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第五章 崩落の足音

 最も隙を見せるのは、自身の完全勝利を確信した瞬間だ。週末が明け、月曜日の朝。私は何食わぬ顔でダイニングテーブルからあの特記仕様書のファイルを回収し、広島の現場へと向かうために自宅を出た。律はいつものように、完璧な良き夫の顔で見送ってくれたが、その瞳の奥には、私を出し抜いたという下品な全能感が隠しきれずに滲んでいた。新幹線に乗り込み、座席を確保すると同時に私はノートパソコンを開いた。自宅のルーターに仕込んだパケット解析ログをチェックする。案の定、昨日の日曜日、律が自宅の書斎から特定の暗号化されたクラウドストレージへ、大容量の画像データをアップロードした形跡が残されていた。宛先は、真壁香織のプライベートアドレス。「綺麗に喰いついたわね、律」私は冷え切ったアイスコーヒーを口に含み、車窓を流れる景色を眺めた。建築の世界において、地盤の緩い土地に巨大な建物を建てることは自滅を意味する。律と香織が今やっていることは、まさにそれだ。



 律から「美咲の不正の証拠」としてダミーの見積原価表を受け取った香織は、今頃、勝利の美酒に酔いしれているに違いない。プライドの高い彼女のことだ、これを自分の父親である真壁建設の社長や、懇意にしている役員に突きつけ、気鋭の女性建築士である私をプロジェクトから引きずり下ろし、社会的につまはじきにする算段を立てているはずだ。だが、その行為こそが、彼らの逃げ場を完全に塞ぐ。私は広島駅に到着すると、現場ではなく、あらかじめアポイントを取っておいた真壁建設本社の法務コンプライアンス室へと直接向かった。応接室で私を待っていたのは、真壁建設の法務部長と、私が個人的に契約している一級建築士の係争に強い弁護士だ。「永瀬先生、お疲れ様です。例の件、準備は整っております」法務部長は、非常に厳しい表情で私に一礼した。真壁建設ほどの有力ゼネコンにとって、社外秘である原価データや特記仕様書が外部に漏洩することは、株価や企業の信用に関わる重大なインシデントだ。それが、社長の令嬢という身内の「個人的な不倫の嫌がらせ」のために利用され、外部のIT企業社員(律)の手に渡ったとなれば、会社としては断固たる処分を下さざるを得ない。「こちらが、主人の端末から真壁香織様の端末へ、御社の機密データが送信されたことを示す、タイムスタンプ付きのアクセスログです。私の自宅のサーバーから公式に抽出したものです」私は用意してきた書類をテーブルに滑らせた。律が私の仕掛けた床センサーや回線遮断をハッキングしているつもりで残したすべてのログが、ここでは「彼が意図的に、かつ計画的に機密データを盗み出そうとした」という悪質性を証明する、最高の補強材料に化けていた。「間違いありません。これは不正競争防止法違反、および営業秘密侵害罪に該当します。香織お嬢様に関しても、懲戒解雇を含む厳しい社内処分と、会社からの損害賠償請求の対象になります。……永瀬先生、本当にろくでもない身内がご迷惑をおかけして、申し訳ありません」法務部長が深く頭を下げた。彼らの怒りは、今や私ではなく、会社を危機に晒した香織と、彼女を唆した律へと完全に向けられている。「いいえ。私も、妻としての情ではなく、一人のビジネスパートナーとして、この世界の規律を正したいだけですから」私は静かに微笑んだ。愛だの情だの、裏切りの悲しみだので動くフェーズはとうに終わっている。これは冷徹な構造改革だ。律は、私から慰謝料と自邸を奪うための爆弾を香織に渡したつもりだろう。だが、香織がそれを会社で起動させた瞬間、それは真壁建設という巨大な鉄槌となって、二人の頭上へと叩きつけられる。律はIT企業を懲戒解雇され、巨額の損害賠償を背負い、香織もまたすべてを失う。



 広島の青空を見上げながら、私はスマートフォンの画面をタップした。自宅のリビングの換気システムを、通常モードへと遠隔で切り替える。水槽の排水弁のレバーに、私の指が触れた。あとは、二人が自らそのレバーを押し下げるのを、じっと観察するだけだ。


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