34役立たずの魔法
男が去り、廃教会に静けさが訪れると、ニナはがばりと体を起こした。
(なんとか早く脱出しないと──!)
ニナは精一杯腕をゆすり動かした。手首と足首を縄で固定されているから、動かせる場所に限度がある。
縄の結び目は、一向に緩む気配がなかった。
(なにか、道具を……。あの男が戻ってくる前に)
そうはいっても、こんな場所に都合よく刃物がおかれているはずもない。
何か使えるものがないかと周囲を見渡していると、建物の一角に家具が山のように積み上げられているのが見えた。
長椅子には、礼拝の度に人が腰かけていたのだろう。教壇では、司祭が礼拝を取り仕切って祝福を与えていたはずだ。
割れた座面や折れた脚。在りし日の名残を想像する時間はニナにはなかった。
折れて鋭くとがった椅子の足が目に飛び込んでくる。
(あそこに縄をこすりつければ)
ニナは瓦礫の山に向かって懸命に体を動かした。
攫われた時の夜着のまま、砂だらけほこりだらけの床に体をこすりつけていると、汚しているのか移動しているのかなんだかわからなくなってくる。
思うように動かない体を動かすには、いつも以上に力が必要だった。いつあの男が戻ってくるかもしれないという焦りもある。
(聖モントローズ王国に連れていかれるのは嫌)
ニナの額に汗が滲んでくる。汗に埃が混じって、煤けたような臭いとともに体にまとわりつく。
(このままジークと離れるのも嫌)
まだ彼に何もしていないのだから。
鋭くとがった木材の前にまでやってくると、ニナはそこに背を向けて、手首の縄をあてがった。
そのまま上下に動かす。
(痛……!)
出かかった悲鳴を、ぐっと飲み込む。いくら首を回しても木と縄が寄り合う場所は見えない。
傷になるのを覚悟の上、聖魔法で自分の体の回復力を底上げする。
火魔法であれば燃やせるだろう。草魔法であれば棘のある植物を生み出し、もっと容易く切ることができるだろう。
聖魔法は、残念ながらこういう時にあまり役に立たない。
そうやって数回繰り返し、そのたびに腕に傷を作った。
何度目かにうまく縄に先端をひっかけることができた。体重をかけると、手首を圧迫する感覚が消えた。さらに数度腕を揺らせば、縄がはらりと落ちた。
そこから先は簡単だった。
ニナは自由になった手を瓦礫の中に突っ込み、手に収まる程度の大きさに破断した木材を探し当て、足首を縛る縄にあてがった。
そうして拘束から抜け出す。
ニナは、木の破片をがれきの山に戻す。
その時だった。
からん。と小さな音を立てて何かが滑り出した。
ニナは、先ほど男が何かを落としていたのを思い出した。
ニナはその場にかがんで、床に手を這わせる。暗がりの中では、上手く見えない。ぺたぺたと汚れた床を探り、やがて、その指先が小さく冷たいものを探り当てる。
薄っぺらく丸い。
親指と人差し指で作った輪の中に納まりそうな大きさだった。首飾りと言っていた。ニナはその金属の表面を指先でなぞった。
(何か文字……逆側に……)
何かの模様が刻まれている。ニナは指でなぞり、表情をこわばらせた。
指先が覚えている。あかりの乏しい部屋の中で、ニナも散々この模様を撫でていた。
あきらめきれなくて、悲しくて、そうして自分の運命を呪っていた。
(薔薇……)
ローズ教の象徴だった。
そして、金属に刻まれたこの首飾りを許されるのは。
「何してる──!」
声とともに、建物の中に光が差し込む。その声に、ニナは飛び上がってしまった。
入り口の扉を開けて男が佇んでいた。
逆光で顔はわからないが、教会の中に伸びる影は、がっしりとした肩をしているのがわかるほど、四角く形作られていた。
「起きてたのか!」
ニナはよろめきながら立ち上がり、その場から下がった。
男が前へ前へとやってくる。それだけニナも後ろに下がるのだが、距離は縮まっていく。
唯一の出入り口をふさがれれば、ニナに逃げ場等ない。
男が一気に距離を詰めればニナを捕まえることができる。そして、何か裏の手があればニナは逃げることができる。そんな緊張感の漂う距離にまで男がやって来た。
「大人しくしろ!」
「嫌!」
気強く言い返しても、ニナに奥の手などなかった。
大きく男が足を踏み出す。ニナは一か八か、男の傍らを抜けて入口へ駆けようとしたが、腕を掴まれて引きずり戻された。
放り出されるように、手を離される。ニナはまた薄汚れた床の上に逆戻りするしかなかった。
それでもニナは諦められなかった。ニナをねじ伏せようと近づいてくる男に足のすねを蹴りつけ、地面に落ちた土や埃を掴んで、男の顔に向かって投げつけた。
「この──!」
力では確実に及ばない。
数秒も持たない抵抗は、だからこそ、男にとって苛立たしく煩わしいものに感じられたようだった。
苛立ちのままに、ニナの肩をつかんで引き起こすと、その分厚い掌をニナの頬に振り落としたのだった。
パン、と甲高い音がなる。
ニナはその場にへたり込んでしまった。痛かったからではない。
実際、頬はじんじんと熱をもって、耳の奥では張られた時の音が反響している。だが、ニナにとって衝撃だったのは、その痛みが理由ではないのだ。
──大人しくしろ! 言うことを聞け!──
この世界で初めて受けた痛み。忌まわしい記憶だった。
「聖女だとしても」
男が嘲笑う。その表情が、また記憶と重なる。
どれだけ役に立っても、いつまでたってもニナを馬鹿にする。
「所詮、聖魔法。ありがたがってあがめられていても、自分の身一つ守ることもできない!」
ニナはずっと、黙って耐えるしかなかった。何を言い返せばいいのか、わからなかった。
「所詮じゃない……」
自分の属性が聖魔法でなければと思った日もあった。
でも、今は──
「自分は守れなくても──」
ニナはこの力で守ってきたものがある。
自分の身を守ることはできないかもしれない。
でも、この国に来て、初めて意味があるのだと思えた。
「誰かを守る魔法なの!」
ニナは自分が聖女にふさわしいと思っていない。ただ、聖女にふさわしい魔法が聖魔法だというのなら、ニナは自信をもって頷ける。
自分ではなく、誰かを守るための魔法。
聖女にふさわしい魔法が、これ以上にあるだろうか。
「──そして、聖女を守るために騎士がいるのですよ」
澄んだ声。萌える若葉のようにすがすがしいような──
ニナはもう何も心配していなかった。ニナを守る騎士が到着しているのだから。




