◆第42話「悪党への輸血提案」
王都は死んだように静まり返っていた。銀行がシャッターを下ろしたあの日から、喧騒も、商人の呼び込みも、馬車の音さえも消えた。まるで街全体が、透明な棺桶の中に閉じ込められたかのようだ。
蓮は徴税庁の廊下を走っていた。息が切れ、心臓が早鐘を打つ。だが、それは運動による動悸ではない。現代日本で歴史として学んだ「世界恐慌」――豊かさの中で国民が飢えるあの地獄の光景が、今まさにこの異世界で現実になろうとしている恐怖からだった。
「通してくれ! 長官に、マルクスさんに緊急の用があるんだ!」
「し、しかし藤村様。長官は今、誰も通すなと……」
衛兵の制止を振り切り、蓮は重厚な扉を荒々しく開け放った。
「マルクスさん!」
執務室の中は、外のパニックが嘘のように冷徹な空気に満ちていた。書類の塔に囲まれた机の奥で、徴税官長マルクスは、表情一つ変えずにペンを走らせていた。彼は顔も上げずに言った。
「……ノックもなしとは、あなたらしくもない。礼儀作法は異界に置いてきましたか、蓮殿」
「礼儀なんて言ってる場合じゃない! 街を見てないのか! 経済が止まってるんだぞ!」
蓮は机に両手をつき、身を乗り出した。
「銀行が閉まったせいで、金が回っていない。パン屋は小麦が買えない、肉屋は仕入れができない。このままじゃ、もうすぐ食料があっても餓死者が出る!」
マルクスは、ようやく手を止め、氷のような瞳を蓮に向けた。
「ええ、把握しています。愚かな銀行家たちが、岩山や紙切れを担保に金を貸しすぎた結果だ。彼らの自業自得でしょう」
「自業自得で済む話じゃない!」
「いいえ、済みます」
マルクスは冷たく切り捨てた。
「失敗した者は市場から退場する。それが経済のルールだ。国庫の金――国民の血税を使って、博打に負けた愚か者を救えと言うのですか? それは非倫理的です」
正論だった。感情論としては、マルクスが正しい。強欲な銀行家など野垂れ死にすればいい。だが、蓮は首を激しく横に振った。
「違う、そうじゃないんだマルクスさん! あんたは『個人の責任』の話をしてる。俺が言ってるのは『システム』の話だ!」
蓮は胸元の服を掴み、自身の心臓の上を強く叩いた。
「いいか、お金は『血液』だ。銀行はそれを全身に送り出す『心臓』なんだよ! 心臓が腐ってるからって、今ここで心臓を止めたらどうなる? 手足も、脳も、健康な細胞まで全部壊死して、この国は死ぬんだぞ!」
「……心臓、ですか」
マルクスが眉をひそめた。
「比喩としては理解できます。ですが、今の銀行には血液に相当する現金がない。無い袖は振れませんよ」
「だから! 輸血をするんだ!」
蓮は懐から、震える手で一枚のメモを取り出した。そこには、現代日本の金融政策の根幹となる概念図が殴り書きされていた。
「新しい心臓を作るんだ。……国が、政府が『現金の蛇口』を握る、絶対的な銀行を」
マルクスがメモを手に取る。その目が、鋭く細められた。「……中央銀行? 『最後の貸し手』……?」
「そうだ。市中の銀行が金を持っていないなら、国が無理やり金を貸し付ける。無制限にだ。そうやって強制的にポンプを動かして、血流を再開させるしかない」
「無制限に、だと? 正気か」
マルクスの声に呆れが混じった。
「そんなことをすれば、銀行家どもはつけあがるだけだ。『国が助けてくれるなら、また好き勝手に融資してもいい』とな」
「そこを締めるのが、あんたの仕事だろう!」
蓮は叫んだ。これまで数年間、この国で共に戦ってきた戦友としての信頼を込めて、マルクスを睨みつける。
「タダで助けるわけじゃない。交換条件を出すんだ。現金を貸す代わりに、彼らの持つ資産、権利、そして経営権……そのすべてを担保として国が握る。銀行家たちを助けるんじゃない。彼らを国の下僕として、一生飼い殺しにして働かせるために生かすんだ!」
執務室に、重い沈黙が落ちた。マルクスはメモを見つめ、次に蓮の顔をじっと見た。数秒、あるいは数分にも感じられる時間。やがて、その鉄面皮が歪み――凶悪なまでに愉悦に満ちた、悪魔の笑みが浮かんだ。
「……はっ。なるほど」
マルクスは眼鏡の位置を直しながら、低い声で笑った。
「銀行家どもに、地獄を見せながら国を救う方法があるとは。……あなたも性格が悪くなりましたね、蓮。誰に似たのですか?」
「……あんたを見て育ったからな」
蓮は安堵のため息をつき、膝から崩れ落ちそうになるのをこらえた。
「やってくれるか?」
「ええ、やりましょう。私も、ただ税金を集めるだけの仕事には飽きていたところです」
マルクスは立ち上がり、椅子にかけてあった漆黒のマントを翻した。その背中は、どんな魔王よりも頼もしく、そして恐ろしく見えた。
「行きましょう、蓮。陛下への説明には、あなたも同席してもらう。……止まった心臓を無理やり動かすのです。多少の荒療治(劇薬)になりますよ」
「望むところだ。……毒を食らわば皿まで、だ」
二人は並んで執務室を出た。廊下の空気は、先ほどまでとは違って感じられた。絶望的な静寂ではなく、嵐の前の静けさへ。最後の戦いが始まろうとしていた。




