◆第45話「錆びた剣と、紙切れの軍票」
国王による「中央銀行設立拒否」の裁定が下った直後。蓮は休む間もなく、軍務省のガレス大佐のもとへ走っていた。「大佐! 頼みます、軍の名前で『手形』を発行してください!」
執務室で頭を下げる蓮に対し、ガレスは渋い顔で葉巻を噛んだ。
「軍票、か。戦時中ならいざ知らず、平時にそんな紙切れを出して誰が信用する?」
「信用させるんです。……今、市場から現金が消えました。いや、正確には『消えた』んじゃない。みんなが将来の不安から金貨をタンスの奥にしまい込み、誰も使おうとしないから、流通していないんです」
蓮は机上の地図を指差した。
「このままでは、軍の兵站も止まります。兵士に給料が払えず、食料調達もできない。……だから、軍が『この手形は金貨一枚の価値がある』と保証し、一時的な通貨として流通させるんです。軍の威光があれば、商人も受け取るはずです!」
それは苦肉の策だった。国全体を支える中央銀行が作れないなら、国内で最も物理的な力を持つ組織――「軍」の信用を担保にするしかない。
「……わかった。座して死ぬよりはマシだ。やってやろう」
◆
翌日、王都に新しい紙幣が出回った。粗末な羊皮紙に、軍の紋章とガレス大佐の署名が入った『軍用手形(軍票)』である。額面は「金貨1枚」。軍は「将来の税収や備蓄物資と交換可能」と触れ込み、兵士への給料としてこれを支給した。蓮の工場も、率先してこの軍票での支払いや受け取りを開始し、信用の呼び水になろうとした。
最初は、うまくいきそうに見えた。
「お、軍が保証してるなら安心か?」
「工場の支払いにも使えるらしいぞ」
現金不足に喘いでいた商店主たちは、恐る恐るながらも軍票を受け取り、パンや日用品を売り始めた。止まっていた歯車が、少しだけ回り始めたかに見えた。
しかし――その幻想は、わずか三日で崩れ去った。
ある輸入雑貨店でのことだ。若い兵士が、支給されたばかりの軍票を一枚出し、外国産の「岩塩」を買おうとした。
「おやじ、塩をくれ。軍票払いだ」
店主は軍票を一瞥し、冷たく言った。
「ああ、軍票ね。……それなら、塩は一袋なら軍票三枚だ」
「はぁ!? ふざけるな! これには『金貨1枚』って書いてあるだろうが! 金貨1枚なら塩は大袋で買えるはずだぞ!」
兵士が激昂するが、店主は動じない。
「それは『国内』での話だろう? 俺は塩を外国から仕入れてるんだ。隣国の商人が、ソラニア軍のハンコがついた紙切れを受け取ってくれると思うか? ……あいつらが欲しがるのは『本物の金貨』だけだ」
店主は、カウンターの下を指差した。そこには、客から受け取ったものの、海外送金に使えずに行き場を失った軍票が山積みになっていた。
「俺たちにとって、その紙はリスクの塊なんだよ。いつ紙屑になるかわからねえ。だから、受け取るなら『リスク料』として割り引かせてもらう。……嫌なら、本物の金貨を持ってきな」
これが、「軍票インフレ」の始まりだった。国内で余っているジャガイモを買う分には、軍票は額面通り使えた。しかし、塩、薬、鉄、油といった「輸入依存の必需品」を買おうとした途端、その価値は暴落した。『軍票1枚=金貨1枚』の公定レートは瞬く間に崩壊した。翌日には『軍票2枚で金貨1枚分』。その翌日には『軍票5枚』。坂を転がり落ちるように価値が下がっていく。
◆
街のあちこちで、怒号が飛び交っていた。
「おい! 昨日はパン一個が軍票1枚だったのに、なんで今日は3枚なんだ!」
「小麦粉の仕入れ値が上がってるんだよ! 文句があるなら軍に言え!」
一方で、本物の「金貨」を持っている資産家や一部の市民は、それを決して使おうとはしなかった。
「バカな。これからもっと不景気になれば、金貨の価値はもっと上がる。こんな不安定な時期に『本物』を手放す奴がいるか」
悪貨(軍票)は良貨(金貨)を駆逐する。市中には価値のない紙切れだけが溢れかえり、本物の富は地下深くの金庫へと姿を消した。
軍務省の執務室で、ガレス大佐は報告書を机に叩きつけた。
「くそっ! 誰も軍を信用しとらんのか! 我が軍の武力をもってしても、商人の不安は消せんというのか!」
同席していた蓮は、無力感に打ちひしがれていた。
「……武力じゃダメなんです。武器で脅しても、商人の『信用』は買えない。……軍という一組織の保証じゃ、国全体の経済を支えるにはまだ小さすぎたんだ」
軍票の暴落は、兵士たちの士気を直撃した。命がけで働いて得た給料が、日に日に紙屑になっていくのだ。「やってられるか! こんな紙切れじゃ、家族も養えねえ!」王都の守備隊から、脱走兵が出始めたという報告が届く。
蓮は悟った。小手先の「代替通貨」では、この奔流は止められない。やはり、王が拒絶したあの「中央銀行」――国家の徴税権と法体系すべてを担保にした、絶対的な信用機関が必要なのだ。




