第34話 「聖地巡礼」
異変に気づいたのは、鮭おにぎりが棚から消えた時だった。
瀬田ユアは、レジカウンターの中で眉をひそめた。
夕方五時。シフトに入って一時間。
普段この時間帯のコンビニは、近所のおばちゃんが牛乳を買いに来るか、サボりの営業マンがコーヒーを飲んでいるくらいで、おにぎりコーナーが売り切れるなんてことは絶対にない。
なのに、棚がすっからかんだった。
鮭だけじゃない。梅も昆布もツナマヨも全滅している。
「……は?」
ユアはバックヤードの在庫を確認した。朝の入荷分は通常通り入っている。ということは、日中に異常な量が売れたことになる。
そして、もう一つの異変。
店内に、見慣れない客がやたらと多い。
若い女の子が二人組で棚の前に立ち、何も買わずにスマホで写真を撮っている。ホットスナックのケースの前で自撮りしている男がいる。入口付近で「ここだよ、ここ」「マジだ、特定班すげー」とはしゃいでいるカップルがいる。
「ちょっと、あんたたち。何か買うの? 買わないなら邪魔だから出てくんない?」
ユアがレジから声をかけると、二人組の女の子がキラキラした目で振り返った。
「あの、すみません! ここって『最強採掘者のイエヤスくん』が行きつけのコンビニですよね!?」
「……は?」
「昨日の配信の切り抜きで特定されてて! イエヤスくんが毎日鮭おにぎり買ってるコンビニがここだって! 聖地巡礼で来ました!」
ユアの脳が、三秒ほどフリーズした。
聖地巡礼。最強採掘者。イエヤス。
あの、泥だらけの。よく十円足りない、鮭しか食べない、あのバカの。
「イエヤスくんっていつも何時頃来ますか!?」
「鮭おにぎりってこれですか!? 同じの食べたくて!」
「あの、店員さんってイエヤスくんと知り合いなんですか!?」
質問が矢のように飛んでくる。ユアは片手を上げて遮った。
「待って。ちょい待って。一個ずつ処理させて」
深呼吸。派手なネイルの指先でこめかみを押さえる。
「まず、あんたたちが鮭おにぎり買い占めたの?」
「は、はい! イエヤスくんと同じもの食べたくて……」
ユアの目が、ギャルメイクの奥でギラッと光った。
「……あのさぁ」
声のトーンが、二段階落ちた。
「あいつが毎晩ここに買いに来る鮭おにぎり、あんたたちが全部持ってっちゃったら、あいつの晩飯なくなるんだけど。それは考えた?」
二人組がビクッと固まった。
「あっ……」
「ファンなら推しの飯を奪うなよ。常識でしょ」
ユアは棚に目をやった。本当に一個も残っていない。
あの馬鹿、今日来たら鮭おにぎりがないことにどれだけ絶望するか。前に十円足りなかっただけで、世界の終わりみたいな顔をしていたのに。
「とにかく、ここはコンビニであってテーマパークじゃないんで。買い物しないなら出て。写真だけ撮って帰るのは営業妨害」
ユアの声にドスが効いている。ギャルの威圧は記者よりも効くらしく、客たちがそそくさと出ていった。
しかし、一人が出て行っても、また一人入ってくる。自動ドアが開くたびに「ここだ」「マジだ」「イエヤスくんのコンビニ」という声が聞こえる。
「店長ー。なんか変な客がいっぱい来るんですけど」
バックヤードから返事はなかった。店長は昼間のシフトで帰っている。夜はユアの一人勤務だ。
いつも通りの、一人の夜。
◇◇◇
瀬田ユア。十八歳。
高校を一年で中退した。理由は色々あるが、一番大きいのは金だ。親は離婚していて、母親は別の男と暮らしている。父親の顔は知らない。詳しく聞いたことはないが、母親も血が繋がっていないらしい。
高校の学費を出してくれる人間がいなくなって、バイトだけでは追いつかなくなって、辞めた。
今は都内のワンルームで一人暮らし。家賃を払って、光熱費を払って、残りで食べる。コンビニの夜勤は時給がいいからやっているだけだ。その代わり、生活リズムはぐちゃぐちゃで、友達と遊ぶ時間はない。
——友達が、そもそもいないのだけれど。
学校を辞めた時点で、同級生との縁は切れた。SNSのグループから静かに外され、既読がつかなくなり、そのうち連絡先ごと消えた。
派手なメイクは、鎧だ。
唇を赤く塗り、まつ毛を盛り、ネイルを派手にする。そうすると、強く見える。一人で夜勤をこなしている自分が、かわいそうじゃなく見える。たぶん。
コンビニのレジに立つ夜は長い。客はまばらで、蛍光灯が白くて、有線放送のJ-POPが永遠にループしている。
そんな夜に、あいつは来た。
泥だらけの作業着。ヘルメット。背中にツルハシ。初めて見た時は「なんだこの汚い客」と本気で引いた。
でも、あいつは毎晩来た。同じ時間に、同じ格好で、同じものを買いに。
鮭おにぎり三つと麦茶。
最初の頃は「うす」としか言わなかった。でもそのうち「今日もお疲れっす」と言うようになり、「ユアさん、今日も夜勤? 大変だな」と言うようになった。
名前を覚えてくれた日のことを、ユアは覚えている。
レジに「瀬田」と書いてある名札を、あいつがじーっと見て、「せた……ゆあ? ユアさんか。いい名前だな」と言った。アホ面だった。後から聞いたら、漢字が苦手で、人の名前を読めたのが嬉しかったらしい。
カス客から助けてくれた時は、ちょっと嬉しかった。多分、おにぎりが早く食べたかっただけだろうけど。
馬鹿だ。本当に馬鹿だ。
でもその馬鹿は、ユアを「コンビニの店員」として以上には見ない代わりに、「コンビニの店員」以下にも見なかった。
有名になっても。テレビに出ても。特級探索者の息子だとバレても。
ユアにとってイエヤスは、十円足りない泥だらけの常連客。
イエヤスにとってユアは、鮭おにぎりを取っておいてくれるギャルの店員さん。
それだけの関係が、ユアにはたまらなく心地よかった。
ダンジョンも探索者も採掘者も知らない。配信も見ていない。ユアの世界にあるのは、蛍光灯の白い光と、レジの電子音と、あいつの「うす」だけだ。
その「だけ」が、夜勤の長い夜を、少しだけ短くしてくれていた。
◇◇◇
午後七時半。
自動ドアが開いた。
聖地巡礼の客がまた来たかと身構えたユアの目に映ったのは、包帯だらけの作業着姿だった。
ヘルメットの下の顔には泥がついていて、右肩がぐるぐる巻きの包帯で膨らんでいる。左腕は色が悪い。脇腹の辺りを少し庇うように歩いている。
昨日、テレビのニュースで見た姿そのままだ。
生きた伝説の息子。深層級のバケモノを四体倒した、日本中が熱狂する英雄。
その英雄は、ツルハシを肩に担いで、のんきな顔で入ってきた。
「うす。ユアさん、鮭おにぎりください」
ユアは腕を組んだ。
「ない」
「え」
「鮭、売り切れ」
イエヤスの顔から、さっと血の気が引いた。昨日深層級モンスターと戦っていた時より、はるかに絶望的な顔をしている。
「マジっすか……。なんで……」
「あんたのファンが買い占めてったの。『イエヤスくんと同じの食べたい』って」
「ファン? 俺の?」
「そう、あんたの。今日だけで五十人くらい来たかな。写真撮って帰る奴もいるし、おにぎり全種類買い占めてく奴もいるし。ちなみに唐揚げ串も全滅。『イエヤスくんの好物』ってSNSで拡散されてたらしくて」
イエヤスは棚を見た。そしてホットスナックのケースを見た。どちらも見事にすっからかんだ。
「…………」
イエヤスの目が、人生で二番目くらいに暗く濁った。一番目は、たぶん十円足りなかった時だ。
「俺の、飯が……ない……」
その時、自動ドアがまた開いた。
「きゃーーー!! イエヤスくんだ!!!」
若い女性三人組が、スマホを構えて突入してきた。
「本物だ! 本物のイエヤスくん!!」
「写真いいですか!? 一緒に撮ってください!!」
「きゃー包帯姿かっこいいーーー!!」
三人がイエヤスに群がる。スマホのカメラが連射される。イエヤスは状況が分からず「え、何、何。俺モテてるの?」と困惑している。
ユアの中で、何かが切れた。
「はい、そこまで」
レジカウンターの中から出てきた。ヒールのサンダルが床を鳴らす。
ギャルが本気でキレると、空気の温度が三度下がる。ユアはその技術を、高校一年の半年で完璧に習得していた。
「ここコンビニなんだけど。何か買うの?」
「あ、えっと——」
「買わないなら出て。営業妨害。他のお客さんの迷惑」
「で、でもイエヤスくんが——」
「この人はうちの客。あんたたちは客じゃない。分かる? 出て」
三人組がユアの圧に押されて後ずさる。一人が「別にいいじゃん、写真くらい——」と言いかけたが、ユアが一歩前に出た。
「いいわけないでしょ。この人、朝から晩までダンジョンで泥まみれになって働いて、大怪我して、やっと飯買いに来たのに、あんたらが全部買い占めたせいで棚すっからかんなの。推しの飯奪っといて写真寄越せとか、どの面下げて言ってんの」
声は低く、目は据わっている。ギャルメイクの奥の瞳に、一切の妥協がなかった。
三人組は何も言えなくなり、気まずそうに店を出ていった。
自動ドアが閉まる。店内に静寂が戻った。
「……すげーな、ユアさん」
イエヤスが、心の底から感心した声を出した。
「あの人たち三人いたのに、一瞬で追っ払った。……もしかしてユアさんって、特級探索者とかそういうやつ?」
「なんでコンビニ店員が特級なのよバカ。ただのギャル」
ユアはカウンターに戻りながら、ため息をついた。
「あんたさぁ。有名人になったならなったで、ちょっとは自覚持ちなさいよ。ファンが来るのは当たり前でしょ」
「ファンって言われても、よくわかんないんだよな。俺、別にすごいことしてないし」
「テレビで見たけど。バケモノ四体倒してたでしょ」
「あー。あれか。あれは邪魔だったから」
ユアは「はぁ」と深いため息をついた。
画面の中の少年は、日本中が熱狂する英雄だった。コメンテーターが「この少年は一体何者なのか」と興奮していた。
でも今、目の前にいるのは、おにぎりが買えなくて途方に暮れている、いつもの馬鹿だ。同じ人間だとは、未だに信じられない。
「あんた、ホント変わんないわね」
「何が?」
「何がって……いいわよもう」
ユアはレジ下の見えない棚から、ごそごそと何かを取り出した。
鮭おにぎり二つと、フランクフルト一本。
「ほら、これ持ってきな。あんた用に隠しといた」
「え、マジ!? 鮭あるじゃん! ユアさんやっぱ特級だな!」
「だから、特級じゃないし。ファンが来るの分かってたから、昨日の夜勤明けに二個だけ裏によけといたの。感謝しなさい」
イエヤスが嬉しそうにおにぎりとフランクフルトを受け取った。
「いくら?」
「おごり。怪我の快気祝いってことで。賞味期限もギリギリだし」
「ありがとう! ユアさん、いっつも助かるわ!」
イエヤスが笑った。泥と包帯の中の、あの屈託のない笑顔。
ユアは目を逸らした。レジのモニターを意味もなく操作するふりをした。
「……あんたさ」
「ん?」
「テレビ出たり、配信で何万人に見られたりしてるんでしょ。なんでまだうちみたいな普通のコンビニに来るの。もっといい店いくらでもあるでしょ」
イエヤスはフランクフルトを一口齧りながら、不思議そうな顔をした。
「ここが一番近いし。ユアさんいるし」
「…………」
「他の店だと鮭おにぎり取っといてくれないだろ。ユアさんは取っといてくれるじゃん。今日もそうだったし」
ユアは唇を強く噛んだ。
なんてことのない言葉だった。深い意味なんてない。この馬鹿は、ただ「近いから」「鮭があるから」と言っているだけだ。
でも。
「ユアさんいるし」の一言が、蛍光灯の白い光の下で、妙にあったかかった。
ファンは「イエヤスくん」を見に来る。マスコミは「特級探索者の息子」を映す。ダンジョンの仲間たちは「規格外の採掘者」として一緒にいる。
誰もが、何かの肩書き越しにこいつを見ている。
ユアだけが——ただの、よく十円足りない泥だらけの客として、こいつを知っている。
ダンジョンのしがらみなんて関係ない。
この馬鹿は明日も来る。泥だらけで、腹を空かせて、「鮭おにぎりください」と言いに来る。
それだけで、夜勤は少しだけ短くなる。
「……明日は多めに入荷頼んどく。あんたの分、ちゃんとよけとくから」
「マジか! ユアさん最高!」
「褒めてもこれ以上何も出ないよ。さっさと食って帰りなさい。邪魔」
「うす。じゃ、お疲れっす」
イエヤスがフランクフルトの残りを口に放り込み、手を振って店を出ていった。自動ドアが閉まり、泥だらけの背中が夜の街に消える。
店内に、また一人になった。
有線放送のJ-POPが、静かにループしている。蛍光灯の白い光。レジの待機音。
ユアはカウンターに頬杖をついて、自動ドアの向こうを見つめ
「……行っちゃったか」
誰にも聞こえない声で呟いた。
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