32不審火
異変が起こったのはその日の夜のことだった。
ニナは、鼻と咽を襲った痛みで目を覚ました。ぱちぱちと瞬きをすれば、刺激を受けた目が生理的な涙を流す。
「げほ……!」
毛布を跳ね上げ、体を起こす。無防備に吸い込んだ空気が喉を突き刺して、ニナは咽かえった。
毛布で口を塞ぎ、涙が滲む目で周囲の様子を伺う。視界が曇っている。目をこすりもう一度。
ニナの目が汚れているのではない。煙だ──!
(火事……!?)
そう気づいた途端、ばたばたと慌ただしく廊下を行き来する足音と大声が聞こえる。
ニナは姿勢を低くして毛布で口をふさぎつつ、引きずりながらドアへと近づく。体ごともたれかかるようにドアを開けた。
「ニナ!」
同時に、向こうからドアを引きあけられて、ニナは廊下へ引きずり出されてしまった。
「あ、すまない……!」
フリッツだった。寝間着らしい軽装の状態で、ぼさぼさの髪をそのままにして佇んでいる。
いつも身だしなみを整えている彼にしては珍しい姿だ。
「何、何が起こったの……?」
「わからない」
フリッツはニナを助け起こすと、ニナがひきずって来た毛布をニナの頭にかぶせた。そのまま口を塞いでいるように言う。
「気づいたら煙が充満していた」
ニナを建物の外へ誘導しながら、説明してくれる。
「火事なんだろう。今、火元の確認をしている」
「ジークは?」
「宿の支配人たちのところへ。事態の把握が必要だ」
火が回る前に気づけたのは幸いだった。
燃えにくいものの近くで発火したのか、煙こそ大量に回っていたが、熱はまだ感じなかった。
廊下を走っている間に、騎士達と合流できた。
宿の従業員と一緒に一般市民の避難を誘導している。外に出ればすでに避難を終えた市民と騎士達がいた。この様子では、逃げ遅れた人はいないようだ。
外に出ると、建物が黒い煙に包まれているのが見えた。
「火元はどこなんだ?」
「台所か?」
「ランプが燃えたのかも」
宿泊客たちはめいめいに不安を口にしている。
火元が見えないまま、建物が煙に包まれているのは、異様な光景だった。
首を伸ばし、少しでもその光景を見ようとする宿泊客たちを、騎士達が囲むようにして押しとどめている。
「俺は、ジーク様のところに──。エミール!」
「はい!」
「ニナ……様を頼む」
輪の中から、若い騎士が抜け出してきた。ニナをエミールに預けて、フリッツは建物の横に回り込むように走っていく。
ニナのいる場所からは、ジークハルトがどこにいるのか、わからなかった。
ニナはそっと毛布を胸元で掻き合わせる。フリッツが居場所を把握しているというなら、無事なのだろう。
「あ! おい、あっち! すごいぞ!」
宿泊客がわっと声を上げる。直後、熱気が立ち上がった。
ニナも宿を振り仰いだ。火柱が立ち上がっていた。
夜空を焦がそうとする様子に、人の輪が崩れる。
「あ! その場から動かないで!」
野次馬と化した宿泊客が、騎士ともみ合いになる。
「聖女様! こちらへ!」
後ろから声をかけられて、ニナは騒動から目を離せないまま、一歩二歩と声の方へと足を動かした。
直後。
痛いほどの力で腕を引かれ、ニナは後ろ向きに引きずられてしまう。
「な……!」
悲鳴を上げかけた口を塞がれる。そのとたん、力が抜けていくのが分かった。
(薬……。連れていかれる……)
事態に気づいたところで遅かった。膝に力が入らなくなり、ニナは崩れ落ちるように膝をついた。
薄れていく意識の中、ニナは自分の愚かさに気が付いた。
騎士達は、ニナを聖女と認識していながら、聖女とは呼ばない。
ニナ様と呼ぶのだ。
他ならぬ、ニナがそう望んだから。




