の動きを見たいだけだ」


 巖が大太刀を鞘から抜いた。模擬戦用の刃引きされた訓練刀だが、一級探索者が振れば鉄柱でも両断できる代物だ。


 イエヤスはツルハシを肩から下ろし、右手一本で柄を握り直した。

 表情が切り替わる。さっきまでのアホ面が消え、壁に向かう時と同じ、恐ろしいほどの集中の目になった。


 リングの外で見守っていた凛が、小声で彩に聞いた。


「……父さん、何するつもりなの」

「さあ。でも巖さんの目、あれ完全に父親のスイッチ入ってるわよ。イエヤスくん大丈夫かしら……色んな意味で」


 つむぎが計測機器を構えた。「せっかくの機会なので、一級探索者と特級の血筋の戦闘データを取らせてもらいます」。十四歳の研究者はどんな時もブレない。



          ◇◇◇



 巖が動いた。

 前触れなく。気配を消して。一級探索者の踏み込みは、常人の目には「消えた」ように映る。


 イエヤスの体が反応したのは、巖の靴底が床を擦った音を拾った瞬間だった。


 大太刀の横薙ぎ。速度を抑えているとはいえ、三級探索者なら反応すらできない一撃。

 イエヤスはツルハシの柄で受けた。


 ——ガンッ!!


 金属音が施設に響く。衝撃でイエヤスの腕が痺れ、足が半歩下がった。


 イエヤスが反撃をする隙を与えず、巖が即座に二撃目を放つ。上段からの袈裟斬り。

 イエヤスが横に跳んで回避。着地と同時に距離を取ろうとしたが、巖がそれを許さなかった。


 追撃。三撃目。四撃目。全て角度が違う。右から、左から、下から。

 一級探索者の剣術は、一撃ごとに「次の一撃への布石」が組み込まれている。逃げ道を塞ぎ、選択肢を奪い、最後に詰める。


 理論と計算の極致。

 凛の「理詰め」と呼ばれる戦闘スタイルの、完成形がここにあった。


 イエヤスは五撃目を柄で弾き、六撃目をしゃがんで躱し——七撃目に合わせて、右手のツルハシを振った。


 巖の踏み込みの力を利用した、カウンターの一打。

 巖の目が、驚愕に見開かれた。


 ツルハシの軌道。力の乗せ方。体の回し方。


(——間違いない)


 巖は大太刀でツルハシの刃先を弾き、大きく距離を取った。


(このデタラメな踏み込み。この無茶苦茶な角度からの一撃。理論を全て無視して、本能だけで最適解を引く戦い方。二十年前、嫌というほど見た。隣で見て、何度も呆れ、何度も怒鳴った)


 巖の脳裏に、若き日の記憶が蘇る。

 二十代の自分。隣で獰猛に笑う大柄な男。深層のモンスターの群れの中で、理屈を全て無視した型破りな一撃で活路を開き続けた、あの規格外の暴力。


(烈火の型だ。一打一打の角度、重心の流し方、カウンターのタイミング。全て、あの男と全く同じだ。……いや、違う!)


 巖が再び踏み込んだ。今度は少しだけ本気を上げた。三割。

 大太刀の突き。最短距離で心臓を狙う必殺の一撃。


 イエヤスの体が沈んだ。突きの下を潜り、ツルハシを斜め下から振り上げる。

 巖が体を捻って回避。ツルハシの刃先が巖の制服の袖を掠め、布が裂けた。


(——当てにきた。しかも、こちらが回避する方向を読んで、わざと『掠める軌道』に調整している。一撃で仕留める気はない。私を追い込んでいる。カウンターの後にさらにカウンターを仕掛ける構造。なんという——)


 巖は飛び退き、大太刀を下段に構え直した。

 額に、一筋の汗が流れていた。


(なんという才能だ。いや、才能だけじゃない。十六年間、あの男の理不尽な戦闘を間近で見て、間近で受けて、間近で生き抜いてきた結晶。教科書にないのは当然だ。この子の教科書は、神代烈火そのものだったのだから)


 イエヤスはツルハシを構え直した。息が少し上がっているが、目は楽しそうに笑っている。


「早瀬さん、すげー強いっすね。凛と同じ感じだけど、もっと重いし速い」

「……そうか」

「でも、ちょっと惜しいっす。さっきの七連撃の五撃目と六撃目の間が気持ち悪かったっす。もっとうまく繋げるっすよね?」


 巖の眉が、ぐっと寄った。


 五撃目と六撃目の間。確かに、意図的に作った「読みの罠」がある。敵をそこに誘い込み、七撃目で確実に仕留める構造だ。理論上、三手先まで読める一流の剣士でなければ罠とすら気づけない。

 この少年は、それを「本能の嗅覚」だけで感じ取っている。


「……いい動きだった。今日はここまでにしよう」


 巖が大太刀を鞘に戻した。模擬戦の終了を告げる。

 リングの外で、凛が胸を撫で下ろしていた。彩は「生きてた……」と安堵の息を漏らし、つむぎはタブレットに猛烈な勢いで数値を打ち込んでいた。



          ◇◇◇



 模擬戦後。訓練施設の隅のベンチ。


 巖が座り、スポーツドリンクのキャップを開けた。イエヤスはその隣に、何の遠慮もなくどかっと座った。距離が近い。一級探索者の隣にこの距離感で座れる人間は、管理局広しといえどこの少年くらいだろう。


「早瀬さん、やっぱすげーわ。一級ってマジで別格っすね」

「……お前の方が異常だよ。あの怪我の状態で、三割の私に食らいついてきたんだからな」

「三割? あれ全力じゃなかったんすか。道理で、凛の方が怖いと思った」


 巖の目が微かに動いた。


「凛が、私より怖い?」

「うす。凛はマジで怒った時の目がヤバいんすよ。早瀬さんは強いけど怖くはなかった。凛は強い上に怖い。最強っす。この前も男三人一瞬でビビらせてたし」


 巖は無言でスポーツドリンクを一口飲んだ。複雑な顔をしていた。娘を褒められて嬉しいのか、自分より怖いと言われて不満なのか、娘が変な男に絡まれていた事実にキレそうなのか、自分でも分からないらしい。


「凛があんなに強いの、早瀬さんのおかげっすよね。すげー鍛えたんだろうなって、動き見てて分かる。ありがとうっす。いつも助けられてるっす」


 巖の手が止まった。

 スポーツドリンクのボトルを握ったまま、イエヤスの顔を見た。


 裏がない。計算がない。お世辞でもない。

 十六歳の少年が、五十代の一級探索者に、「あなたのおかげで娘が強い、感謝している」と、まっすぐに言っている。


 巖はスポーツドリンクをもう一口飲んだ。それから、無言でポケットから小さな錠剤を取り出して飲んだ。胃薬だった。


「……一つ聞く」

「うす」

「お前は、凛のことをどう思っている」


 核心の質問(父親としての査定)を、巖は真正面から投げた。

 イエヤスは一秒も迷わなかった。


「頼りになる護衛っす。俺の左側を完璧に守ってくれるし、判断が速いし、いざって時に絶対逃げない。最高の相棒っす」

「……それだけか」

「え? あ、最近あいつが二級に上がったの、マジですげーっすよね。俺が安全に掘れるのも、あいつが頑張ってくれてるおかげっす。感謝してます」


 巖はスポーツドリンクのボトルをベンチに置き、両手で顔を覆った。


(ただ頑張っている、ではない……! 無茶な昇格試験を強行し、お前を中層で護衛するためだけに、必死に二級に上がったのだ……!)


 巖の胃が、ぎりぎりと悲鳴を上げた。


(しかも、この男はそれに一切気づいていない。凛のいじらしい健気な努力を、「プロとしての責任感」の一言で処理している。悪意が微塵もないのが余計にタチが悪い!)


 巖は顔を上げ、イエヤスを血走った目で凝視した。


 のんきな顔。裏表のない目。凛の好意に絶望的なまでに鈍感で、ただひたすらに「頼りになる相棒」と本心から言い切る。


(これは——天然の"タラシ"だ。本人が無自覚な分、始末に負えない)


 巖の脳裏に、二十年前の記憶が閃いた。


 若き日の神代烈火。任務の後、満身創痍で笑いながら「今日も生き残ったな。飯食おうぜ」と言うあの男の周りに、いつの間にか女性が集まっていた。本人は何もしていない。何もしていないのに、女性が放っておけなかった。


 あの「天然の引力」と、全く同じものが、この少年から出ている。


(貴様……烈火め……! 純真な息子に一体どんな呪いを……!)


 巖は震える手で、もう一錠、胃薬を口に放り込んだ。


「早瀬さん、大丈夫すか? 腹痛いなら凛に言った方が——」

「お前が原因だよ!!」


 一級探索者が訓練施設で声を荒げる、前代未聞の光景だった。

 イエヤスは「え、俺?」ときょとんとしている。


 リングの外で、凛が「お父さん何叫んでるの……恥ずかしい……」と頭を抱え、彩が「親世代もこのバカに振り回されるのね……」と遠い目をし、つむぎが『イエヤスさんと会話した人間の血圧と胃痛の上昇率。要継続調査』とタブレットに書き込んでいた。


 巖は深く、とてつもなく深くため息をつき、立ち上がった。

(……このままでは、娘が不憫すぎる。あの鈍物には、少しばかりの援護射撃が必要か)


「模擬戦の評価は後日、正式に報告書として提出する。——それと、イエヤス」

「うす」

「あいつが急ピッチで二級に上がったのは、お前のためだ。それくらいは理解しろ」

「え?」

「……ついでに聞く。お前の好物は何だ」

「好物? 鮭おにぎりと、唐揚げっす。あと甘い卵焼きとかも好きっすね」

「……鮭と唐揚げと、甘い卵焼きだな。覚えておこう」


 巖はそれだけ言い残し、訓練施設を後にした。

 (今夜にでも、不器用な娘にさりげなく伝えてやるとしよう)と、親心の頭痛を抱えながら。


 残されたイエヤスは、十秒ほど黙って天井を見上げた。


「……俺のために二級に? なんで?……考えても凛みたいに頭良くないから分かんねぇや」


 首を傾げ、のんきに笑う。


「そんなことより、好物の話したら腹減ってきたな……」


 お腹をさすりながら、ツルハシを担いで訓練施設を出ていった。


 遠くで凛が「なんか私の悪口言ってたでしょ!!」と叫ぶ声が聞こえたが、空腹で構っている体力が余ってないので、仕方なく無視した。


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