第24話 「それぞれの夜」
藤村彩の夜。
安アパートの一室。シャワーを浴び、髪を乾かしながらビールの缶を開けた。
テーブルの上のスマホには、あかりチャンネルのアーカイブが映っている。再生数は一千万を超えていた。
彩は映像を巻き戻し、イエヤスが深層級モンスターに向かって踏み込む場面を再生した。
何度も見た。何度見ても、同じ結論に辿り着く。
あの戦い方は、完全に探索者のものだ。しかも極めて高いレベルの。ツルハシであの動きができるなら、剣を持たせたらどうなるのか。
「……あの子のお父さん、何者か聞かなきゃいけないかもしれない」
ビールを一口飲んだ。いつもより苦く感じた。
あの子は——本当は探索者になるべき人間なんじゃないのか。
その考えが、ここ数日ずっと頭から離れない。業界の頂点を争えるほどの才能が、泥まみれの作業着の中に埋もれている。
そして、それを泥まみれにしたのは——自分だ。
『採掘者はモテるよ?』
彩は缶を強く握りしめた。
あの日、探索者試験に落ちて途方に暮れていた少年に、嘘をついた。自分が六年間モテなかったことを知っていて、言った。
でもあの子は信じた。疑わずに「やります」と言って、毎日泥まみれになって壁を掘って、鉱脈を見つけて嬉しそうに笑っている。
今日だって、「浅層もまだまだ掘るとこあるな」と笑っていた。無邪気に。裏がなく。
彩はテーブルに突っ伏した。
胸が痛い。
あの子が採掘を楽しんでいるのは嘘じゃない。でも、きっかけは自分の嘘だった。
「……ごめんね」
誰もいない部屋で呟いた。
いつか、ちゃんと謝らなければいけない。でも——あの屈託のない笑顔が壊れるんじゃないかと想像すると、たまらなく怖かった。
◇◇◇
早瀬凛の夜。
都内にある探索者専用の地下修練場。
硬質な床に、凛は仰向けに大の字で倒れ伏していた。全身が汗と痣まみれで、肺が千切れそうなほど息を切らしている。
「……五十九秒。少しは反応がマシになったが、まだ甘いな」
彼女を見下ろしているのは、木剣を手にした父親——第一世代の伝説的探索者であり、「ロジカルモンスター」の異名を持つ男だった。息一つ乱していない。
「う、うるさい……もう一回……!」
凛は震える足で立ち上がり、再び木剣を構えた。
今日、彼女は父親に頭を下げ、「二級昇格試験」を前倒しで受けるための地獄の特訓を志願した。
「それにしても」
父親が木剣を肩に担ぎ、目を細める。
「お前が自分から『早く二級になりたい』と言い出すとはな。何か理由ができたのか?」
「べ、別に! ただ早く上に行きたいだけよ!」
「そうか。お前が護衛に入り浸っていた『採掘者の少年』が、二級以上じゃないと中層で護衛できない通達が出たから……というわけではなさそうだな」
「——っ!?」
図星を刺され、凛の顔が爆発したように赤く染まる。
父親はフッと笑い——次の瞬間、急に般若のような険しい顔つきになった。
「あの少年の配信、私も見た。……凄まじい太刀筋だった。だが、それはそれだ! 凛、まさかお前、あの泥まみれの少年と付き合っているのか!?」
「つっ……!? な、なんでそうなるのよ! 付き合ってない!!」
「嘘をつけ! お前が特定の男のために自分をここまで追い込むなど異常事態だ! まだ十七歳だぞ、男女交際など十年、いや百年早い!! どこの馬の骨とも分からん泥まみれのバカに私の愛娘はやらん!!」
さっきまでの「ロジカルモンスター」の面影は微塵もない。ただの取り乱した過保護な親バカである。
「だから付き合ってないって言ってるでしょ!! あいつはただの危なっかしいバカよ! 私がいないとすぐ怪我するから、仕方なく二級になって側で監視してやろうと思っただけで!」
「監視だと……!? なんだその献身的な妻のような発言は! 許さん、次回の採掘には私も同伴してその男を直接査定してやる!!」
「絶対に来ないで!! 一生口きかないわよ!!」
「ぐわぁぁぁ、反抗期か!!」
凛は顔を真っ赤にして木剣を振り下ろし、父親は泣きそうな顔でそれを大袈裟に捌いた。
「……これは借りを返すため。そう、借りの問題」
親バカな父親の追及を物理で黙らせながら、凛は心の中で必死に言い訳を繰り返す。
二度も自分を助けてくれたアイツの隣に、もう一度立つため。
それだけのはずなのに、修練場の冷たい床の上でも、凛の顔の熱は一向に引かなかった。
◇◇◇
雪平つむぎの夜。
鉱物研究所。夜九時。
つむぎは研究室に一人で残り、モニターに並ぶ深層級モンスター周辺の地質データを睨んでいた。
分析すべきことは山ほどある。なのに——手が進まない。
頭の中で繰り返し再生されているのは、データではなかった。
砂塵が晴れた後の光景。泥と血にまみれたイエヤスの姿。腕の傷。
あの瞬間、つむぎの頭に最初に浮かんだのは『鉱石』のことではなかった。
『イエヤスさんが無事でよかった』
それが最初の思考だった。鉱石の破損確認でも、データの回収でもなく。ただ、あの人が無事であることへの安堵。
つむぎは自分の手を見つめた。
顕微鏡を覗き、レポートを書くための手。鉱物研究にすべてを捧げてきた。それが自分の価値だと思ってきた。
でもあの時、鉱石よりも先に、彼のことを考えた。彼に頭を撫でられて、顔が熱くなった。
「……鉱石より、大事なことがあるんだ」
自分の声が、研究室に小さく反響した。
心配。安堵。近くにいたい。笑顔を見ると嬉しい。怪我をすると怖い。
十四歳のつむぎには、その感情にまだ正確な名前をつけられなかった。
ただ、明日もデータ収集を口実にして、彼に会いに行こう。
それだけが、彼女の中で唯一はっきりしている『真実』だった。
◇◇◇
伊吹あかりの夜。
自宅のデスク。三台のモニターに、過去最高を記録する数字の暴力が並んでいる。
同時接続数、再生数、チャンネル登録者数、企業からの案件依頼。配信者として望みうる最高の成功。
——なのに、喜べなかった。
砂塵の中、イエヤスがモンスターに向かって走った瞬間。
あかりの頭に浮かんだのは「すごい映像になる」ではなかった。
本気で怖かった。
イエヤスが傷ついたら。イエヤスが倒れたら。あの屈託のない笑顔が消えたら。
それは配信者としての恐怖ではなく、一人の女性としての恐怖だった。
あかりはモニターに映る数字を見つめた。
この数字は、イエヤスが命を張った結果だ。それを自分は配信し、数字が跳ね上がった。
「……これは、コンテンツなの?」
違う、と言いたかった。でも事実として、自分はカメラを止めなかった。そしてその判断は、数字の上では正しかった。
正しかったからこそ——気持ち悪い。
「イエヤスくんは、あの瞬間何を考えてたんだろう」
たぶん、何も考えていなかった。目の前の仲間を守るために前に出た。それだけ。数字のことも、世間の反応も、何一つ頭になかったはずだ。
あの子の中には「コンテンツ」という概念が存在しない。
「本物の感情って、厄介だな」
あかりは窓を閉め、企画ノートを開いた。
コンテンツと感情は、いつか区別がつかなくなるかもしれない。でもそれは、もう少し先の話でいい。
あかりはペンを走らせた。企画ノートの隅に、無意識に小さく書き込んでいた。
——怪我、治ったかな。
四人の夜が更けていく。
それぞれの想いを乗せて、物語はダンジョンのさらに深くへと潜ろうとしていた。




