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◆第39話「心肺停止の国と、億万長者のホームレス」

 銀行が鉄の扉を閉ざした翌日。王都は、不気味なほどの静寂に包まれていた。昨日までの怒号や悲鳴は消えていた。その代わりに街を支配していたのは、事態を飲み込めない人々が発する、重く淀んだ「困惑」の空気だった。


 経済という巨大な身体を巡る血液――「現金」と「信用」の流れが、心臓発作を起こしたかのように、ピタリと止まったのだ。その影響は、まず末端の毛細血管である「小売り」の現場から壊死えしするように現れ始めた。



 下町で一番の人気を誇るパン屋「こんがり亭」。いつもなら朝早くから焼きたての香ばしい匂いが漂うその店先で、店主のハンスは頭を抱えて座り込んでいた。棚は空っぽだ。パンがないのではない。焼くことができないのだ。


「おい、ハンス! 店を開けてくれよ! 腹が減ってるんだ!」

 常連客がシャッターを叩くが、ハンスは力なく首を振った。

「すまない……。今日はパンを焼けないんだ」

「なんでだよ! 病気か?」

「違う。……小麦粉がないんだ」


 ハンスは、今朝起きた卸問屋とのやり取りを思い出した。彼はいつものように、問屋へ小麦粉の仕入れに向かった。代金は月末払いの「ツケ(掛け売り)」だ。長年の信用があるからこそ成り立つ取引だった。だが、問屋の主人は青ざめた顔で首を横に振ったのだ。


『だめだ、ハンス。今日からは「現金」じゃなきゃ卸せない』

『な、何言ってるんですか! 十年以上の付き合いでしょう! ツケで頼みますよ!』

『俺だってそうしたいさ! だがな、銀行が閉まっちまったんだぞ! お前からのツケが回収できても、それを現金化できないかもしれない。……それに、農家が「麦を渡すなら現金を持ってこい」って言ってるんだ。俺の手元にも現金がない。だから、お前にも売れないんだよ!』


 信用崩壊の連鎖ドミノ。銀行という「信用のアンカー」が外れた瞬間、誰もが「相手が払ってくれるか分からない」という恐怖に駆られ、ツケ払いを拒否し始めたのだ。ハンスは空のオーブンを見つめた。

 「……俺には腕がある。客もいる。問屋には小麦粉が山ほどある。……それなのに、間にある『お金』が動かないというだけで、パン一つ焼けないなんて」


 目の前に需要と供給があるのに、それらを結びつける「媒体」が消滅したせいで、経済活動そのものが成立しない。それはまるで、空気があるのに呼吸ができないような、緩やかな窒息だった。



 窒息の症状は、王国の動脈である港湾地区でより深刻だった。王都の外港には、世界中から集まった数十隻の大型貿易船が、錨を下ろしたまま墓標のように静止していた。カモメの鳴き声だけが響く波止場で、船主と沖仲仕の親方が怒鳴り合っている。


「船長! なんで荷降ろしをしないんだ! 積み荷は食料だぞ! 放っておいたら腐っちまう!」

「分かってる! だがな、荷揚げの人足にんそくたちが動かないんだよ!」


 船主が指差した先では、屈強な港湾労働者たちが、腕組みをして座り込んでいた。

「おい、働け! 日当は払うと言ってるだろう!」


「『手形』で、だろ?」

 労働者のリーダーが、冷ややかな目で船主を睨みつけた。

「アンタの商会が振り出した手形なんて、今はただの紙切れだ。銀行が開いてなきゃ換金できねえ。俺たちはボランティアじゃねえんだ。……現金を見せてくれ。そうすりゃ今すぐ担いでやる」


「現金なんて……今、手元にあるわけないだろう! 銀行にあるんだ!」

「なら、銀行から取ってきな。それまでは指一本動かさねえ」


 船の船倉には、小麦や干し肉、そして輸入された果物が満載されている。王都の人々が喉から手が出るほど欲しがっている物資だ。しかし、それらは陸揚げされることなく、船の中で静かに腐敗を始めていた。


 「黒字倒産」。帳簿上は利益が出ていても、手元の現金キャッシュが枯渇したせいで、事業が継続できなくなる現象。それが今、国レベルで発生していた。王都の大商会も、数千人の従業員を抱える工場も、次々と機能を停止した。誰も悪くない。ただ、「血液」が足りないだけで、健康な臓器が次々と壊死していくのだ。



 街から「売買」という行為が消えた。あるのは、原始的な物々交換と、呆然と立ち尽くす人々だけだ。そんな中、貴族街の裏路地では、あまりにも滑稽で、あまりにも残酷な光景が繰り広げられていた。


「頼む……! 頼むから、これを売ってくれ!」


 泥にまみれたシルクのコートを着た男が、屋台の店主に必死に頭を下げていた。男は昨日まで、王都でも名の知れた子爵だった人物だ。彼が差し出しているのは、美しい額縁に入った証券――額面「百万ゴールド」の『PPPポテト・ボンド』だった。


「この証券をやる! 100万ゴールドだぞ!? これがあれば、お前の店なんか100軒買える! だから、その焼きカボチャを一つ……いや、芯だけでもいいから売ってくれ!」


 屋台の主人は、炭火で焼けるカボチャの香ばしい匂いの中で、憐れむように首を振った。

「旦那様。そんな紙切れ、今は鼻をかむ紙にもなりゃしねえよ」

「紙切れだと!? 最高格付けの債券だぞ!」

「銀行が潰れたら、ただの紙だろ。俺が欲しいのは、明日の仕入れに使う『現金コイン』か、すぐに食える『現物』なんだよ」


 子爵は、震える手で懐を探った。

「な、なら、この懐中時計はどうだ! ドワーフの職人が作った最高級品だ! 金貨50枚はしたんだぞ!」

「いらねえよ! そんな高いもん貰っても、お釣りが出せねえし、誰も買い取ってくれねえよ! ……パン一個買うのに、城一個持ってくるようなもんだ。釣り合わねえんだよ!」


 主人はそう言って、屋台を引いて去っていった。残された子爵は、額面百万ゴールドの証券を胸に抱き、その場に崩れ落ちた。


「……腹が、減った」


 彼は莫大な資産を持っている。帳簿上は億万長者だ。だが、その資産には流動性つかえるちからがない。水のない砂漠で黄金を抱えているのと同じだ。王都のあちこちに、こうした「億万長者のホームレス」が溢れかえった。彼らは数億ゴールド分の「富」を抱きしめながら、たった一杯の水さえ買うことができず、飢えに震えていた。

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