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第九章 解体工事の着工

 建築における解体工事とは、単なる破壊ではない。周囲の環境への影響を最小限に抑え、必要な手続きを完璧に済ませた上で、対象の構造物を安全に、そして合法的に地上から消し去る綿密な工程である。木曜日の午後九時。律がいつものように「お疲れ様」と、穏やかな笑顔で玄関のドアを開けて帰宅した。「おかえり、律。待っていたわ」私がリビングのソファーから声をかけると、律は一瞬だけ、その端正な眉をぴくりと動かした。リビングの照明は、いつもより著しく落とされ、ローテーブルの上には、二通の分厚い内容証明郵便の封筒が並べられていたからだ。



「美咲……? それは、何だい?」



 律はビジネスマンらしい冷静なトーンを保とうとしていたが、その動線は明らかに強張っていた。彼がジャケットを脱ぐ前に、私は静かに一枚の書類をテーブルに滑らせた。「これは、あなたのスマートフォンが、先週末に私の自宅サーバーを経由して、真壁建設の機密データを真壁香織様のアドレスへ送信したことを示す、タイムスタンプ付きの通信ログよ」律の顔から、一瞬で血の気が引いていくのが分かった。しかし、彼はまだ諦めない。IT企業のマーケティングディレクターとしてのプライドが、彼に必死の言い訳を急がせる。「何を言っているんだ、美咲。僕はそんなもの知らない。君がまた、その一級建築士の妙な被害妄想で……」「無駄よ、律」私は紅茶を一口すすり、冷徹にその言葉を遮った。「あなたが私の仕掛けた床のセンサーやクローゼットの荷重計、換気ダクトのデコイに気づいて、壁沿いを歩いたり消臭剤を撒いたりして、ハッキングした気になっていたログも、すべて私のサーバーに記録されているわ。あなたが妻の裏をかいて完璧に隠蔽したと思い込んでいたそのすべての行動が、逆にあなたが意図的に、かつ計画的に私の私生活と仕事のデータを盗み出そうとしていたという、悪質性の証明になったの」律は喉を鳴らし、ソファーの端へ崩れ落ちるように腰掛けた。そこは、かつて香織が、構造的に一番硬いから荷重計が反応しないと信じ込んで座っていた、あの右端のフレーム部分だった。「そしてね、律。あなたが香織様に渡したあの原価表のデータだけど……今日、彼女がドヤ顔で真壁建設の取締役会に提出したわ」「なっ……!」「すべて私の計算通りよ。真壁建設の法務部は、すでにあなたを不正競争防止法違反、および営業秘密侵害罪で刑事告訴することを決定したわ。真壁建設の社長も、自分の娘を唆して会社の最高機密を盗ませたあなたに対して、数億円規模の損害賠償請求を行うことで決済を下した。香織様は今日から自宅待機、週明けには懲戒解雇よ」律の唇が、ガタガタと震え始めた。「お前……最初から、僕たちを……」「ええ。言ったでしょう。全ての人間は利己的だ、って。あなたたちは私から財産とキャリアを奪うために動いた。だから私も、徹底的に利己的に、あなたのキャリアと、あなたが必死に築いてきたIT企業での社会的地位のすべてを合法的に全壊させるための設計図を引いたの。明日の朝、あなたの会社にも、真壁建設の法務部から公式な通達が行くわ。当然、懲戒解雇ね」



 テーブルの上の封筒を、律は力なく見つめていた。一通は私からの離婚およびこの自邸の全所有権の譲渡を求める調停申立書。もう一通は、真壁建設からの法的措置への予告通知。彼が必死に泳ぎ回っていた透明な金魚鉢の水は、今、完全に抜き去られた。水を失った金魚が、陸の上で浅ましく口をパクパクとさせている。その姿を、私はただ冷徹な設計者として、静かに定点観測していた。


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