第102話 「ダンジョン採掘者はモテるって聞いたのに」
翌朝。
エルティが目を覚ましたのは、陽が高くなってからだった。
セリアが姉の枕元にいた。ずっといた。エルティが目を開けた瞬間、セリアの目が潤んだが、泣かなかった。
「——おはよう、セリア」
「おはようございます、姉さま」
エルティが体を起こした。左肩に手を当てた。何もない。光もない。痛みもない。脈動もない。
「……夢じゃ、なかった」
「夢じゃないです」
エルティは窓の外を見た。朝日が森を照らしている。二十年間見てきた景色と同じだ。だが今日は違う。今日から、この景色を「守らなければならないもの」ではなく、ただ「きれいなもの」として見ていい。
しばらく黙って外を見ていたエルティが、静かに言った。
「……お腹が空きました」
セリアが笑った。泣きそうな顔のまま、笑った。
◇◇◇
全員が集まったのは昼過ぎだった。
つむぎが端末を広げた。
「境界核の停止、二十四時間経過。脈動ゼロのまま安定しています。守護獣との同期も完全に切断されたままで、再接続の兆候なし。——成功と断定していいでしょう」
「帰れるってこと?」
イエヤスが聞いた。
「帰れます。核晶を経由しての帰還は、来た時と同じ手順で可能です」
凛が頷いた。足首に包帯を巻いたまま、壁に背を預けて座っている。
「じゃあ、今日中に帰還する。異論は?」
誰も異論を言わなかった。
凛の目がセリアに向いた。
「セリア」
「はい」
「あなたは——どうする?」
全員がセリアを見た。エルティも見ていた。
セリアは立っていた。姉の隣に立って、全員の視線を正面から受けていた。
「——人間の世界に、行きます」
間があった。
「まだ見たいものがあります。知りたいことがあります。……もう少しだけ」
エルティが妹の手を取った。
「行ってらっしゃい」
それだけだった。引き留めない。泣かない。二十年間一人で世界を背負った女性は、妹を送り出す時も、静かだった。
「——必ず帰ります」
「ええ。いつでも帰っておいで」
セリアの目が赤くなった。だが涙は落ちなかった。顎を引いて、頷いた。
◇◇◇
帰還。
核晶が光を放ち、八人の体が光に包まれた。エルティが手を振っていた。集落のエルフたちが後ろに並んでいた。
視界が白くなり——
——次の瞬間、足の下に硬い床があった。
ダンジョン管理局の帰還ポイント。白い壁。蛍光灯。消毒液の匂い。
人間の世界だ。
「帰った……」
あかりが呟いた。
イエヤスの右肩に凛がまだもたれていた。帰還の衝撃で足首に痛みが走ったのか、顔をしかめている。
「大丈夫か」
「大丈夫」
帰還ポイントの扉が開いた。
立っていたのは三人。
彩と霧島と——烈火だった。
◇◇◇
「おかえりなさい。全員無事で何よりです」
霧島がいつもの隙のない口調で言った。書類の束を手にしている。
「帰還確認、八名。——エルフの方もこちらに?」
「人間の世界に来ることを選びました」
凛が答えた。イエヤスの肩に凭れたまま。
「受け入れ手続きが必要ですね。後日で構いませんが」
霧島の視線が凛とイエヤスに一瞬留まった。何も言わなかった。
烈火は壁に凭れて腕を組んでいた。何も言わず、帰ってきた八人を見ていた。
「親父」
イエヤスが声をかけた。
「おう」
「終わった。境界核、十二打で叩き切った」
「そうか」
それだけだった。烈火は笑いもしなかった。ただ「そうか」と言っただけだった。
だがその目は、イエヤスの周囲を見ていた。
◇◇◇
帰還ポイントのロビーは広い。だが今、その広いロビーの中で——不自然なほど一箇所に人が集まっていた。
イエヤスを中心に。
凛はまだイエヤスの肩に凭れていた。足首が悪いのだから仕方がない。仕方がないのだが、つむぎが「凛さん、車椅子を手配しましょうか」と言ったとき、凛は「いい。このままで平気」と即答した。
ユアがイエヤスの左側に立っていた。腕を組んで、あくびを一つ。
「アタシの増幅がなきゃ十二打通んなかったからね。感謝しなよ」
「いや、マジで助かった。サンキュー」
「……素直に言われると調子狂うんだけど」
ユアが目を逸らした。逸らしたまま、左側から離れなかった。
セリアがイエヤスの正面に立っていた。人間界に来て最初の景色が蛍光灯と白い壁というのは味気ないが、セリアは気にしていなかった。イエヤスの顔を見て、静かに微笑んだ。
「帰ってきましたね」
「おう、セリアもこっち側へようこそ」
「……はい」
セリアの耳の先が赤い。
つむぎがイエヤスの背後に回った。端末を片手に。
「イエヤスさん、帰還後のバイタルを確認させてください。十二打直後の身体負荷がどの程度残っているか——」
「今やんの?」
「今やります。手首を出してください」
イエヤスが右手を差し出した。凛が右肩に凭れているので左手は出せない。つむぎがイエヤスの右手首を両手で包むように持った。脈を測っている。測っているが、端末には何も入力していなかった。
あかりがカメラを構えていた。帰還の瞬間を記録するためだ。当然の行動だ。だがレンズは全体を映していなかった。ファインダー越しに見えているのはイエヤスの横顔だけだった。
「あかりさん、何撮ってんだ」
「か、帰還記録! チームリーダーの……えっと、周辺状況の記録よ!」
「俺リーダーじゃねぇけど」
「そうだけど! ヒーローインタビュー的なやつ!」
意味が分からなかったが、イエヤスはそういうものかと思って気にしなかった。
刃は少し離れた柱の横に立っていた。太刀を肩に預け、目を閉じている。何もしていない。だがその「少し離れた場所」は、イエヤスの声がちょうど聞こえる距離だった。誰かがイエヤスに近づくたびに、閉じた目の奥で何かが動いている気配があった。
彩は受け入れ手続きの書類を手に持ったまま、壁際に立っていた。管理官として帰還に立ち会っている。当然の業務だ。だが書類に目を落とすふりをしながら、視線がイエヤスの方に何度も上がっていた。
「——怪我してない?」
彩が言った。管理官の確認事項として自然な質問だ。自然なはずだ。
「俺は平気っす。凛がちょっとやられたけど」
「そう。……よかった」
彩はそれだけ言って、書類に目を戻した。ペンを持つ手が、何も書いていなかった。
◇◇◇
烈火はそれを全部見ていた。
壁に凭れて、腕を組んで。
右肩に凛。左にユア。正面にセリア。背後につむぎ。斜め前にあかり。少し離れて刃。壁際に彩。
全員の目が、一人の男を向いている。
当の本人だけが、何一つ気づいていない。いつものように笑って、いつものように喋って、いつものように鈍い。
烈火が壁から背を離した。イエヤスに歩み寄った。
「イエヤス」
「ん?」
「ちょっと来い」
烈火がイエヤスを手招きした。凛がイエヤスの肩から降ろされそうになり「あ、」と声を漏らしたが、つむぎがすぐに肩を貸しに入った。
烈火はイエヤスをロビーの端まで連れて行った。他の全員から少し離れた場所。
「何」
烈火はイエヤスの顔を見た。それから、ロビーの中央——さっきまでイエヤスがいた場所に視線をやった。そこには七人の女がいた。一人がいなくなった空間を、全員が見ていた。
「……お前、なかなかやるなぁ」
「え? ほめられた!? 今までまともに褒めた事ないだろ……まぁきつかったけど親父の訓練が効いたっつーか——」
「そっちじゃねぇよ」
「?」
烈火がイエヤスの頭をぐしゃりと掴んだ。乱暴に揺すった。
「まぁいい。そのうち分かる」
「いや何が——」
「帰るぞ。飯食わせてやる」
烈火が背を向けて歩き出した。イエヤスが慌てて追いかける。
「あ、おい——皆にちゃんと挨拶——」
「お前がいねぇ方が静かになんだろ。行くぞ」
イエヤスは振り返った。ロビーに残った七人が全員こちらを見ていた。それぞれの表情で。
凛が片手を上げた。ユアが舌を出した。セリアが小さく手を振った。つむぎが会釈した。あかりがカメラ越しに手を振った。刃が顎を引いた。彩が壁際で小さく手を上げた。
イエヤスは片手を上げて応えた。それだけだった。
烈火の背中を追いかけながら、夕日の差すロビーの出口に向かって歩く。
管理局の自動ドアを抜けた。外の空気が冷たい。普通の街の、普通の夕暮れだ。
隣を歩く烈火の横顔を見た。にやにやしている。
「……親父、さっきの何すか」
「何が」
「なかなかやるって」
「だから、そのうち分かるって言っただろ。——分からなくてもおもしれーから別にいいけどな」
イエヤスは首を傾げた。
夕日が長い影を作っている。親子二人が並んで歩いている。血は繋がっていない。だが並んで歩く後ろ姿は、どこからどう見ても親子だった。
「親父、いつなったら俺モテるのかな?」
「……お前は一生モテねーよ」
イエヤスが空を見上げた。オレンジ色の空。ダンジョンの中では見られない色だ。
(了)




