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第32話 「特級の息子」

凛は、父の背中越しにイエヤスを見ていた。

 口が開いたまま、閉じられなかった。


 神代烈火。

 探索者なら、絶対に知らない者はいない名前。二十年前、単独で深層を踏破した唯一の人間。特級探索者の中でも最強と謳われ、十年ほど前に忽然と姿を消した『生きた伝説』。

 父の口からも、「唯一尊敬に値する規格外の化け物」だと何度も聞いたことがある。


 その息子が、目の前で血まみれになって首を傾げている。

 ついさっきまで「モテたい」とか「腹減った」とかアホなことを言っていた、この無自覚なバカが。


「え……嘘でしょ。あんたが、あの人の……」

「え、なに。親父ってそんなに有名なの?」


 凛はめまいがして、何も言えなかった。


 巖が、低く笑った。笑ったのを見たのは、凛の記憶にある限り三度目だった。


「……やはり、か。凛が報告してきた『女好き、旅行中』。そしてあの無茶苦茶な太刀筋。それだけで、ほぼ確信していた」

「お父さん、知ってたの……?」

「確証がなかった。だが、このインナーが決め手になった」


 巖はイエヤスの前にしゃがみ込んだ。一級探索者が、三級採掘者の少年と目線を合わせる。


「あの男の息子が、採掘者か」

「うす。ダンジョンの仕事に就けって親父に言われたんで。採掘者も立派なダンジョンの仕事っすよね?」

「……ああ。この上なく立派な仕事だ」


 巖は立ち上がり、救援部隊に鋭く指示を出した。


「負傷者の搬送を最優先! この少年の毒の処置を急げ。左腕の神経毒は処置が遅ければ後遺症が残るぞ!」

「はっ!」


 救護班が駆け寄り、イエヤスの左腕に解毒剤を注射した。冷たい液体が血管に流れ込み、毒で焼けるような痛みが少しだけ和らぐ。


「いってえ」

「これくらいでをあげるのか? 烈火の息子が」

「モテないっすかね?」

「……知らん。そんなところまで父親に似なくて良かったのにな」



          ◇◇◇



 浅層の安全区画。

 彩、あかり、つむぎの三人は、タブレットの画面を見つめたまま固まっていた。


 最初に動いたのは彩だった。


「……やっぱり」


 彩は目を閉じ、長く息を吐いた。


「やっぱり、そうだった。神代烈火の息子。だからあんなに強くて、だからあんなにバカで、だからあんなに——真っ直ぐなんだ」


 つむぎはタブレットを握りしめたまま、画面に映るイエヤスの姿をじっと見つめていた。


「神代烈火……深層単独踏破者。論文で何度も名前を見ました。深層の鉱物データの多くが、あの方が持ち帰ったサンプルによるものです。つまりイエヤスさんのお父さんが持ち帰った石で、わたしたちの研究は——」

 言葉が途切れた。科学者の知的好奇心が、もっと単純な感情に押し流された。

「——だから、あんなに綺麗に鉱脈を見つけられたんですね。お父さんと同じ感覚で、ダンジョンの声を聞いている」


 あかりは両手で顔を覆ったまま、指の隙間から画面を見ていた。


 コメント欄が光の奔流のように流れている。同接は十八万に迫り、トレンドは完全に「神代烈火の息子」一色に染まっていた。配信者として、これは歴史的瞬間だ。わかっている。わかっているが、今はそんな数字はどうでもよかった。


「……イエヤスくん」

 あかりは震える声で、ただ一言だけ呟いた。

「生きてて、よかった……っ」


 画面の中で、イエヤスが救護班に注射を打たれながら「いってえ」と言っている。凛が「我慢しなさい」と怒っている。

 さっきまで死線にいた人間たちの、拍子抜けするほど普通のやり取り。

 それを見守る三人の目には、全員、大粒の涙が滲んでいた。



          ◇◇◇



 イエヤスは壁にもたれたまま、なぜか周囲がざわついていることに首を傾げていた。


「なあ凛」

「なに」

「なんでみんなそんな顔してんの? 親父の名前言っただけなのに」


 凛は止血テープを巻く手を止め、イエヤスの顔を見た。本気で不思議がっている。この少年は本当に知らないのだ。自分の父親が、どれほどのバケモノなのか。


「……あんたの父親はね、探索者の歴史に名前が載ってる人なのよ。教科書にも出てくるレベルの」

「教科書? すげえ。親父すげえじゃん」

「すげえじゃないわよ。あんたも大概すげえのよ!」

「え、俺? まだ三級の採掘者だけど」

「そういう話じゃないの!!」


 凛の声が裏返った。

 イエヤスは何が何だかわからないという顔で、「まあいいや」と呟き、通路の天井を見上げた。


「親父、見てたんだな。配信」


 ぽつりと言った。


「『モテてる』って言ってくれたから、たぶん合格だ」


 何の合格だよ、と凛は思ったが、声には出さなかった。


 ヘルメットカメラは、まだ回っていた。

 天井を映す斜めの視界の端に、凛の横顔が映り込んでいる。止血テープを巻き終えた手が、そっとイエヤスの右腕に触れたまま、なぜか離れない。


 それに気づいたコメント欄が、また騒がしくなった。



──────【LIVE】同接:178,544──────

: 凛ちゃんの手が離れない件

: 気づいてない 本人気づいてない

: 鈍感主人公の究極形態

: 特級探索者の息子でこの鈍感さは最強かよ

: ラスボスだろそれは

: 凛ちゃんの親父(一級)も目の前にいるのにwww

: 今日だけで感情のジェットコースターすぎる

: 戦闘→感動→正体バレ→ラブコメ

: 忙しいんだよこの配信!!

: もう何回目だよ伝説の回

: イエヤスくんがいる限り毎回伝説になるんだよなあ

──────────────────────



 通路の奥で、巖が無線で管理局に報告を入れていた。


「深層級四体は全て撃破済み。三級採掘者イエヤスと二級探索者早瀬凛の二名で対処。一級の到着前に決着していた。——ああ、報告書は後日出す。それと」


 巖は一度言葉を切り、壁にもたれて座る少年と、その横で彼の手を握っている自分の愛娘を見た。


「……特級探索者・神代烈火の血縁者と推定される人物の存在を確認。……詳細は対面で報告する」


 無線の向こうが一瞬沈黙し、それからパニックに陥ったような慌ただしい声が複数重なった。

 巖は無線を切り、胃の辺りを押さえながら長いため息を吐いた。


「(局の対応もそうだが、娘の相手があの化け物の息子とは……)心底、面倒なことになるな」


 頭痛を堪えるように呟いたが、その口元には探索者としてのわずかな笑みが浮かんでいた。



          ◇◇◇



 同じ頃。

 日本から遠く離れた、ヨーロッパのどこかのテラスで、一人の男がスマートフォンの画面を見つめていた。


 配信は終わっていた。最後に映ったのは、天井と、隣に座る少女の横顔。


 神代烈火は画面を閉じ、ワイングラスを手に取った。


「あの子、やるじゃない」

 向かいのリサが微笑んでいた。

「まあな。俺の息子だからな」

「謙虚さのかけらもないわね」

「謙虚な男はモテねぇ」


 烈火はワインを一口飲み、東の空を見た。


「インナーを外したか。あいつに『重りなしの体の動かし方』を教えてねぇんだが、まあ本番一発でどうにかしたっぽいな」

「……どうにかするしかない状況に追い込んだのは、あなたでしょう。本当にひどい父親ね」

「そうとも言う」


 リサが呆れたように笑った。


「で、帰るの?」

「帰らねぇよ。まだ早い」

「息子さんが大怪我してるのに?」

「あのくらいで死ぬタマじゃねぇ。それに——」


 烈火はグラスを傾けた。


「あいつの周りにはもう、いい女が揃ってる。俺の出る幕じゃねぇよ」


 リサは何も言わず、ただ微笑んだ。


 テラスの下のダンジョン入口から、今日も微かな振動が伝わってくる。世界中のダンジョンが、同じ脈動を刻んでいる。

 その脈動が、最近少しだけ強くなっていることに、特級探索者である烈火は気づいていた。


「……もう少しだけ、待つか」


 誰に言うでもなく呟いて、男は極上のワインを飲み干した。



───────────────────

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