第72話 イザナギの呪い
ぼくは間近に立つユイの服を見た。
Tシャツのボーダーの色が赤から黒にもどっている。
(よかった。彼女ももうイケニエじゃない)
とホッとしていると
「三郎、みんなを地上にもどしたいのね?」
いつもとちがうユイの態度にとまどいながら、うん、とうなずいた。
「地上へもどるにはカオルを殺さなければならない」
「……」
「でもあなたはカオルを殺したくない。そうよね?」
ユイの顔のアザが汗に濡れ、艶やかに光っている。
ユイはいつもよりずっと大人びてきれいだった。
足もとにいるカーキチが彼女を見あげ、はてな? という風に首をかしげている。
「きみ、だれ?」
ぼくは思わず疑問を口にした。
「三郎」
ユイはふいに笑った。
「イザナミに呪いをかけなさい」
「呪い?」
「そう。古事記を思い出して。イザナミの呪いは自分を見捨てて地上へ逃げた夫のイザナギよ」
(あ)
そうだそうだった! と目を見ひらいたとき、ユイがぼくの胸もとにふわりと倒れこんだ。
あわてて受け止めたが透明な日差しのように重さを感じない。
「ユイ!」
「……さ、三郎くん?」
ここどこ? とユイは目をパチパチさせた。
(いつもの彼女にもどった)
そのとき淡島が歓声をあげた。
「穢れが消えたぞ!」
「ごめん彼女を頼む」
ユイをAにたくして頭上を見あげた。
カオルの左半身の腐肉が、おお、きれいに消えている!
黄泉醜女がいっせいにはいつくばり、八体のヘビをまとった巨大な裸の美女を崇めた。
醜女たちの態度を見ればわかる。
(今ここに新しいイザナミが誕生した)
「おなつかしい母上!」
淡島は涙だけでなくヨダレまで垂らして喜んだ。
「わたくしは淡島、あなたの息子です! さあ母上また作りましょう。今度は国ではなくもっと大きな世界を作りましょう! ちゃ~んと血祭りの用意もしておきました」
真っ白な顔に邪悪な笑みを浮かべ、淡島はぼくらを見た。
「ここにいる人間どもが血祭りのイケニエです」
カオルいやイザナミはゆっくり顔をかたむけぼくらを見た。
顔を伏せるとき、短めの髪がレースのカーテンのように揺れた。
「八雷神の雷でイケニエどもを焼きつくしましょう! そして黄泉から地上へ攻め登りましょう! 地上のすべてを破壊し新世界を作るのです!
わたしのように醜く、兄上のように手足がなく、黄泉醜女のように獰猛で、母上のように美しいものだけが暮らす楽園を。
秩序より混沌、陰湿な差別よりあからさまな憎悪、退屈な静けさより耳がまひするノイズに支配された新世界を作りましょう母上!」
「三郎」
それは? とAが問う。
ぼくはガットギターを抱えると「念じて出した」といった。
ブリガドーンの祭儀はまだ続いている。
だからさっきの相撲勝負の小道具と同じで念じれば祭具も出てくる。
「A、今から弾くギターの音を増幅して」
「OK」
ぼくはすばやく右手を振ってギターを鳴らし、音を出した。
F、B、E、コードAの四音を。
『アイル・ビー・バック』のイントロだ。
ぼくがビートルズの全サウンドでもっとも美しいと感じる音、そしてカオルが自分も弾きたいと願ったあの音。
飛び散る水滴のようにみずみずしい音が、Aの黒いボディスピーカーから大音量で放たれた。
黄泉の淀んだ空気が、一気にサウンドに洗われた。
イザナミがハッとぼくを見た。
女神の威厳が消えたあどけない表情はカオルのそれにまぎれもない。
(今だ)
ぼくは地面に横たわるヒルコを指さし叫んだ。
「あなにやし、えおとこを!」
あら、いい男。
「……」
その瞬間青白い電流のような光がイザナミの全身をつつんだ。
「シャッ!」
悲鳴をあげて八体のヘビがイザナミの体からバラバラ落下した。
「逃げろ!」
才蔵が叫んだ。
頭の上に落ちてくる巨大なヘビにつぶされないよう、ぼくらはあわてて逃げた。
ギターを捨て、Aに腕をとられ抱えられるようにして走っていると、うしろでおそろしい震動がとどろいた。
「やれやれ……三郎さん」
才蔵にうながされ振り向くと、八匹のヘビが赤い地面をのたうちまわっていた。
床屋の店頭にあるサインポールのように、ヘビがくねくね身をくねらせるたび大地がズシンズシンと揺れた。
細長い舌をムチのようにひらめかせ、ぴくぴく全身でけいれんし、やがて八匹のヘビはぴくりとも動かなくなった。
「雷のみなもとが死んだ!」
金之助が歓声をあげた。
「あらイザナミは?」
「あそこ」
ぼくが指さす先をAは見た。
もとの人間サイズにもどった女神がそこにいる。
巨大なヘビの死体に囲まれた裸のイザナミは、手足のないヒルコを愛しげに抱いていた。
「あの子になにをしたの?」
とAが問う。
さっき相撲勝負に敗れた者がそうなったように、赤い大地がヘビの死体をみるみる飲み込む。
その光景に息を飲みながらぼくはAにいった。
「イザナミに呪いをかけた。
息子のヒルコが自分の夫イザナギに見える呪いを」
「おお」
すべてのヘビが消え、黄泉の大地は静まり返った。
その静かな大地に、人の姿にもどった女神の声が明るくひびきわたった。
「愛しき、我が汝夫の命」
イザナミがささやくと、ヒルコはゆっくり目をひらいた。
自分を抱く裸の美女に気づくとヒルコは口をひらいた。
「あなにやし、えをとめお」
おや、いい女。
そういわれたイザナミはほほえみ、ふたたびヒルコを抱きしめた。
「ちょっとなにあれ」
うらやましそうにつぶやくカラミルに尋ねた。
「フランチェスコは?」
「まだ寝てるわ、色気のない子。ところであの二人は母子なの? それとも夫婦?」
「母子で夫婦だよ」
「あら~アグリッピナとネロみたい。すてき」
カラミルはそばにいたユイを抱き寄せた。
「ユイちゃんわたしたちもチュッチュしましょう」
「や、やめてください……」
おそるべき八雷神は死に、イザナミは永遠にとけない呪いにかかった。
(これで終わりだ)
とホッとしたのがよくなかった。
ふいに水がほとばしるような音がした。
音がしたほうを見ると、淡島が右手に抜き身の日本刀を持っている。
「母上、なぜわたしではないのですか」
母と兄に背後から近づき、淡島はうらめしそうな声を出した。
しかしイザナミとヒルコはひっそり抱き合ったまま彼に気づかない。
「なぜわたしに『あなにやし、えおとこを』といってくれないのです」
淡島は日本刀をふりかざした。
(カオルを斬る気だ)
ぼくはあわてて叫んだ。
「やめろ!」
「なぜ『愛しき我が汝夫の命』といってくれないのです!」
淡島は日本刀を振りおろした。
まにあわない! と観念したときドボッとにぶい音がした。
「あきまへんな」
卑弥呼の白い着物が、彼女が頭から流す血で緋色に染まった。
カオルとヒルコの盾となって、代わりに斬られたのだ。
「こんなことしても、班長はんもううちを好いてくれないのに」
卑弥呼は苦笑いをうかべてヒルコを見た。
「惚れた弱みでしょーもないことしてしもた。でも好きやからなあ……」
「グエ!」
Aの右ストレートを顔面に浴び、淡島は後方へふっ飛んだ。
卑弥呼はその場に倒れた。
カラミルは駆け寄ると血まみれの卑弥呼を抱きかかえた。
「あなたの血、おいしそうなにおいがする。でもいただかないわ。死人の血は飲まない。それがわたしたちカルンシュタイン家の掟なの」
カラミルは卑弥呼の目をそっと閉じた。
ヒルコとイザナミはそのようすを黙って見ていた。
「あら?」
嘉子がきょろきょろあたりを見わたした。
目に生気がある。
完全にブリガドーンの祭儀が終了し、行司の役をとかれ本来の自分をとりもどしたのだ。
彼女の胸もとにある勾玉が、そのとき白い光を放った。
「体が」
嘉子の体が宙に浮いた。
勾玉の光にみちびかれるように、美津子さんやさゆり先生もあとに続いて宙に浮く。
「みなさん、地上へ帰るときがきました」
空中から嘉子が呼びかけると、クラスメートや団員たちの体もつぎつぎ宙に浮かんだ。
「わしは残る」
カラミルからあずかった卑弥呼の遺体をかかえ、関樽吉はぼくにいった。
「ここでヒルコとイザナミに永遠につかえる」
「そうですか」
そこでぼくの体も宙に浮いた。
「姉さん、姉さんも帰ろう!」
空中で康成が叫んだが、イザナミいやカオルは悲しげに首をふった。
「わたしはここに残ります。ふしだらな姉でごめんなさい。わたしのことは忘れてどうぞあなたは幸せになって」
「姉さん!」
「さよなら康成、あなたを愛してます。それから三郎くん」
カオルがぼくを見た。
「いろいろありがとう。なにか困ったことがあったらいつでも呼んで。力になるわ」
「いっしょに帰ろうよ!」
ヒルコや黄泉醜女の姿が、江津湖の湖面で遊ぶカモのようにみるみる遠くちいさくなってゆく。
ぼくは大声で叫んだ。
「ぼくからギターを習うんだろう!」
「もう習ったわ」
カオルは笑った。
「あなたのギターの音が、さっきからずっと体の中で鳴ってるもの」
そのときユイに寄り添うように飛んでいたカーキチが「カーッ!」と一声鳴いた。
そのするどい鳴き声が、忌まわしい秘儀ブリガドーンの終わりを告げるフィナーレだった。




