第66話 ボクサー対空手家
「まだ死なんのか?」
有明一機は苦笑いした。
「がんばっても苦しいだけだぞ」
「ふざけんな!」
前衛喜劇の道化衣裳のように顔と手足に血の帯をまとい、それでもケンイチはふるえる体でファイティングポーズをとった。
「おれは空気なんかじゃ死なねえ、殺したかったら生のこぶしで……」
「そうする」
といったときすでに有明はケンイチの目と鼻の先に立っていた。
有明は傷ついているケンイチの左足をローキックでするどく蹴った。
「うっ」
「まだ」
有明の右ひじがケンイチのこめかみを切り裂いた。
すぐ左ひじが反対側のこめかみを切り裂く。
顔の側面を守ろうとケンイチのガードがひらくと、有明はひらいたガードのどまん中に上段突きをたたきこんだ。
のけぞりながらそれでもケンイチが必死にガードを閉じると、有明は弱ったクジラに襲いかかる賢いサメのように、がら空きの脇腹をこぶしでえぐった。
ぱきん、と肋骨が折れる固い音がした。
「ぐええ……」
マウスピースを吐き出し、ケンイチはその場にうずくまった。
「生のこぶしの味はどうだ」
空手家は血を吐くボクサーを冷然と見おろした。
「そろそろタオルを投げたら……お?」
有明は急にへんな声をあげた。
彼の鼻からぽたぽた血がしたたったのだ。
「なんだ? ……はじまったな」
「おい!」
尻もちついたままボクサーは悲鳴をあげた。
ケンイチが手にはめた赤いグローブが、水をそそいだ風船のようにみるみるふくらんでゆく!
「さっき攻撃しながらグローブのすきまに針の穴サイズの空気弾を送りこんだ」
鼻血をぬぐって有明は笑った。
「もうすぐ爆発する」
「やめろ! ……」
とケンイチが吠えたとき、グローブが血しぶきあげて爆発した。
「ぎゃあ!」
ケンイチは死にかけのゴキブリのように足をじたばたさせ地面をのたうちまわった。
「……」
無言で卒倒した日百に孫君があわててかけよる。
殴られた本人より家族が先に失神することはボクシングの試合でよくある。
「しっかりおし! 惚れた男が生きるか死ぬかの瀬戸際だよ!」
「……あい、姉さん」
日百はうっすら目をひらいた。
「いてえいてえよ!」
「頭を地面につけるな!」
ふだんクールなコウヘイが珍しく怒鳴った。
「うるせえ! 親指がちぎれた」
泥まみれになってベソかきながら、ケンイチは股のあいだに両手をはさんだ。
尻尾を巻いた負け犬のように。
「ちぎれたのはどっちの手だ?」
自分の足もとに飛んできた相棒の親指を見つめながらコウヘイが問う。
「右手だよバカ野郎、もう戦えねえタオル投げろよ……」
「左手は無事なんだな?」
「血だらけだバカ」
「骨は?」
「折れてねえ」
「ならジャブは打てる」
コウヘイがきっぱり断言すると、ケンイチは泣くのをやめた。
「それにちぎれたのが小指だったらおれもタオルを投げた。でもちぎれたのは親指だ。おれがおまえのトレーナーになって最初にいった言葉を覚えてるか? パンチをコントロールするのは小指だ、小指を意識しろ。おれはおまえにそういった。ケン、
まだパンチを打てるぞ」
「……」
股にはさんでいた両手を抜き、ケンイチはその手を自分の顔の前にかざした。
右も左もバンテージが引きちぎれこぶしがむき出しになっている。
血だらけだ。
でももうふるえてない。
「おい」
と、そのとき有明がいった。
「おまえおれに、なにをした? ……げえ!」
有明はとつぜん口から血と折れた歯を吐き出した。
「な、なんだこれは?」
「はは、やっと効いてきた」
ケンイチはうれしそうにあぐらをかいた。
「よお、おまえさっきおれに蹴りやひじ打ちごちそうしてくれたけど、あんときおれを何発殴った?」
「五発」
「そうだよな。でもあんときおれもおまえにパンチ打ち返したんだぜ」
「なんだと? 何発?」
「十二発」
「ウソつけ!」
「速くて気づかなかったみてえだな、へへ」
「そんなバカな……うう!」
有明は突如老人のようにガクガクひざをふるわせた。
「なんだこれは?」
「レバー(肝臓)ブロー。肝臓殴られると足が動かなくなるのさ」
ケンイチはヌーッと立ちあがった。
「おれの誘いに乗ってインファイトしたのがまちがいだったな、有明」
「三分よ!」
タイムキーパー役のAが叫ぶ。
「一ラウンドすぎたか。よおどうする? 足が使えないんじゃ空手家は勝負になんねえだろ?」
「足は使えずとも……」
有明はさっと頭上に右手を伸ばした。
「弾は打てる!」
「いいね」
ケンイチも両手をあげファイティングポーズをとった。
二人のあいだの距離はおよそ四~五メートル。
「おい」
虚空に五芒星を描きながら有明がいった。
「おまえはなんのために戦うんだ?」
「おれ?」
ケンイチはチラッと日百を見た。
「惚れた女を守るため。おまえは?」
「世界を滅ぼすため」
「なぜ滅ぼす?」
「世界が憎い」
「そうかい。でもむかしのえらい人が『世界ときみとの戦いでは世界を支援せよ』っていってるぜ。考えなおしたらどうだ?」
「おまえあんがいインテリだな。なぜかくす?」
「得意なパンチは最後までかくしとけ。シュガー・レイ・ロビンソンがそういったのさ」
憧れのボクサーの名前を口にしてケンイチは照れ笑いした。
やがて有明は五芒星を描き終えた。
圧縮された空気に吸われ、ケンイチの前髪が春風になぶられる野草のように優雅にそよぐ。
「よお」
そこでケンイチがいった。
「今からやありあったらおれかおまえのどちらかが確実に死ぬ。やっぱりやめねえか?」
「断る」
「なぜ?」
「おれは生の喜びを知らない。おれの唯一の趣味はおまえのように人生を楽しんでいるやつを試合という合法の場でたたっ殺すことだ。だからやめない。いくぞ!」
有明はそのときはじめて笑った。
ぞっとするほどさわやかな笑顔だ。
仮面のように笑みを顔に張りつけ、金髪の空手家は絶叫した。
「拳禅一如!」
有明は火を噴く勢いで虚空の五芒星に突きを入れた。
コンマ一秒おくれてケンイチが空気を切り裂く右ストレートを放つ。
次の瞬間パン! と乾いた音が大地にとどろいた。
「打ち返した……」
とつぶやき佐助は絶句した。
パン! という乾いた音は、ケンイチのパンチで打ち返された空気弾を被弾し、有明の頭が爆発した音だ。
白い空手着を朱に染め、有明はその場にゆっくり崩れ落ちた。
「右のカウンター。おれのいちばん得意なパンチ。だからいったろう? 得意なパンチは最後までかくしとけって」
死体となった相手を見おろし、ケンイチはさびしそうにつぶやいた。
「おまえはなにかを憎むにはすなおすぎたよ。憎んでもちっとも楽しくなかっただろう? 有明一機……」
有明の死体は音もなく赤い地面に沈んだ。
「やったな高森どの!」
「あっぱれ!」
それまで固唾を飲んで見守っていた団員たちが、団体戦初の一勝をあげたケンイチをドッとかこんだ。
その中にさゆり先生やクラスメートもまじっている。
「かっこいい!」
「サインして!」
オサムとランが無邪気に叫ぶ。
優等生の太一と引きこもりのタケシは無言で目を輝かせ、さゆり先生も頬をバラ色に染めていた。
「どーもどーも」
「ケンイチさんこっちこっち」
ぼくは歓喜の輪から英雄をひきはがすと嘉子のもとにつれていき、淡島に傷の手当てをさせるように頼んだ。
「なぜわたくしが?」
「勝負はついた。遺恨を残すな。治してやれ」
嘉子に命じられた淡島がしぶしぶ手をかざすと、見よ、ケンイチのちぎれた親指が元通りくっついた。
「ハハ、前より調子いいや。ありがとね団長さん」
ケンイチは今にも噛みつきそうな淡島の表情にはまるで気づかず、くっついた親指を日百に見せともに喜んだ。
そのとき歓喜の輪から離れた場所で、カラミルが一人で準備運動していた。
やっているのは足を大きくひらいて上半身をひねる股間と腰の柔軟体操だ。
「ダーリン」
ぼくが近寄るとカラミルは「フランチェスコは今生物なの?」と尋ねた。
「霊体とかそういうのではなく」
「生物だよ」
ちらっとうしろを見た。
短刀グラディウスを手にしたフランチェスコがもう試合場に立っている。
「ただし人間じゃない。黄泉という亜空間で罪人を食う怪物になった。でもなぜ彼は黄泉醜女になったんだ?」
ぼくは赤くなった自分の髪をかきむしった。
「世の中に恨みや執着を持つ人間が黄泉醜女になる。恨みや執着が呪いとなって人を怪物にするんだ。でも生きてるときのフランチェスコは恨みとか執着からいちばん縁遠い人間に見えたけどなあ……」
ぼくの話を聞くカラミルの顔に、そのとき一瞬影が走った。
(彼女フランチェスコのことなにか知ってる)
それはなに? と尋ねようとしたらカラミルがアゴをしゃくった。
「見て」
振り向くとフランチェスコがこちらを見ていた。
笑ってる。
笑ってるのになんだかこわい。
「Xに乗っとられたときのサンジみたいな表情ね。悪意と殺意に満ちてる。あの子まえはあんな笑いかたしなかった」
カラミルは悲しげに首を振った。
「きみになんていえばいいのかわからない」
ぼくはため息ついた。
カラミルは足を閉ざすとまっすぐ立った。
「あれはもうフランチェスコじゃない。それはわかってる。でもあいつを殺してくれとはいえない。だって彼はぼくの友だちだから……」
「大丈夫よダーリン」
なぐさめるようにカラミルはぼくの頬を撫でた。
「あなたがいうようにフランチェスコは呪いをかけられてる。わたしはあの子にかけられた呪いがなんだかよく知ってるの。それがどういう呪いなのかはあの子の名誉にかかわるからいえない。それにわたしは呪術師や聖職者じゃないから他人にかけられた呪いをとくこともできない。
でも呪いを武器にすることはできる。
永遠に死なない呪いをかけられた吸血鬼は呪いのエキスパートなの。ダーリン赤い髪がすてきよ。あなたの短刀貸してくださる?」
ぼくはカラミルに不知火丸をわたした。
「これから戦う奴隷女になにかご褒美くださらない? ご主人さま」
カラミルの急なリクエストにぼくは首をひねった。
「えーと、じゃあ、きみの愛の力でフランチェスコの呪いを祓ってくれたら……」
「どうしたのダーリン? 顔が赤いわよ」
目ざといカラミルにからかわれた。
ふだん口にしない愛という言葉を口にしたら恥ずかしくなったのだ。
「なんでもない」
ぶっきらぼうに返事をするとカラミルは笑った。
「ごめんなさい。愛の力で呪いを祓ったらなにをくれるの?」
「新発売の陣太鼓ソフトクリームおごる」
「フフ、約束よ」
もう一度ぼくの頬を撫でるとカラミルは試合場に向かった。
彼女が向こうを向くとき香水夜間飛行の重く甘い香りが鼻をうった。
こうしてぼくと主従の契約を結んだ、世界でいちばん有名な女吸血鬼の手に世界の運命は託された。




