第25話 「探索者の矜持」
早瀬凛は、東京ダンジョン管理局の廊下を歩いていた。
右手には一枚の書類。左手には、真新しい登録証。
二級探索者。
特例の昇格試験の結果が出たのは昨日の夕方だった。実技総合評価A、学科九十二点、面接評価A。
三日三晩、睡眠時間を極限まで削って親父との地獄の特訓を乗り越えた結果だ。試験官からは「若手では歴史的な傑出度」と評価され、受付では「おめでとうございます、早瀬さん」と笑顔を向けられた。
嬉しくないわけがない。
早瀬の名前は探索者業界では名門だが、これは父親の七光りではない。血を吐くような努力で、本来なら数年先のはずだった階級を自力でもぎ取ったのだ。
――これで、堂々とあいつの隣(護衛)に戻れる。
廊下の壁に設置されたモニターには、いまだにあの配信のダイジェストが流れている。再生数はとうに一千万を超えたらしい。
深層級をツルハシで叩き割る泥まみれの少年の姿。
凛はふっと口角を上げ、管理局の自動ドアを抜けた。
三月の冷たい風が頬を叩く。と、スマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、凛の表情が少しだけ面倒くさそうに歪んだ。
『父』
早瀬巖。一級探索者。東京ダンジョン管理局の顧問を務め、業界では「鉄壁」の異名を持つロジカルモンスター。
凛にとっては、越えるべき壁であり——最近はただの鬱陶しい親バカである。
ため息をついて電話に出る。
「……はい」
『二級昇格、聞いたぞ! さすが私の娘だ!』
「ありがとうございます。お父さんとの特訓のおかげ——」
『だが! アイツと付き合うのは許さんぞ! くそっ、お前がそこまで入れ込む男、やはり次回の採掘には私が直接査定を——』
「だから入れ込んでないって言ってるでしょ! 切るわよ!」
顔を真っ赤にして通話終了ボタンを押そうとした、その時。
『……待て』
ピタリ、と。
電話越しの声の温度が、絶対零度にまで下がった。
親バカの気配が微塵も消え失せている。そこにいるのは、第一世代の伝説の探索者としての、冷徹な『早瀬巖』だった。
「お、お父さん?」
『冗談はここまでだ。……一つ、真面目な頼みがある』
凛の足が止まった。父の声に、かつて聞いたことのないような警戒と、ヒリつくような緊張感が混じっている。
『あの配信の採掘者。イエヤスという少年の素性を調べろ。誰に戦闘技術を学んだ。親は何をしている男だ』
「調べるって……理由を聞いても?」
『今は言えん。調べろ。それだけだ』
通話が切れた。
凛はスマートフォンを握ったまま、しばらく立ち尽くした。
父が特定の人間について、一級探索者の権限を使わず、身内である自分に「調べろ」と命じた。それは凛の記憶にある限り、初めてのことだった。
◇◇◇
翌朝。東京ダンジョン、中層へのゲート前。
イエヤスはいつも通り、ツルハシを肩に担いで立っていた。作業着は昨日と同じもので、裾に泥がこびりついている。
隣には彩がクリップボードを持ち、今日の作業エリアを確認していた。
「おはよう」
凛が声をかけると、イエヤスが振り返った。
「おう、凛。野暮用終わったのか?」
「ええ。まあ、大した用事じゃなかったけど」
凛は極めて涼しい顔(内心はドヤ顔)で、真新しい銀色のカードを取り出した。
「昨日付けで、二級に昇格したわ」
彩が「はぁ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って!? 早瀬さん、前倒しで昇格試験受けてきたの!? この数日で!?」
「ええ。これで正式に中層の護衛任務を請けられる。イエヤスの専属護衛として、管理局に申請を出しておいたわ」
イエヤスは銀色の登録証をまじまじと見つめ、それから凛の顔を見た。
「すげえじゃん、凛。……で、二級になったらモテるのか?」
「なんで基準がそこなのよ!!」
「いや、俺もモテたくて三級になったから、凛もモテたくて二級になったのかと思って」
「違うわよ! 私は……っ、あんたが他の護衛つけられて勝手に怪我したら寝覚めが悪いから、仕方なく——」
「そっか。よかったな、これでまた俺の護衛できるぞ」
イエヤスが、何も分かっていない屈託のない笑顔で言った。
本来なら「二級様が三級の護衛をしてくださる」という圧倒的な格差なのだが、このバカにかかれば「俺の隣にいられてよかったな」という謎の上から目線に変換される。
彩が頭を抱えた。
「二級の若手トップエリートが、三級のバカ採掘者の専属護衛って……探索者業界の歴史上、前代未聞なんだけど」
「知ってる。でも決めたから」
凛は顔を赤くしながらも、声に迷いはなかった。
彩はそれ以上何も言わず、「……若いっていいね」と呟いてクリップボードに視線を戻した。
◇◇◇
昼休み。
中層の安全エリアで、凛とイエヤスが並んでおにぎりを食べていた。
凛は鮭。イエヤスも鮭。彩は気を利かせて(というより呆れて)少し離れた場所で休んでいる。
「なあ、凛」
「なに」
「凛の親父って、ダンジョンの仕事なんだろ? すげーのか?」
「……一応、一級探索者ね」
「おー。一級って最強じゃん。モテるだろ」
イエヤスからの見事なパスだった。
父に言われたから探るわけではないが、この少年の規格外の戦闘技術のルーツは、凛自身も喉から手が出るほど知りたかった。
「……で、あんたは?」
「ん?」
「あんたのお父さんは、何者なの?」
凛は息を潜めた。
あの深層級の関節を的確に破壊した太刀筋。あれを教え込んだのは、一体どこのどんな達人なのか。
イエヤスはおにぎりを頬張りながら、少し考えた。本当に二秒くらいだった。
「親父? ダンジョンの仕事してたらしいけど。今は旅行中」
「旅行中」
「うん。女連れ」
「……」
「すげー女好き。俺に『男はモテろ』って教え込んだのも親父だし。まあバカだけどな」
凛は鮭おにぎりを持ったまま、三秒ほど沈黙した。
「……聞いたこっちが悪かったわ」
「え? なんで?」
イエヤスは本気で不思議そうな顔をしている。
凛は額に手を当てた。こいつからまともな情報が出てくると期待した自分がバカだった。
ダンジョンの仕事をしていた。今は旅行中。女連れ。女好きのバカ。
それだけの情報で、凛には何も分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
この少年にあの戦闘技術を叩き込んだ人間は、確実に『一流の探索者』だ。
(……でも、これ、お父さんに何て報告すればいいのよ)
「凛、そのおにぎり食わないなら貰っていい?」
「食べるわよ! 自分の分は自分で買いなさい!」
「うす」
イエヤスが素直に引き下がる。
凛は残りの鮭おにぎりを口に運びながら、頭を抱えた。
『素性を調べろ。親は何をしている男だ』と凄んだ、あの冷徹な父の顔が浮かぶ。
——『旅行中で女好きのクズです』。
そのまま伝えたら、一級探索者の父は一体どんな顔をするだろうか。




