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第101話 「おにぎり」

いくら待っても、その時は来なかった。


 凛は目を瞑ったまま、歪んだ剣の柄を握りしめていた。守護獣の前足が降ってくる影を全身で感じていた。風圧が髪を叩いた。地面が割れる振動が膝を突き上げた。


 だが——潰されない。


 一秒。二秒。三秒。


 おかしい。


 凛は目を開けた。


 守護獣の前足が、頭上で止まっていた。


 止まっていたのではない。——受け止められていた。


 黒ツルハシの柄が、守護獣の前足の裏に突き立てられていた。紫の光を帯びた深層鋼が、体長数十メートルの巨体の重量を、一点で支えている。


 その下に、イエヤスがいた。


 両足が地面にめり込んでいた。膝が震えている。歯を食いしばり、全身の筋肉が浮き出ている。黒ツルハシを両手で掲げ、守護獣の前足を——押し返していた。


「——遅く、なった」


 イエヤスの声が、歯の隙間から漏れた。


 凛は息を忘れた。


「十二打——打ったの?」


「打っ……た……」


 イエヤスの腕が軋んだ。守護獣の重量が一点に集中している。普通なら人間の骨など粉々になる荷重だ。だが黒ツルハシが——十二打を打ち切った直後の黒ツルハシが、紫の光を纏ったまま支えていた。


「打って——走った。親父の訓練より——ら、くだ!」


 軽口を叩く余裕はなく顔が歪んでいる。それでも口だけは動いていた。


 守護獣が前足に力を込めた。イエヤスの足がさらに地面にめり込む。膝が折れかける。


「セリア!」


 凛の声が出た。枯れかけた喉から、反射で出た。


 セリアの矢が三本連続で飛んだ。守護獣の顔を掠め、首を掠め、翼の付け根に刺さった。守護獣の注意が一瞬だけ逸れた。前足の圧が僅かに緩んだ。


 その一瞬で、イエヤスが叫んだ。


「——どけッ!」


 凛は体を転がした。左腕が使えない。右腕だけで地面を掻いて、イエヤスの足元から離れた。


 イエヤスが黒ツルハシを振り抜いた。守護獣の前足を横に弾く。弾いたというより——逸らした。数十メートルの巨体の前足が、凛のいた場所の横の地面を砕いた。


 破片が降った。土煙が上がった。


 


◇◇◇


 


 守護獣が——止まった。


 前足を振り下ろした姿勢のまま、金色の目が虚ろになった。光が揺らいでいる。さっきまでの明確な意志——排除する、という知性が、霧のように薄れていく。


 体表の金色の蒸気が消えた。鱗が一枚ずつ元の位置に収まっていく。逆立っていた全身の鱗が、ゆっくりと伏せられた。


 つむぎの声が響いた。


「覚醒率——低下しています! 八十……七十二……六十——下がり続けてる! 境界核との同期が——切れてます!」


 十二打が、通った。


 守護獣が首を持ち上げた。金色の虹彩が八人を——いや、洞窟の奥を見ていた。境界核があった場所を。


 数秒間、守護獣は動かなかった。


 それから、翼を広げた。ゆっくりと。畳んでいた翼が、朝の光の中で開かれた。金色ではない。翼の膜は薄い灰色で、朝日を透かしていた。覚醒が解けた、本来の色。


 守護獣が地面を蹴った。巨体が浮いた。風圧が全員の髪と服を叩いた。


 飛んでいく。北の山の方へ。


 戦う理由を失った獣が、巣に帰る。ただそれだけの動きだった。


 誰も動けなかった。守護獣の影が山の稜線の向こうに消えるまで、全員がその場に立ち尽くしていた。


 


◇◇◇


 


 洞窟の奥から、ユアと刃が出てきた。


 ユアは歩くのがやっとだった。魔力場を維持し続けた反動で、足元がふらついている。刃がユアの横を歩いていた。支えてはいない。だがユアが倒れたら即座に手が出る距離にいた。


 ユアがイエヤスの背中を見た。凛の横に膝をついているイエヤスを。


「——間に合ったんだ」


 刃が短く言った。


「十二打目を打った直後に走り出した」


「速すぎて消えたように見えた。ホント、あいつ人間かどうか怪しいよね」


 ユアは肩をすくめた。


 


◇◇◇


 


「左肩を見せろ」


 イエヤスが凛の横に膝をついていた。凛の左肩から血が流れ続けている。イエヤスが自分の上着を脱いで、乱暴に丸めて傷口に押し当てた。


「痛い」


「生きてる証拠だって親父がよく言ってた」


「こんなときでもお父さんの話なの?」


「なんかまずかったか?」


 凛は岩壁に背中を預けたまま、笑おうとした。肋骨が軋んで、笑いが途中で咳に変わった。


「——終わったみたいね」


「ああ」


 凛は目を閉じた。閉じたまま、長く息を吐いた。


「——よかった」


 つむぎが端末を抱えて走ってきた。


「凛さん、傷の状態を——」


「先にエルティさんを」


 凛が目を開けて、エルティの方を見た。セリアに抱き起こされたエルティが、洞窟の横の岩に凭れていた。左肩の紫の光が——消えていた。


 二十年間、一度も消えなかった光。


 エルティが自分の左肩を見下ろしていた。右手でそっと触れた。光がない。痛みがない。脈動がない。


「——終わった、の?」


 エルティの声が震えていた。


 セリアが姉の手を握った。何も言わなかった。握っただけだった。


 エルティの目から涙が落ちた。音もなく。表情はほとんど変わらなかった。ただ、涙だけが止まらなかった。


 


◇◇◇


 


 あかりがカメラを下ろしたのは、それから五分後だった。


 全員が洞窟の前に座り込んでいた。立っていられる者がほとんどいなかった。


 イエヤスは凛の横にいた。上着を傷口に押し当てたまま動かない。


 ユアは地面に座り込んで、両手を膝の上に置いていた。指先がまだ震えている。


 刃は洞窟の壁に背を預け、太刀を膝の上に横たえていた。目を閉じている。


 つむぎが端末のデータを確認していた。


「境界核の脈動、完全に停止。守護獣との同期——ゼロ。共鳴経路、十二本すべて切断確認」


 淡々と読み上げる声が、少しだけ震えていた。


「——成功です」


 誰も歓声を上げなかった。


 しばらくして、イエヤスが口を開いた。


「腹減った」


 凛が呆れた顔をした。左肩から血を流しながら。


「今それ?」


「いや——マジで腹減った。最後に飯食ったのいつだっけ」


「昨日の夜」


「道理で」


 あかりがリュックの中を探った。ビニール袋を取り出した。中身は——おにぎり。出発前に握ったものだ。


「あかり」


「え、えっと……潰れちゃってるかも……」


 ビニール袋の中のおにぎりは、案の定、半分潰れていた。形が崩れて海苔がずれている。だが米は米だ。


 あかりが一つずつ配った。イエヤスに。凛に。ユアに。刃に。つむぎに。セリアに。エルティに。


 エルティはおにぎりを両手で受け取った。じっと見つめた。


「これは——」


「おにぎり」


 あかりが言った。


「お米を握ったものです。中に具が入ってて——えっと、それは梅です」


 エルティは一口食べた。


 咀嚼して、飲み込んで、また一口食べた。


「——おいしい」


 セリアが姉の横で、同じおにぎりを食べていた。


 八人が、洞窟の前で潰れたおにぎりを食べた。


 朝日が岩場を照らしていた。守護獣が去った空は、青かった。


 


◇◇◇


 


 帰り道。


 セリアが先頭を歩いている。来た道を戻る。


 凛はイエヤスに肩を貸されていた。左肩の傷はつむぎが応急処置をしたが、足首が腫れて自力では歩けない。


「重いとか言ったら殺す」


「言わねぇよ」


「……ありがとう。助けに来てくれて」


「おう」


「——聞こえなかったら打つなって言ったのに」


「打ってから走った。順番は守った」


 凛は何か言いかけて、やめた。


 イエヤスの肩に預けた頭が、少しだけ深く沈んだ。


 


 後ろを歩いていたつむぎが、端末を閉じてその二人の背中を見ていた。イエヤスが凛の歩幅に合わせて歩いている。凛の体重を右肩で支え、左手で凛の腰を軽く支えている。無意識だろう。だが——つむぎの目には、数値以上の情報が映っていた。


 つむぎは端末を開き直した。画面に目を落とす。何も表示していないホーム画面を、じっと見つめていた。


 


 さらにその後ろ。


 ユアが刃の横を歩いていた。足元がまだふらついている。


「ねぇ」


「何だ」


「あいつさ、十二打目打った瞬間に走り出したって言ったじゃん」


「ああ」


「合図が来る前から——凛がやばいって分かってたんだよね」


 刃は答えなかった。


「アタシが同じ目に遭ってても、同じことしてたかな?」


「知らん……本人に聞け」


「聞けるわけないじゃん」


 ユアは小声で呟き前を向いた。イエヤスの背中と、その肩にもたれている凛の後ろ姿を見ていた。


「……アタシだって洞窟の中で死にそうだったっての」


 ユアは目を逸らした。


 


 あかりはカメラを回していなかった。珍しいことだった。リュックにしまったまま、二人の後ろ姿を見つめていた。


 イエヤスが凛の腰を支えている手。凛がイエヤスの肩に頭を預けている角度。普段なら絶対にカメラを向けている場面だ。


 あかりは唇を噛んで、前を向いた。


 


 セリアだけが、振り返らなかった。先頭を歩き続けていた。鉱石視覚で道を読み、根を避け、枝を退け、全員が安全に歩ける道を作っている。


 一度だけ、足が止まりかけた。後ろからイエヤスの「足、大丈夫か」という声と、凛の「あんたに心配されるほど弱ってない」という声が聞こえた時。


 セリアは足を止めなかった。一瞬の間があっただけだ。そのまま歩き続けた。背筋は伸びていた。耳の先だけが、わずかに赤かった。


 刃はそれを見ていた。何も言わなかった。穏やかとも読み取れない顔で、ただ前を歩く全員の背中を見ていた。


 


◇◇◇


 


 集落に戻ると、エルフたちが待っていた。


 守護獣が飛び去るのを見ていたのだ。何が起きたのか、分かっている者もいた。分かっていない者もいた。だが全員が、エルティの左肩を見た。


 光がない。


 エルティは集落の中央に立った。朝日が差している。二十年間この集落を守り続けた女性が、初めて——何も背負っていない肩で、立っていた。


「——終わりました」


 エルティが言った。それだけだった。


 集落が静まり返った。


 老エルフが一人、前に出た。エルティの前に立ち、両手でエルティの手を取った。何も言わなかった。ただ、手を握っていた。


 エルティがまた泣いた。今度は、声を出して。


 


◇◇◇


 


 その夜。


 八人はエルティの住居に集まっていた。凛は横になっている。左肩に包帯。足首に湿布。動くなとつむぎに言われている。


「帰還の準備は明日以降にしましょう」


 つむぎが端末を閉じながら言った。


「境界核の停止が安定しているか、最低でも二十四時間は経過を見たい。凛さんの傷もある」


「賛成」


 セリアが頷いた。


「姉さまも——休ませてあげたい」


 エルティは別室で眠っていた。境界核の停止とともに、二十年分の疲労が押し寄せたのだろう。夕方から目を覚まさない。


「つーか俺も限界」


 イエヤスが壁に寄りかかったまま言った。


 あかりがカメラのデータを確認していた。


「あの、今日の映像なんですけど……最後のところ、守護獣の足が降ってくる場面で、画面がすごくブレてて……」


「当たり前よ。あの状況で手ブレしないカメラマンがいたら逆に怖い」


 凛が横になったまま言った。


「でも——音声は全部録れてます。凛さんの合図も、イエヤスさんがツルハシで受け止めた音も」


「十分ね」


 凛が目を閉じた。


「明日——エルティさんが起きたら、今後のことを話そう。境界核が止まったこの世界がどうなるのか。帰還の手順。セリアがどうするか」


 セリアが一瞬だけ体を硬くした。だがすぐに表情を戻した。


「そうですね」


 凛はすぐに眠りに落ちた。イエヤス以上に限界だった。

 しばらく誰も動かなかった。


 イエヤスが凛の寝顔を見た。起きているときの鋭さが嘘のように、穏やかだった。左肩の包帯だけが今日あったことを物語っている。


 イエヤスは上着を——凛にかけた。


 ユアがそれを見ていた。


 何も言わなかった。ただ、膝の上に置いた両手を、きゅっと握った。


 つむぎも見ていた。端末の画面に目を落としたまま、視線だけが二人を追っていた。データを確認する指が、一瞬だけ止まっていた。


 あかりはリュックの中のカメラに手を伸ばしかけて——やめた。


 セリアは窓の外を見ていた。夜空に星が出ている。エルフの世界の、澄んだ星空。何を見ているのか、その横顔からは読み取れなかった。


 イエヤスだけが、何も気づいていなかった。


「……おやすみ」


 誰にも聞こえない声で言って、壁に凭れたまま目を閉じた。

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