第二章 水槽の金魚たち
木曜日の午後八時。広島のホテルの自室で、私はノートパソコンの画面を見つめていた。 画面上のスマートホームのインジケーターが、静かに点滅を開始する。自宅のルーターが未知の端末いや、私にとっては既知の、真壁香織のスマートフォンの接続を検知したのだ。真壁香織。今回のホテル再生プロジェクトの発注元である真壁建設の令嬢。私にとっては絶対に逆らえない最大手クライアントの娘であり、そして、私の夫の浮気相手だ。律は私が不在の一週間、子供たちの面倒を見る約束だった。しかし彼は、香織を我が家に連れ込むため、水曜日の夜から「仕事が急に忙しくなった。週末までおばあちゃんの家に行っておいでおいで」と口実を作り、結菜と駆の二人を私の実家へ送り届けていた。子供たちを体よく追い出し、これで障害は消えたと確信しているのだろう。彼が私の実家に子供を預けると連絡してきた時、スマートフォンの向こうでニヤついていた顔が容易に想像できる。それすらも、私が仕組んだレイアウトであるとも知らずに。指向性マイクが、子供たちの消えた、静まり返った自宅の玄関が開く音を拾う。
「お邪魔するわね、律」「よく来たね、香織。さあ、リビングへ」画面に映る二人の動きは、妙にぎこちなかった。香織はフローリングの特定の継ぎ目を避けるように、不自然に壁沿いを歩き、ソファーの端の、構造的に一番硬いフレーム部分に腰掛けた。私は思わず、暗いホテルの部屋で声を上げて笑ってしまった。「ふふ……あははは!」愛おしいほどに浅はかな金魚たち。律は、自分が私の仕掛けた床のセンサーやクローゼットの荷重計に気づき、それを香織に伝えて完璧に偽装しているつもりなのだ。ディレクター職の彼らしい、いかにもIT的なハッキングのつもりだろう。だが、彼が必死に避けているそれらの罠は、私に「バレた」と思わせるためにあえて分かりやすく残しておいた偽の設計に過ぎない。彼らが壁沿いを歩くことで、逆にリビングの四隅に仕込んだ超高感度熱源センサーが、二人の体温と質量を狂いなく捉えている。香織が私のものと同じ柑橘系の香水を纏って浴室の換気扇を誤認させようとしているのも、吸気ダクトの奥の粒子アナライザーにかかれば、成分の揮発速度の差で「別の人間が付けたもの」だと一発で弾かれる。彼らは、私が作った透明な金魚鉢の中で、必死に私の目を盗んで泳いでいるつもりなのだ。「ねえ、律。美咲さんは今頃、うちの会社が発注した広島の現場で、必死に頭を下げて図面を直しているわよ。まさか自分の城が、こんな風にハッキングされているとも知らずにね」香織が律の胸に寄り添いながら、歪んだ優越感に浸っている。香織はクライアントの娘という立場を利用して私から夫を寝取る快感に溺れ、律は私の目を盗んで極上のスリルを貪っている。二人がソファーで重なり合おうとした、その瞬間。私は手元のキーボードを叩き、自宅のシステムへ強制再起動コマンドを送り込んだ。画面の向こうで、リビングのインターホンパネルが真っ赤に点滅し、機械音声の警告が響き渡る。律の顔から一瞬で血の気が引き、猛烈な勢いでスマートフォンを操作し始めた。「律……? これ、どういうこと?」「大丈夫だ、香織。外部からのアクセスを一時的に遮断する……!」律が必死にルーターの回線を遮断し、画面がブラックアウトした。通信エラーの文字を見つめながら、私は冷え切ったワインを口に含む。




