第四章 餌の追加
一週間の広島出張を終え、私は金曜日の夕方に帰宅した。 実家に預けていた結菜と駆は、私が帰るのに合わせて自宅に戻るよう、母にあらかじめ段取りを頼んでおいた。玄関を開けると、子供たちの賑やかな声が出迎えてくれる。「おかえり、美咲。出張、お疲れ様。大変だっただろう」リビングから現れた律は、実になめらかな良き夫の笑みを浮かべていた。一昨日の夜、この部屋でクライアントの令嬢と肌を重ね、私の遠隔アクセスを必死に遮断していた男とは到底思えない、完璧な擬態だ。「ただいま、律。子供たちを実家に預けてまで仕事に集中させてくれて、本当に感謝しているわ」私は微笑み、彼の胸に顔を埋めた。空間の匂いを嗅ぐ。 換気ダクトの粒子アナライザーが検知した通り、あのフローラル系の香水臭は、市販の消臭剤によって不自然なほど完全に消臭されていた。痕跡を消したという安堵が、彼の体をリラックスさせているのが伝わってくる。「いや、気にしないでくれ。美咲の大きな仕事のためだからね。あ、そういえば木曜日の夜に、自宅のルーターが一時的にシステムエラーを起こしたみたいなんだ。僕が遠隔で再起動をかけて復旧しておいたよ」律が、さも今思い出したかのように、平然とした口調で言った。私が仕掛けた強制再起動を、自分の手柄にすり替える。自分のハッキングが私に露見していないかを確認するための、彼なりの探りだ。「そうなの? ありがとう、助かったわ。最近、広島の現場とデータをやり取りする量が増えているから、サーバーに負荷がかかったのかもしれないわね」私は泳がされている金魚に、さらに居心地の良い水温を提供してやることにした。鞄から、一通の厚いファイルを取り出し、わざとらしくダイニングテーブルの上に置く。「……それは?」律の目が、獲物を見つけた肉食獣のように微かに細くなった。「真壁建設さんからお預かりしている、今回のホテル再生プロジェクトの特記仕様書と未公開の見積原価表よ。絶対に社外秘なんだけど、どうしても週末の間に自宅で図面と照合したくて持ち帰ってきたの。週明けには現場の金庫に戻さなきゃいけないんだけどね」私はそう言い残し、「着替えてくるわね」と子供たちのいる二階へと上がった。
階段を上りながら、スマートフォンの画面でリビングの熱源センサーとカメラのログを起動する。案の定、私がリビングを出てからわずか十秒後、律の熱源がダイニングテーブルへと移動した。彼は周囲を気にするように一瞥してから、スマートフォンのカメラを使い、その社外秘ファイルのページを高速で撮影し始めた。画面の向こうで、律の口元が醜く歪んでいる。「これで美咲の弱みを握った。真壁建設の原価データを私が突きつければ、美咲は不正を疑われて破滅する。離婚調停は私の完全勝利だ」とでも考えているのだろう。愛おしいほどに哀れな金魚。彼が今、必死に撮影しているその書類は、私が真壁建設のプロジェクトマネージャーと事前に合意の上で作った、ただのダミーの原価表だ。そこには、一見すると不自然な利益率に見えるが、プロが見れば正当な理由が証明できる、精巧な罠が仕込まれている。だが、建築の素人である律にはその区別がつかない。そして何より、彼がそのデータを「私の合意なく撮影し、真壁香織を通じて真壁建設の内部に持ち込もうとした」という事実そのものが、不正競争防止法違反、および重大な機密情報の窃盗という犯罪の動かぬ証拠になる。
私は二階の自室で、冷徹な一級建築士としての計算を完了させた。律は必ず、この週末のうちに香織へこの画像データを送る。そして香織は、私を追い落とすための材料として、自分の父親である社長や役員会にこれを提出するだろう。お前たちが自ら編み上げたその縄が、二人の首を同時に締め上げる瞬間が、確実に近づいている。「さあ、夕飯にしましょうか」私は階段を下り、何食わぬ顔でリビングへと戻った。テーブルの上のファイルは、ミリ単位の狂いもなく元の位置に戻されていたが、私のシステムには、彼の指紋と同じくらい確実な、利己主義者の足跡が刻まれていた。




