◆第49話「飽食の中の飢餓と、貧者のスープ」
マルクスによる中央銀行の設立と、緊急資金注入により、金融システムの完全崩壊は免れた。銀行のシャッターは再び開き、物流も少しずつ動き出した。しかし、それは「即死」を免れただけであり、病が治ったわけではなかった。
不況の嵐は、容赦なく王都を覆っていた。バブル期に浮かれて本業を疎かにした企業は倒産し、職を失った労働者や、借金で首が回らなくなった元・投資家たちが、路地裏に溢れかえっている。
彼らの目の前には、信じがたい光景が広がっていた。市場の裏、倉庫の空き地、川岸。いたるところに、引き取り手のないジャガイモが山のように積まれ、異臭を放ちながら腐り始めているのだ。
「なんてことだ……」かつて『ポテト・ボンド』で大儲けし、今は着ているコート以外すべてを失った男が、ゴミ山のようなジャガイモを見上げて嘆いた。「目の前には、一生かかっても食べきれないほどの食料がある。それなのに、俺たちは飢えている。金がないという、ただそれだけの理由で」
「豊作貧乏」という残酷なパラドックス。ジャガイモの価格があまりに暴落したため、農家は王都までの輸送コストさえ賄えず、収穫せずに畑で腐らせるか、こうして廃棄するしかない。流通が止まり、都市の無一文の人々の口には届かない。
「あれは食料じゃない。ただの『産業廃棄物』だ」誰かが吐き捨てる。そこにあるのは、人類史上最も豊かな飢餓だった。
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この不条理な状況に動いたのは、政府でも銀行でもなく、教会だった。蓮は、ソラニア中央大聖堂に向かった、その地下倉庫の重厚な扉が開かれると、そこには天井まで積み上げられた木箱や樽の山があった。塩漬け肉、乾燥豆、小麦粉、そして大量の薪。かつて蓮が「バブルが弾ける前に、資産を現物に変えておいてくれ」と頼んだ、その成果がここにあった。
「……よかった。これだけあれば、王都の民全員を二ヶ月は養えます」
蓮が安堵の息を吐くと、大司教ドミニクスは複雑な表情で頷いた。
「陛下は、銀行を蘇生させたのですね」
「はい。ですが、まだ経済の血液は完全には巡っていません。市中には、現金を持たない市民が食いっぱぐれています」
蓮はドミニクスに向き直った。
「猊下、お願いします。この備蓄を解放してください。そして、市場で捨てられている大量のジャガイモを使って、炊き出しを行ってください」
「もちろんです。そのために用意した『箱舟』ですからな」
ドミニクスは迷わず頷いた。
「ただちに、すべての修道士を動員しましょう。神の愛は、無償で与えられねばなりません」
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翌日、大聖堂前の広場には、かぐわしい匂いが充満していた。巨大な大鍋で煮込まれているのは、ただの塩茹でイモではない。教会の備蓄していた塩漬け肉と乾燥豆を使い、廃棄寸前だったジャガイモを大量に投入した、栄養バランスのとれたジャガイモのスープだ。
「さあ、並びなさい! おいしいスープがありますよ!」
修道女たちの声に、プライドを捨てた元・資産家や、職を失った市民たちが長い列を作った。
「う、うまい……! 肉だ、久しぶりの肉だ!」
「生き返る……。王宮の料理より美味いぞ……」
人々は涙を流してスープを啜った。貨幣経済が死に、商店が閉まり、誰もが飢えに怯えていた王都において、この教会の広場だけが唯一の楽園だった。蓮の読み通り、餓死者は防がれた。命は守られたのだ。
配られたのは、飾り気のない木のお椀に入った、シンプルなジャガイモのスープ。具は乱切りにしたジャガイモと、少量の肉と豆、そして香り付けの野生のハーブのみ。主菜はかつて彼らが「貧乏くさい」と見向きもしなかった、そしてバブル期には「投機対象」として崇めていた、あの泥だらけのジャガイモだ。
男は震える手でスプーンを口に運んだ。温かい液体が喉を通り、空っぽの胃袋に落ちていく。
「……うまい」
男の目から、涙がこぼれ落ちた。
「インカのめざめのような甘さはない。だが、これは……生きる味がする」
そこには、もはや「1トン=金貨何枚」という相場はない。あるのは、炭水化物とビタミンを含んだ、生命を維持するための塊としての価値――「使用価値」だけだ。
皮肉なことに、バブルが弾けて価格がゴミ同然になったおかげで、教会は無限にジャガイモを調達でき、結果として「誰一人として餓死者は出ない」という状況が生まれていた。
◆
大鍋からは白い湯気が立ち上り、静かに入道雲へ吸い込まれていく。その湯気の下で、ボロボロの服を着た人々が肩を寄せ合い、汗をかきながら熱いイモをハフハフと頬張っている。涼しい空調魔法もなければ、冷えたワインもない暑い夏の日の下、そこには、貴族も平民も、勝者も敗者もなかった。ただ、「腹を空かせた人間」がいるだけだった。
「なあ、俺たちは財産をすべて失っちまったが……」
一人の男が、スープを飲みつつ隣の男に話しかけた。
「これなら少なくとも、今年の冬は越せそうだな」
「ああ。皮肉なもんだ。俺たちを破滅させた芋が、今こうして俺たちを生かしているんだからな」
「とりあえず、今が夏で良かった。屋外で寝ても凍えることはないし」
広場の隅で、蓮とエリシア、そして仕事を終えたマルクスもまた、その様子を眺めていた。
「結局、ジャガイモはジャガイモに戻っただけさ」
蓮が静かに言った。
「人々を狂わせる黄金ではなく、ただの『大地のリンゴ』にね」
マルクスが眼鏡を拭きながら呟く。
「バブルは弾け、借金だけが残りました。これからは、この膨大な不良債権を処理するために、何十年もの不況と増税が続くでしょう。……長い冬の始まりです」
「だが、生きています」
エリシアが、微笑みを浮かべた。
「生きていれば、また種を蒔けます。植物も、経済も」
王都は貧しくなった。華やかな舞踏会も、狂乱の取引も消えた。しかし、広場に満ちるスープの香りは、かつての甘ったるい香水の匂いよりも、どこか確かで、力強い「再生」の匂いのように感じられた。
どん底からの再出発。蓮は、スープを啜る人々の笑顔を見ながら、自分の役目が一つの区切りを迎えたことを感じていた。




