表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/11

第六章 決戦の図面

 建築における仮設工事とは、本工事を安全かつ確実に進めるための足場固めである。そして優れた設計者は、その足場が解体される瞬間まで、決して施工の全容を周囲に明かさない。真壁建設の法務コンプライアンス室との密談を終えた私は、広島のホテルに戻り、再びノートパソコンの前に座っていた。 画面には、自宅のリビングの環境データではなく、私が特別に用意した、もう一つのサーバーのアクセスログが表示されている。律が香織に送信した、あのダミーの見積原価表の画像ファイル。そこに埋め込んでおいた超小型の追跡プログラムが、今、真壁建設の本社内、それも経営陣が並ぶトップフロアのIPアドレスからアクセスされていることを示していた。「始まったわね」私は冷え切ったハーブティーを口に含み、画面を凝視した。香織は私の予想通り、あるいはそれ以上の速度で動き始めていた。有力ゼネコンの令嬢として甘やかされて育った彼女は、自分が手に入れた美咲の不正の証拠を、一刻も早く父親である社長に見せつけたくて辛抱たまらなかったのだろう。自分が企業の心臓部である機密データを、外部の不倫相手から不正に受け取ったというコンプライアンス違反の重大さに、一ミリも気づいていない。しかし、無知な利己主義者ほど、コントロールしやすい人形はない。



 一方で、東京の自宅にいる夫、律の動向も興味深かった。自宅のリビングの定点センサーは、律がこの数日間、妙に落ち着き払った様子で過ごしていることを示していた。普段なら私が不在の週末は、夜遅くまでマーケティングの仕事にかこつけて外出するか、あるいは香織を再び連れ込むはずの男だ。しかし、彼は木曜日のあの強制再起動以降、一度も香織を自宅に呼んでいない。それどころか、実家から戻ってきた結菜と駆の面倒を、実によく見ている。画面に表示される律の移動動線は、キッチンとダイニング、そして子供たちの部屋を往復するだけの、非の打ち所がない理想の父親の数値を叩き出していた。普通の妻なら、この夫の変貌を見て「一時の迷いから冷めて、家庭を大切にしようと思い直してくれたのかもしれない」と、淡い希望を抱くのだろう。



だが、私の一級建築士としての脳は、その不自然なほど直線的で無駄のない動線から、彼の内面にある冷酷な確信を読み取っていた。律は、反省など万に一つもしていない。彼は「すでに妻を社会的に抹殺し、この家も財産もすべて自分のものにするための絶対的な手札を手に入れた」と確信しているからこそ、これ以上リスクを冒す必要がないのだ。今はただ、出張から帰ってくる私を油断させ、来るべき離婚調停の席で「いかに自分に非がなく、美咲が家庭を顧みない悪徳建築士であるか」を演出するための、完璧なアリバイ作りに励んでいるに過ぎない。私は、おもむろにスマートフォンを取り出し、律にメッセージを送った。「プロジェクトの修正が順調に進んだから、予定より二日早く、明日の夜には東京へ戻れそうよ。子供たちの大好きな広島のお土産を買っていくわね」送信ボタンを押して、わずか数秒。 「それは良かった! 無理しないで気をつけて帰ってきてね。結菜も駆も、美咲の帰りを心待ちにしているよ」定型文のような、暖かみのある返信。だが、私のパソコンの画面上では、メッセージを受信した直後、律の熱源が急激に書斎へと移動したことを示していた。彼は今頃、私にバレないよう、香織と最終的なタイミングの同期を図っているはずだ。「明日、あなたが帰宅した瞬間が、私の勝利の設計図の第一段階の完成よ」私はノートパソコンを閉じ、キャリーケースに荷物をまとめ始めた。金魚鉢の水を一気に抜くための排水弁は、すでに開かれつつある。しかし、金魚たちはまだ、自分たちが干からびる寸前であることすら知らずに、最後の傲慢なひと泳ぎを愉しもうとしている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ