第78話 破壊せよ、と少女はいった
今回子どもに対する暴力描写があります(作者)。
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三歳だった。
幼稚園に通わせてもらえず、いつも家にいた。
家はふるいアパートで、パパとママは六畳の部屋を使い、わたしは四畳半の部屋を一人で使った。
パパはミュージシャン志望のフリーターで、ママはスーパーでレジを打っていた。
外にはほとんど出なかった。
出るときは夏でも長そでのトレーナーにジーンズを着せられた。
トレーナーにはアンパンマンのお友だちのメロンパンナちゃんが描かれていた。
家にいるときはタンクトップ一枚ですごした。
畳んだトレーナーのメロンパンナちゃんにひそひそ話しかけて「うるせえ!」とよくパパに怒鳴られた。
いつからパパに殴られるようになったのか覚えてない。
ある日パパに顔を蹴られ、ふっ飛んで壁に頭をぶつけた。
それがわたしの人生最初の記憶。
ひょっとしたらこの世に生まれた瞬間からパパに殴られていたのかもしれない。
パパはママがわたしをたたくのをゆるさなかった。
お気に入りのおもちゃを一人占めする子どものように、わたしをいじめる楽しみを独占したかったのだと思う。
ママは二人きりのときわたしをいじめた。
食事を抜いたり、腕にタバコの火を押しつけたり、お風呂の水に顔を押しつけたりした。
パパといっしょにいるのはこわい。
ママといるのもこわい。
四畳半の部屋はいつも暗かった。
パパはわたしに電灯をつけるなといった。
電気代がもったいないそうだ。
ベランダに出るサッシはぶあついカーテンがかけられ、それをひらくことはゆるされなかった。
四歳の一年間はほとんど家から出なかった。
毎日同じことの繰り返しだった。
朝は四時に起きてそうじと勉強をした。
起きるのがおくれたら殴られた。
七時に朝食。食べるのがおそいとまた殴られる。
それからまた勉強と家事。
パパの厳命で死にもの狂いで勉強し、わたしは四歳で字が書けた。
書いたのはひらがなだけだが、名前の「祖父江唯」は漢字で書いた。
日が暮れるとその日やった勉強と家事のできをパパがチェックする。
わたしが書いた勉強ノートや家事ノートを真剣な表情で見つめるパパの横に立ち、いつも祈った。
よくないところがありませんように。
いいところだけ見つかりますように。
「よくがんばった」とパパがほめてくれますように。
お願い神さま。
「おしおきだな」
パパの口から毎日その言葉が出た。
祈りは一度もかなわなかった。
「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、あしたはちゃんとしますごめんなさい……」
「だめだ、こい」
風呂場に連れていかれ、シャワーで冷水を浴びせられた。
ホースからすごい勢いで飛び出す水を集中的に顔にかけられ息ができない。
意識を失う。
意識を失うと殴られ目をさます。
また冷水をかけられる。
そしてまた意識を失い殴られる。
その繰り返し。
冷水をかけられ苦しむわたしのようすをママがスマホで動画に撮った。
ママは楽しそうに笑っていた。
それから濡れた体のままベランダに立たされた。
立たされる時間は日によってちがった。
一~二時間ですむこともあれば、一晩中立たされることもあった。
ベランダに立たせるときいつもパパはいった。
「泣くな。笑え」
だから裸同然のかっこうで鼻血を垂らし、夜風に吹かれながらニコニコ笑った。
お月さまがそんなわたしをふしぎそうに見つめていた。
寝る前に反省ノートを書いた。
長時間ベランダに立っていた疲労で手がふるえると「字がきたない」と殴られる。
寝るのは毎晩午前0時すぎだった。
あしたの朝四時には起きなければならない。
わたしは反省ノートの最後にいつもこう書いた。
「あしたはもっとがんばるぞ。
がんばってがんばっていいこになるぞがんばるぞ」
わたしは「がんばる」とはどういうことなのか、よくわかっていなかった。
暗い部屋だった。
カラフルなものといえばメロンパンナちゃんの黄色い顔と、彼女がはおったオレンジのマント、わたしが鼻や目や口から流す赤い血、そして手足に無数にあるピンクの火傷くらい。
おしおきで一日ご飯を抜かれたとき、火傷のかさぶたをちょっぴりちぎって食べた。
味はしなかった。
ある夜。
十一時ごろいつものようにベランダに立っていると、とつぜん耳もとでバサバサ羽音が聞こえた。
足もとを見ると、一羽のカラスがベランダに舞い降りていた。
顔をあげるとフクロウが闇にまぎれて逃げていくのが見えた。
(この子あのフクロウに追われてたんだ)
カラスは嘴とはねをケガしていた。
「じ、じっとしてて」
祈りをこめてサッシに手をかけると、驚くことになんの抵抗もなくスッとひらいた。
パパがカギをかけわすれた。
パパとママは二人とも超神経質で、そして超神経質な人だからこそ抜けたところがある。
わたしは音がしないよう慎重にサッシをしめ、室内に足を運んだ。
パパとママの笑い声が聞こえる。
二人の部屋でお酒を飲みながらテレビを見ているのだ。
足音忍ばせキッチンに行くと、テーブルにわたしのぶんの夕食があった。
焼いてない食パンと牛乳だ。
それから小瓶にはいった白色ワセリンも置いてあった。
唇が乾燥しがちなママがいつもこれを塗っている。
ワセリンのふたをあけ、中身を薬指ですくった。
ばれるとまずいからたくさんはすくえない。
「ギャハハ!」
ママの笑い声に驚いてワセリンのふたを床に落っことした。
酔っぱらったママの笑い声はこわい。
「なんか音しなかったか?」
「野良猫よ」
「ああ、下の部屋のババアよくネコにエサやるもんな」
ふすまの向こうでパパは舌打ちした。
わたしはふるえる手でワセリンのふたをしめ、食べ物を両手で抱えてキッチンを離れた。
カラスの傷口にワセリンを塗り、食パンと牛乳をあげた。
ワセリンを塗るときカラスははねを畳んでおとなしくしていた。
牛乳はコップから嘴に直接そそいで飲ませてあげた。
食べ物をあっというまに平らげるとカラスはさっさと飛び立った。
「ば、バイバイ」
わたしは去ってゆくカラスにちいさく手を振った。
その次の夜。カラスはまたベランダにあらわれた。
「も、もうごはんはないよ」
鼻血をこすりながらわたしは笑った。
しかしその次の夜もカラスはやってきた。
エサはねだらず、ただ立ち尽くすわたしの足に自分の頭をこすりつけ、機嫌のいいネコのようにグルルとのどを鳴らす。
わたしの足に触れたカラスの頭はちいさくてあたたかかった。
「か、カーキチ」
カラスの頭を撫でながら彼にいった。
「き、きみの名前はカーキチだよ」
カーキチは毎晩ベランダにあらわれた。
カーキチはわたしのたった一人の友だちだった。
五歳の春だった。春だと思う。
夜ベランダに立たされても寒さを感じなくなっていたから。
お昼すぎにママが仕事に出かけ、家にわたし一人しかいなかった。
ママが出かけてすぐ玄関に向かった。
戸締まりを確認するのがお留守番の役目だから。
うちのドアはかわっていて、外からカギをかけると中からあけられなくなる。
わたしは背伸びしてドアノブに手をかけた。
いつものように固い手ごたえを予想していたら、不意にくるっとノブがまわった
(こんどはママがカギをかけ忘れた)
わたしはかかとを床につけ考えた。
一人で外出するのは親に厳しく禁じられている。
いいつけを破ったらただではすまない。でも
(でもこの機会を逃がしたら、もう二度と一人で外に出られない。よし)
わたしはいいつけに背くことを決意するといそいで部屋にもどり、メロンパンナちゃんのトレーナーとジーンズに着替えた。
どっちの服も汚れきってよれよれにくたびれているが、これで火傷や内出血のあとをかくせる。
ひさしぶりにスニーカーをはき、ドアノブをそっとまわした。
それから一人で外に出た。
わたしは外の世界を歩いたことがほとんどなかった。
歩くことじたいまれだったからなかなかまっすぐ歩けず、ふらふらななめに歩いてすれちがう人と何度もぶつかりそうになった。
ちゃんと歩けと怒られたりしたが、それでもいい気分だった。
天気もよくて空気が甘い。
また向こうから人がきた。
わたしと同い年くらいの女の子だ。
ママと手をつないでる。
「お昼なに食べる?」
「マクドナルドがいい」
女の子にそういわれたきれいなママが「じゃそうしましょう」とうなずいた。
すれちがい遠ざかる二人の背中を見つめた。
わからないことが二つあった。
(マクドナルドってなんだろう?)
それから女の子がママと手をつなぐ理由もわからない。
わたしはパパやママと手をつないだことが一度もないから。
「泣くな、笑え」
パパはそういってベランダのサッシを乱暴にしめた。
ガチャッ、とカギがしまる音もした。
わたしの体はいつものようにびしょ濡れだった。
ちがうのは顔の左半分がサッカーボールのようにふくらんでいること。
夕方。
アパートに帰るとパパとママが待ち構えていた。
二人がかりで殴られた。
畳に倒れたわたしの頭を、パパは力一杯スカン! と蹴り飛ばした。
左のこめかみあたりを蹴られ、一瞬固まって動けないわたしの顔を、ママがゴキブリを踏みつぶすように踏んづけた。
鼻と頬の骨が砕けた。
痛みはなかった。
ただ頭が空っぽになった気がした。
その瞬間さとった。
ああ、この苦しみも、もうすぐ終わる。
「……」
昨日まであたたかかったのに、今夜のベランダはふるえるほど寒い。
はだしの足をこすりあわせ、夜空を見あげた。
正面に満月がある。
いつものくせでニコニコ笑った。
鼻血が止まらない。
目の前が暗くなってきた。
懸命にまぶたを持ちあげ、月を見た。
月面でウサギが餅をついていた。
そのときふいに足もとに風を感じた。
「グルル」
カーキチがわたしの足に頭をこすりつけ、いつものように鳴いている。
「グルル」
「カーキチ」
かすれ声でささやいた。
「わ、わたし、あの子たちと、もっと……」
そこで力尽きた。
わたしは顔に笑いを張りつけたまま、ゆっくり倒れた。
「クー、クー」
カーキチは悲しそうに泣きながら、傷ついたわたしの顔をはねでおおった。
「クー」
カーキチの声が引き潮のように遠のいてゆく。
このようにして、わたしは死んだ。
死ぬ直前、わたしはだれかに届くようにつぶやいた。
「破壊せよ」
破壊せよ、世界を。




