第29話 「一人の戦い」
一体目は、正面から来た。
黒い霧を纏った四足獣が地を蹴り、紫の唾液を撒き散らしながら突進してくる。体長三メートルの塊が通路を埋め尽くすように迫り、ヘルメットカメラの視界が黒一色に染まった。
イエヤスは半身をずらした。
右足を軸に体を回し、獣の突進を紙一重でいなす。すれ違いざまにツルハシの先端を前脚の関節に叩き込んだ。
硬い。甲殻型とは違う、ゴムのような筋肉と腱の弾力。刃先は食い込んだが、貫通しない。
獣が悲鳴のような咆哮を上げ、振り返る。その隙を突き、二体目が左の死角から跳びかかってきた。
壁を蹴って回避する。天井すれすれの空間に体をねじ込み、ツルハシの柄で二体目の顎を下からカチ上げた。
衝撃で獣の首が跳ね上がったが、牙から飛んだ紫の液体がイエヤスの左腕を掠めた。
——熱い。
皮膚が焼けるような激痛。毒液だ。触れた箇所の作業着が溶け、その下の肌がどす黒く変色する。
「——っ」
着地。呼吸を一つ整える間もなく、三体目と四体目が左右から同時に間合いを詰めてきた。完全な挟撃。群れの連携行動だ。
イエヤスはツルハシを横薙ぎに振った。三体目の鼻先を打ち、怯ませる。
だが、四体目には届かない。振り切った体勢の隙を突かれ、右の脇腹を鋭い爪が掠めた。作業着が裂け、熱い血が噴き出す。
後ろに跳んで距離を取った。通路の壁に背中が当たる。
四体の獣が扇状に広がり、逃げ場を塞ぐように陣形を組み直していた。
左腕が燃えるように熱く、そして重い。毒が回り始めている。脇腹の傷は浅いが、血が滲んでズボンを濡らしている。
ツルハシを構え直す。柄を握る右手に力を込めた。
息が上がっている。一体なら余裕だった。二体でもいける。三体なら工夫がいる。だが四体同時で、しかも毒持ちの連携型。
これは——かなり、きつい。
素直に、そう思った。
◇◇◇
同じ頃。浅層の安全区画。
一足先に撤退を終えた彩、あかり、つむぎの三人は、タブレット端末の画面を食い入るように見つめていた。
「紫の体液……強酸性の神経毒です! 早く解毒剤を打たないと、腕の神経が壊死して……っ!」
つむぎが分析データを叩き出しながら、悲痛な声を上げる。
「イエヤスくん……逃げて、もう逃げてよ……!」
あかりは両手で口を覆い、震える瞳で画面を見つめていた。同接は十三万を突破しているが、今はそんな数字はどうでもよかった。ただ、泥まみれで笑うあの少年に生きて帰ってほしかった。
そんな中、彩は一人、血の気が引いた顔でイエヤスの『足さばき』と『ツルハシの軌道』を凝視していた。
毒を受け、出血し、四体の深層級に囲まれてなお、一歩も下がらない異常な胆力。そして、型を持たない野生の獣のような、理不尽極まりない戦闘の足跡。
(……間違いない)
彩は奥歯を噛み締めた。
(あのデタラメな戦い方。絶望的な状況でも笑う、あのバカみたいな精神性。あの子は絶対に、あの『特級探索者』の息子だ)
彩はポケットの中で、自分のスマートフォンを強く握りしめた。
本人は父親の名前の漢字も読めないと言っていた。だが、業界の古参幹部を経由するなり、過去のギルドの記録を掘り返すなりすれば、あの『生きた伝説』の緊急連絡先に辿り着けるかもしれない。いや、辿り着かなければならない。
(あたしが連絡を取る。絶対に呼び戻してやる。だから——死なないでよ、イエヤス……!)
◇◇◇
後ろを振り返る余裕はなかった。
だが、背中の向こうに人の気配がまだあることは、空気の揺れで分かっていた。
七人がまだ逃げ切れていない。負傷者を抱えた撤退は遅い。凛が反対側から合流して撤退路を確保するまで、もう少し時間がかかる。
退けない。
退いたら、あの七人が喰われる。顔も名前も知らない、同じダンジョンで泥まみれになって働いている人間たちが。
頭の中に、親父の声が響いた。
『お前より弱いやつが後ろにいたら、前に出ろ』
理由は単純だ。その方がカッコいいし、モテるから。
十歳のとき、中層のモンスターの群れに放り込まれた夜のことを思い出した。暗くて、怖くて、泣きながら、震えながら、それでも前に出た。終わった後、親父に「逃げなかったな。これで少しはモテるぞ」と頭を撫でられた。
あれから六年経って、体は大きくなった。ツルハシの扱いも上手くなった。
でも、やっていることは変わらない。
後ろに誰かがいるなら、自分が壁になる。
岩壁を掘るのと同じだ。目の前にある障害の急所を見極め、砕く。
それがイエヤスにとっての「当たり前」だった。親父がそう育てた。
だから、体は前に出た。
◇◇◇
一体目が再び突っ込んできた。
イエヤスは今度は避けなかった。正面から踏み込み、ツルハシを振り下ろす。
鉱脈を掘るときと同じだ。硬い岩には正面から打っても意味がない。力が逃げる『筋』を見極め、僅かに斜めから叩き割る。
鈍い音がして、一体目の額の表皮が砕け散った。獣が横に崩れる。致命傷ではないが、動きが完全に鈍った。
直後、二体目が背後から飛んだ。振り返る時間はない。ツルハシの柄を背中越しに突き出し、獣の喉元を強引に押し返した。
衝撃が両腕に響く。毒が回った左腕が悲鳴を上げたが、握力だけは意地でも落とさなかった。
三体目が横から爪を振るう。しゃがんで躱し、足元を払うようにツルハシの石突を叩き込み、バランスを崩させる。
だが——四体目。
こいつだけは距離を保っている。他の三体が仕掛けている間に、常に死角から急所を狙う位置取りを続けていた。群れのリーダー格。
三体を捌きながら、四体目を警戒し続ける。腕は二本、ツルハシは一本しかない。
限界が、近づいていた。
一体目が立ち上がり、再び突進の構えを取る。二体目と三体目が左右に散る。四体目が後方で身を低くする。
完璧な包囲網だった。
イエヤスは壁を背に、ツルハシを正面に構えた。
息が荒い。左腕の感覚が完全に消えかけている。毒が肘を越えた。脇腹からの出血で、視界の端が明滅している。
──────【LIVE】同接:134,893──────
: 血が……
: 画面に血が飛んでる……!
: 毒喰らってるのにまだ戦ってる
: イエヤスくん!!
: 一人はきついだろ……無理だよ……
: なんで笑ってるんだよこいつ
: 笑ってないよ 歯食いしばってるんだよ
: 誰か助けに行けよ!!
: 探索者早く来てくれ!!!
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四体が、同時に地を蹴った。
イエヤスはツルハシを握り直した。柄が血と汗で滑る。左手を添えようとしたが、指が動かなかった。
右手一本。
十分だ。
親父は言っていた。「利き腕一本ありゃ、人間は戦える」と。
一体目の突進を右に躱し、すれ違いざまに脇腹をえぐる。二体目の爪を柄で弾く。三体目の顎に石突を叩き込み、怯ませる。
だが、四体目が来た。
三体の攻防で作られた一瞬の死角から、音もなく。
気づいたときには、巨大な爪が、イエヤスの右肩を深く抉っていた。
「イエヤスさんっ!!」
「いやあああっ!!」
安全区画のモニターの前で、つむぎとあかりの悲痛な絶叫が響き渡った。
──────【LIVE】同接:141,207──────
: あ
: 右肩
: うそだろ
: イエヤスくん!!!!
: 画面が……倒れる……
: お願い
: 誰か
: 神様お願い
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視界が、大きく傾いた。
膝が床に激突する。ツルハシの柄を杖代わりに、かろうじて顔面から倒れるのだけは堪えた。
右肩から止めどなく血が流れ、ツルハシを握る指の隙間を伝って、黒い柄を赤く染め上げていく。
四体の獣が、動きを止めた。
仕留めたと確信したのだ。獲物が膝をついたとき、捕食者は一拍だけ待つ。完全に動けなくなるのを確認してから、喉笛に食らいつくために。
通路に、絶望的な沈黙が落ちた。
イエヤスの荒い、血の混じった呼吸音だけが、ヘルメットカメラのマイクに重く響いている。
右肩が焼けるように熱い。左腕が動かない。脇腹が痛い。視界が暗転しかけている。
けれど。
背中の向こうから、足音が聞こえた。
複数の、必死の足音。凛が開けた撤退路へ、七人が走り抜けていく音だ。
まだ全員は抜けていない。あと少し。あと数十秒、時間がいる。
「……ははっ」
イエヤスは、血まみれの口元を歪め、笑った。
ここで倒れたら、あいつらが死ぬ。凛が悲しむ。
何より——這いつくばって死ぬなんて、絶対にモテない。
イエヤスはツルハシに体重を預け、ゆっくりと、確実に立ち上がった。
右腕が痙攣している。血が止まらない。
でも、握力はまだ残っていた。
「……まだだ」
掠れた声が、マイクに乗った。
四体の獣の赤い目が、驚愕に見開かれた。
獲物が、まだ立っている。苛立つように、リーダー格の四体目が低く唸った。
イエヤスはツルハシを構えた。右手一本で。
腕は上がりきらず、刃先が斜めに垂れている。血に濡れた刃が、中層の薄明かりをぼんやりと反射していた。
それでも。
一歩も、退かなかった。
──────【LIVE】同接:147,533──────
: 立った
: 立ったよこの人
: なんで立てるんだよ
: もういい もう十分だろ休んでくれ
: 逃げてくれ頼むから
: 泣いてる
: 頑張れ
: 頑張れイエヤス!!!
: 頑張れえええええええええ!!!!!
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四体のバケモノが、殺意を全開にして身を沈める。
今度で最後だと、獣も人間も、そして画面の向こうの十五万人も、理解していた。




