◆第38話「逃げ場なき港と、徴税の悪魔」
王都の銀行がシャッターを下ろし、証券取引所が紙屑の海と化した「暗黒の木曜日」。その混乱の最中、王都の港では、一つの「脱出劇」が密かに進行していた。
夜明け前、ルベール川にある薄暗い波止場に、数台の馬車が滑り込んだ。降りてきたのは、メルキアから来ていた銀行家や大口の投機家たちだ。ゴードンやメルカトルもいる。彼らは身なりこそ整えているが、その顔色は蒼白で、目は怯えていた。
「急げ! 船を出せ! 夜が明ければ暴動が起きる!」
「積み荷の確認はいい! とにかく出航だ!」
彼らが積み込もうとしている木箱。その中身はジャガイモではない。ソラニアでのバブル相場で稼ぎ出した、莫大な量の「金塊」と「外貨」だった。国が破綻する前に、利益だけを持って本国メルキアへ逃げ帰ろうという魂胆だ。いわゆる「キャピタル・フライト(資産逃避)」である。
彼らを乗せる予定の高速船『黄金の風号』が、帆を上げようとした、その時だった。
「――おやおや。挨拶もなしに退席とは、行儀が悪いですね」
闇の中から、冷ややかな声が響いた。カツ、カツ、カツ……。石畳を叩く靴音と共に現れたのは、漆黒のマントを纏った徴税庁長官マルクス。そして、その背後には審問官ヴァレリオ率いる武装した憲兵隊が、逃走経路を塞ぐように展開していた。
「マ、マルクス長官!?」
メルキアの銀行家が狼狽する。
「な、何の用ですか! 我々は善良な商人として帰国するだけだ! 通行の自由はあるはずだ!」
「善良? よく言いますね」
マルクスは眼鏡の奥で氷のような光を放った。
「あなた方は我が国に『先物』という毒を撒き散らし、開墾ローンで土地を荒らし、バブルを煽るだけ煽って、崩壊する寸前に利益だけを持って逃げようとしている。……それを『火事場泥棒』と呼ぶのですよ」
銀行家は開き直った。
「ふん! 商売に勝っただけだ! ソラニアの法律に、利益の持ち出しを禁じる条項はないはずだ!」
「ええ、ありませんね。……昨日までは」
マルクスは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。まだインクが乾いていない、国王の署名入りの勅令だ。「たった今、発令されました。『緊急資産保全法』。金融危機に際し、国外への貴金属および外貨の持ち出しに対し、『98%の出国税』を課すものです」
「きゅ、98%だと!? ふざけるな! 没収と同じじゃないか!」
「ええ、実質的な没収です」
マルクスは悪魔のように微笑んだ。
「あなた方がこの国で稼いだ金は、農民の汗と、市民の涙の結晶だ。それを一銭たりとも持ち出すことは許さん」
さらに、ヴァレリオが進み出て、絶望的な情報を付け加えた。
「それに、急いで帰っても無駄ですよ。……たった今入った情報ですが、本国メルキアの証券取引所も、ソラニアの暴落を受けて連鎖的に破綻しました」
「な……なんだと……!?」
「メルキアのイモ関連債権も、すべて紙屑です。あなた方の銀行本店も、今頃取り付け騒ぎで燃えている頃でしょう」
銀行家たちは、その場に崩れ落ちた。逃げ場などなかったのだ。ソラニアという巨大なバブルが弾けた衝撃は、震源地であるこの国だけでなく、それを煽ったメルキア経済そのものをも粉砕していた。世界同時不況の始まりだった。
「さあ、選択なさい」
マルクスは冷酷に宣告した。
「98%の税を払って、無一文で泥舟の母国へ帰るか。……それとも、この国に残って、暴徒と化した市民たちに弁明するか」
波止場には、逃げ場を失った銀行家たちの呻き声だけが響いた。マルクスは部下に命じて、木箱に入った金塊を次々と押収させた。
「これらはすべて国庫に入れ、被害者救済の原資とする。……トリックスター(詐欺師)の退場料としては、安いものでしょう」
夜明けの光が差し込む中、マルクスの背中は、正義の味方というよりは、借金取りの帝王のように見えた。だが、その冷徹さだけが、崩壊する国から最後の血の一滴が流出するのを食い止めたのだった。




