第21話 「再出現」
異変は、空気の温度で始まった。
足元から伝わる重い振動と共に、中層の空気が急速に冷え込んだ。
生き物の体温を奪うような、底冷えする気配。
イエヤスの足が止まった。
体が知っている。親父と山に入った時、巨大な羆と遭遇した時と同じ——いや、それよりもずっと重く、濃いプレッシャー。
「…………」
凛も気づいていた。
壁にもたれていた体を弾かれたように起こし、剣を抜いている。耳を澄まし、全身の筋肉を張り詰める。
「——全員、動かないで」
凛の声が、低く通路に響いた。
彩が息を呑む。つむぎがノートを閉じる。あかりがカメラを構えたまま固まる。
地鳴り。
遠く、深く。しかし確実にこちらへ向かってくる暴力的な質量。壁が微かに揺れ、天井からパラパラと砂が落ちてくる。
「嘘でしょ……」
凛の唇が震えた。
「このエリア、先週の巡回で一級探索者のチームが駆逐したはずよ……なんで」
通路の奥の暗闇が、うごめいた。
照明が消えたのではない。通路を埋め尽くすほどの『巨大な影』が、光を遮っているのだ。
それが、姿を現した。
体長四メートルを超える、多脚の甲殻型モンスター。
全身を覆う漆黒の外殻。頭部に並ぶ三対の赤い複眼。口の隙間からは、高熱の白い蒸気が漏れ出している。
中層のモンスターではない。
凛は一目で理解した。この異常な外殻の厚さ、空気を歪めるほどの威圧感。
「深層級……!」
声が裏返った。深層のバケモノが、安全なはずの中層上部に出現している。
あり得ないことが、目の前で起きていた。
あかりの胸元で、配信カメラは回り続けている。
──────【LIVE】同接:68,411──────
: なにあれ
: でかすぎない???
: は? 中層のモンスターじゃないだろこれ
: 深層級だ 外殻の色が違う
: やばいやばいやばい
: 逃げろ!
: 配信止めて早く逃げて!!
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「藤村さん! 全員連れてゲートまで走って!」
凛が叫び、深層級モンスターの正面に躍り出た。
「凛ちゃん! あんた一人で足止めする気!?」
「護衛は私の仕事! 早く行って!!」
凛が床を蹴った。
三級探索者の少女が、自分より遥かに格上のバケモノに単騎で斬りかかる。
渾身の踏み込みから放たれた剣閃が、モンスターの前脚を叩く。
——ガキィィンッ!
火花が散った。
刃が食い込まない。硬すぎる。
モンスターが鬱陶しそうに前脚を振り下ろした。
凛は横に飛んで回避するが、その衝撃だけで通路の床がクレーターのように陥没し、爆風で体が吹き飛ばされそうになる。
一撃の重さが次元違いだ。
凛は歯を食いしばり、今度は関節の隙間を狙って二撃目を放つ。剣先がわずかに外殻の継ぎ目に入った。だが、浅すぎる。
ギシャアアアアッ!!
モンスターが怒りの咆哮を上げた。
空気が震動し、つむぎが耳を塞いでうずくまる。あかりは腰を抜かしかけながらも、配信者の業でカメラを向け続けていた。
──────【LIVE】同接:74,629──────
: 凛ちゃん!!
: 三級じゃ無理だろあのサイズ!!
: 剣が全く通ってない
: 逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ
: 一級探索者呼べ!!
: なんで配信まだ回ってんだよ!!
: あかりちゃんお願い逃げて!
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直後、凛の体が宙を舞った。
見えないほどの速度で繰り出された、尾部による薙ぎ払い。
剣の腹で辛うじてガードしたが、衝撃を殺しきれず、凛は背中から岩壁に激突した。
「がはっ……!」
肺から空気が吐き出され、足から力が抜ける。
壁にへたり込んだ凛へ向けて、モンスターが死神の鎌のような前脚を高く振り上げた。
「凛っ!!」
彩の悲鳴が響く。
凛は霞む視界の中で剣を構え直した。間に合わない。でも、護衛の仕事を最後まで——。
——空気が、裂けた。
振り下ろされる死の刃。その軌道上に、一つの影が割り込んだ。
泥まみれの作業着。肩に担いだ、黒いツルハシ。
「イエヤス——っ!? バカ、何して——」
「凛。お前はさがってろ」
声が低かった。
いつものアホみたいな呑気さは欠片もない。
イエヤスはツルハシを両手で握り直した。三対の赤い複眼と、人間の目が正面からぶつかる。
モンスターが威嚇の咆哮を放ち、凄まじい風圧と砂塵が吹きつける。
それでも、少年は一歩も退かない。
親父の声が、頭の中で響いていた。
——『女は守れ。それがモテる男の第一歩だ』
——『逃げる男は一生モテないぞ』
(……だよな)
ここで逃げたら、一生モテない。
イエヤスが、採掘用のツルハシを構えた。
戦闘には向かないただの道具。しかしこの手には、特級探索者である父親から十六年間叩き込まれた『理不尽な暴力』が宿っている。
「でかいな」
イエヤスはふっと息を吐き、ニヤリと笑った。
「まあいいや。デカくても、強く叩けば壊れるだろ」
──────【LIVE】同接:89,704──────
: あの採掘者……なんで逃げないの?
: 嘘だろ
: 嘘だろ嘘だろ嘘だろ
: やるのか?
: 深層級相手にツルハシで!?
: バカ!! 死ぬぞ!!
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モンスターが突進した。
四メートルの巨体が、通路を圧殺すべく迫り来る。
イエヤスは、前に踏み出した。
向かってくる絶望に対し、真っ向から向かっていく。
ツルハシを握る手に、限界まで力を込める。
──────【LIVE】同接:121,630──────
: は?????
: 同接12万!?
: 待って何が起きてるの
: 採掘者が深層級と正面衝突!?
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——画面の向こうが、弾けた。
泥まみれの少年が、深層級モンスターの分厚い外殻に向かって、全開のツルハシを振り下ろす。
直後、轟音がマイクの音割れ限界を超え、スピーカーを破壊せんばかりに響き渡った。
激突の余波で爆風が巻き起こり、配信画面が真っ白な砂塵に包まれる。
何が起きているのか、カメラ越しには全く見えない。
異常な速度で滝のように流れるコメント欄だけが、狂ったように更新され続けていた。
──────【LIVE】同接:124,517──────
: 見えない!
: 砂塵で何も見えない!!
: 音やばくない!? 地震!?
: イエヤスくん!!
: 頼む無事でいてくれ!!
: あかりちゃんの悲鳴が聞こえた
: 誰かこの採掘者を止めてくれ!!
: 止まるわけないだろあのバカは!!
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凛は壁に背をつけたまま、砂塵の向こうを見つめていた。
見えない。何も見えない。
だが——聞こえる。
ツルハシが規格外の硬度を叩き割る音。モンスターの苦悶の咆哮。
そして。
「硬いな——もうちょっとだ——」
笑っていた。
あの規格外のバカは、人類の脅威である深層級モンスターを相手にしながら、楽しそうに笑っているのだ。
風が吹き抜け、配信画面の砂塵が、ほんの一瞬だけ晴れた。
そこに映ったのは、ツルハシを振り上げた少年の背中。
泥にまみれ、傷つき、それでも一歩も退かずに圧倒的なバケモノと渡り合う、最強の背中。
あかりの震える声が、マイクに乗った。
「——皆様、これが……これが、今話題の採掘者、イエヤスくんです……ッ!!」
神話となる配信は、まだ終わらない。
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