第七章 仮設足場の解体
水曜日の午後八時。私は予定通り、二日早く東京の自宅へと帰還した。玄関のドアを開けると、いつものように見慣れた我が家の景色が広がっている。しかし、一級建築士である私の目には、その空間に染みついた嘘の気配が、壁の染みのように克明に浮かび上がって見えた。「おかえり、美咲! 予定より早くて驚いたけど、無事で良かった」律がリビングから足早に現れ、私のキャリーケースを受け取った。その動き、その笑顔、その声のトーン。すべてがIT企業の優秀なディレクターらしく、徹底的に計算され、最適化された歓迎のプロトコルだった。「ただいま、律。急に現場の段取りが変わってね。無理を言って子供たちを実家から戻してもらうことになって悪かったわ」「いやいや、結菜も駆も、ママに早く会いたがっていたからちょうど良かったよ。今、二階で宿題をさせているところさ」律は実になめらかに言い、私をリビングへと促した。ソファーに腰を下ろしながら、私はさりげなくリビング全体を観察する。ローテーブルの上のティッシュボックス、デザイナーズチェアの角度。すべてが、私が数日前に指定したミリ単位の基準値へと正確に戻されていた。
律は、私が空間の狂いで浮気を察知する人間だと学習したのだ。だからこそ、今回は私の裏をかき、完璧に元通りにリセットすることで、私に「今回は何もなかった」と誤認させようとしている。愛おしいほどの、徹底的な隠蔽工作。だが、彼が私の目を盗んでハッキングしたつもりになっている我が家の換気ダクト、その奥に仕込んだ本物の環境センサーは、彼が消臭剤を大量に噴霧して空気の組成を不自然に歪めた履歴を、秒単位のグラフとして私のスマートフォンに送り届けている。「広島のプロジェクトは、どうだった? 真壁建設さんとの仕事だし、色々と大変だっただろう」律がキッチンから、温かい紅茶を淹れて持ってきてくれた。彼がソファーの対面に座る。その視線が、一瞬だけ、ダイニングテーブルの端へと泳いだ。先週末、私がわざと置いていった、あの真壁建設の未公開の見積原価表。今は私の手元にあるが、律の頭の中には、あの書類からスマートフォンのカメラで盗み出した偽の不正データが、確実な勝利の切り札として鎮座しているはずだ。「ええ、大変だったわ。でもね、律。真壁建設の社長から、次のフェーズのデザインについても、私に一任したいと直々に仰っていただいたの。私の事務所にとっては、これ以上ない最高のリターンよ」私は紅茶のカップを口元に運びながら、わざと誇らしげに言った。 律の表情が、一瞬だけ硬直する。彼の利己的な脳内では、今頃、激しい矛盾の計算が始まっているはずだ。「おかしい。美咲はあの原価表で不正な利益を得ているはずなのに、なぜ真壁建設の社長とそんなに良好な関係なんだ? ……いや、違う。美咲はまだ、自分の不正が社長に露見していないと思い込んでいるだけだ。香織がそのデータを社長に突きつければ、この女の栄光は一瞬で砂の城のように崩壊する」律の瞳の奥で、そんな黒い確信が濁っていくのが手に取るように分かった。「それは……本当に良かったね、美咲。一級建築士としての君の努力が、最高の形で実を結んだわけだ。僕も誇らしいよ」律はそう言って、実に見事な妻の成功を喜ぶ夫の笑みを作った。全ての人間は利己的である。そして、自分の計画が完璧だと思い込んでいる人間ほど、足元に掘られた深い溝に気づかない。律は今、私が仕掛けたダミーデータを真壁建設の社内に持ち込ませるための足場を、自分から熱心に補強してくれている。「ええ、ありがとう。でも、少し疲れたから、今夜はもう休むわね」
私は立ち上がり、夫に背を向けた。私が階段へと向かう動線の中で、律が背後で静かにスマートフォンを取り出す気配がした。彼は今夜、必ず香織に連絡を取り、「美咲が帰ってきた。あのデータを今すぐ社長に叩きつけろ」と、最後の引き金を引くように促すだろう。自ら編んだ縄で、いよいよ首を吊る準備が整いつつある。二階への階段を一段ずつ上りながら、私は暗闇の中で冷酷な笑みを深めていた。




