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◆第46話「腐臭漂う王都と、最後の謁見」

 王都の空気は、物理的に淀んでいた。かつて花の都と謳われた大通りには、回収されないゴミが山のように積み上がり、鼻をつく腐臭を放っている。清掃ギルドの職員たちが「金にならない仕事はしない」とボイコットしてしまったからだ。


 治安も崩壊していた。夜になれば、強盗や略奪が横行する。奪われるのはジャガイモではない。「塩」「薬」「酒」、そして貴金属だ。それを取り締まるべき衛兵の姿は、どこにもない。彼らに支給された「軍票」が紙屑と化した今、彼らは職場を放棄し、あるいは自らが強盗団へと堕ちていた。


 王宮の御前会議室。重い沈黙の中、三人の男が国王の前に跪いていた。兵站局長ガレス大佐、徴税官長マルクス、そして藤村蓮である。三人の表情は、もはや臣下としての礼儀を保つ余裕すらないほど、切迫していた。


「……陛下。単刀直入に申し上げます」

 口火を切ったのは、軍人のガレスだった。彼は腰の剣を外し、床に置いた。それは最大の不敬であり、同時に決死の覚悟の表れだった。


「もはや、軍は維持できません。昨日までに、王都守備隊の三割が脱走しました。彼らは武器を持ったまま街へ消え、略奪を行っています。……私が命令しても、彼らはもう聞きません。『名誉で腹は膨れない』『紙切れの軍票では家族は養えない』と」


 ガレスは血を吐くように言った。

「近衛騎士団も限界です。このままでは数日以内に、王宮の警備すら機能しなくなるでしょう。……陛下。国を守る剣が、国に向けられる前にご決断を」


 国王の顔色が蒼白になる。

「な、なんと……。騎士たちが余を見捨てると申すか? 食料はあるのだぞ? 飢えさせてはおらぬはずだ!」


「飢えはなくとも、絶望があるのです」

 引き取ったのは蓮だった。彼は国王を見据え、静かに、しかし冷徹な事実を突きつけた。


「陛下。我々は『軍票』で現金の代わりを作ろうとしました。しかし、国の裏付けのない紙切れは信用されず、深刻なインフレを起こしております。働く人がいなくなりました。紙切れでは家族を養えないからです」

 蓮は言葉を継ぐ。

「今、この国にあるのは『満腹の無政府状態アナーキー』です。人々はイモを食って寝ているだけ。ゴミは片付かず、病人は薬が買えず、犯罪者は野放し。……これはもう『国家』ではありません。ただの『ジャガイモを食べる群れ』です」


 国王がよろめくように玉座に沈んだ。

「……余の正義が、国を原始時代に戻したというのか……」


「正義だけでは、国家という巨大なシステムは回せないのです」

 最後に、マルクスが一歩進み出た。その目は、これまでになく険しい。


「陛下。公共サービス――警察、消防、清掃、行政。これらを動かすには、強制力を持った『真正な通貨』が必要です。そして、死に体の銀行を動かし、通貨を循環させるには、もはや一つの手段しか残されていません」


 マルクスは、以前却下された提案書を再び突き出した。

「中央銀行の設立。そして、民間銀行への無制限の公的資金注入です。……これ以外に、止まった心臓を動かす術はありません」


 農務大臣ケネー卿が、震える声で反論しようとした。

「だ、だが! それでは悪徳銀行家を助けることに……!」


「黙りなさい!!」

 マルクスの一喝が、会議室を震わせた。

「国が滅びれば、正義も悪もありません! 銀行家を憎むあまり、国民全員を道連れにするつもりですか! ……それこそが、統治者として最大の罪だ!」


 静寂が落ちた。誰も反論できなかった。窓の外からは、遠く暴徒の叫び声と、何かが燃える煙の匂いが漂ってくる。破滅は、もう門の前まで来ていた。


 長い、長い沈黙の後。国王は、震える手で顔を覆い、そして深く息を吐いた。

「……分かった。認めよう」


 その声は掠れていたが、はっきりとしていた。

「余は、清廉潔白な王として国を滅ぼすより、泥にまみれた王として民を生かす道を選ぶ。……マルクスよ。そして藤村よ。悪魔の契約をすることを許す」


 国王は顔を上げ、決意の瞳で三人を見た。

「中央銀行を設立せよ。金を刷り、銀行にぶち込め。……ただし! その代償として、不正を働いた者たちには相応の報いを受けさせよ。それだけが、余の譲れぬ条件だ」


「御意!!」

 三人は深く頭を下げた。


 ついに、最後の安全装置が外された。それは、ソラニア王国が「自由放任の市場経済」を捨て、「国家管理による統制経済」へと舵を切る瞬間だった。遅すぎた決断かもしれない。だが、これでようやく、反撃の狼煙のろしが上がる。


「……行くぞ、蓮。忙しくなりますよ」

 会議室を出たマルクスが、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。

「銀行家どもを、一人残らず叩き起こしてやりましょう。……地獄の労働の始まりだ、とな」


 その夜、マルクスの号令の下、あちこちに隠れていた銀行の頭取たちが呼び出された。彼らはやつれ果て、かつての傲慢さは見る影もない。マルクスは彼らの前に、国からの「緊急融資契約書」を叩きつけた。


「選べ。国有化か、それとも暴徒によって八つ裂きにされる死か」


 頭取の一人が、すがるような目で蓮を見た。

「ふ、藤村殿……あんたなら分かってくれるだろう? 我々も被害者なんだ……」

 蓮は、悲しげな、しかし断固とした目で彼を見下ろした。

「あんたたちは被害者じゃない。……責任者だ。生きて、罪を償ってくれ」


 銀行家たちは涙を流しながら、震える手でサインをした。この瞬間、自由奔放だった金融市場は終わりを告げ、中央銀行による強力な管理経済が幕を開けたのである。それは、長い不況との戦いの始まりでもあったが、少なくとも「国家の崩壊」だけは免れたのだった。

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