表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

227/237

◆第42話「悪党への輸血提案」

 王都は死んだように静まり返っていた。銀行がシャッターを下ろしたあの日から、喧騒も、商人の呼び込みも、馬車の音さえも消えた。まるで街全体が、透明な棺桶の中に閉じ込められたかのようだ。


 蓮は徴税庁の廊下を走っていた。息が切れ、心臓が早鐘を打つ。だが、それは運動による動悸ではない。現代日本で歴史として学んだ「世界恐慌」――豊かさの中で国民が飢えるあの地獄の光景が、今まさにこの異世界で現実になろうとしている恐怖からだった。


「通してくれ! 長官に、マルクスさんに緊急の用があるんだ!」

「し、しかし藤村様。長官は今、誰も通すなと……」


 衛兵の制止を振り切り、蓮は重厚な扉を荒々しく開け放った。


「マルクスさん!」


 執務室の中は、外のパニックが嘘のように冷徹な空気に満ちていた。書類の塔に囲まれた机の奥で、徴税官長マルクスは、表情一つ変えずにペンを走らせていた。彼は顔も上げずに言った。


「……ノックもなしとは、あなたらしくもない。礼儀作法は異界に置いてきましたか、蓮殿」


「礼儀なんて言ってる場合じゃない! 街を見てないのか! 経済が止まってるんだぞ!」


 蓮は机に両手をつき、身を乗り出した。

「銀行が閉まったせいで、金が回っていない。パン屋は小麦が買えない、肉屋は仕入れができない。このままじゃ、もうすぐ食料があっても餓死者が出る!」


 マルクスは、ようやく手を止め、氷のような瞳を蓮に向けた。

「ええ、把握しています。愚かな銀行家たちが、岩山や紙切れを担保に金を貸しすぎた結果だ。彼らの自業自得でしょう」

「自業自得で済む話じゃない!」


「いいえ、済みます」

マルクスは冷たく切り捨てた。

「失敗した者は市場から退場する。それが経済のルールだ。国庫の金――国民の血税を使って、博打に負けた愚か者を救えと言うのですか? それは非倫理的です」


 正論だった。感情論としては、マルクスが正しい。強欲な銀行家など野垂れ死にすればいい。だが、蓮は首を激しく横に振った。


「違う、そうじゃないんだマルクスさん! あんたは『個人の責任』の話をしてる。俺が言ってるのは『システム』の話だ!」


 蓮は胸元の服を掴み、自身の心臓の上を強く叩いた。


「いいか、お金は『血液』だ。銀行はそれを全身に送り出す『心臓』なんだよ! 心臓が腐ってるからって、今ここで心臓を止めたらどうなる? 手足も、脳も、健康な細胞まで全部壊死して、この国は死ぬんだぞ!」


「……心臓、ですか」

 マルクスが眉をひそめた。

「比喩としては理解できます。ですが、今の銀行には血液に相当する現金がない。無い袖は振れませんよ」


「だから! 輸血をするんだ!」


 蓮は懐から、震える手で一枚のメモを取り出した。そこには、現代日本の金融政策の根幹となる概念図が殴り書きされていた。


「新しい心臓を作るんだ。……国が、政府が『現金の蛇口』を握る、絶対的な銀行を」


 マルクスがメモを手に取る。その目が、鋭く細められた。「……中央銀行? 『最後の貸しレンダー・オブ・ラスト・リゾート』……?」


「そうだ。市中の銀行が金を持っていないなら、国が無理やり金を貸し付ける。無制限にだ。そうやって強制的にポンプを動かして、血流を再開させるしかない」


「無制限に、だと? 正気か」

 マルクスの声に呆れが混じった。

「そんなことをすれば、銀行家どもはつけあがるだけだ。『国が助けてくれるなら、また好き勝手に融資してもいい』とな」


「そこを締めるのが、あんたの仕事だろう!」

 蓮は叫んだ。これまで数年間、この国で共に戦ってきた戦友としての信頼を込めて、マルクスを睨みつける。

「タダで助けるわけじゃない。交換条件を出すんだ。現金を貸す代わりに、彼らの持つ資産、権利、そして経営権……そのすべてを担保として国が握る。銀行家たちを助けるんじゃない。彼らを国の下僕として、一生飼い殺しにして働かせるために生かすんだ!」


 執務室に、重い沈黙が落ちた。マルクスはメモを見つめ、次に蓮の顔をじっと見た。数秒、あるいは数分にも感じられる時間。やがて、その鉄面皮が歪み――凶悪なまでに愉悦に満ちた、悪魔の笑みが浮かんだ。


「……はっ。なるほど」

 マルクスは眼鏡の位置を直しながら、低い声で笑った。

「銀行家どもに、地獄を見せながら国を救う方法があるとは。……あなたも性格が悪くなりましたね、蓮。誰に似たのですか?」


「……あんたを見て育ったからな」

 蓮は安堵のため息をつき、膝から崩れ落ちそうになるのをこらえた。

「やってくれるか?」


「ええ、やりましょう。私も、ただ税金を集めるだけの仕事には飽きていたところです」

 マルクスは立ち上がり、椅子にかけてあった漆黒のマントを翻した。その背中は、どんな魔王よりも頼もしく、そして恐ろしく見えた。


「行きましょう、蓮。陛下への説明には、あなたも同席してもらう。……止まった心臓を無理やり動かすのです。多少の荒療治(劇薬)になりますよ」


「望むところだ。……毒を食らわば皿まで、だ」


 二人は並んで執務室を出た。廊下の空気は、先ほどまでとは違って感じられた。絶望的な静寂ではなく、嵐の前の静けさへ。最後の戦いが始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ