表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

221/237

◆第36話「閉ざされた鉄の扉」

 その翌日の王都の空も、皮肉なほどに澄み渡った青空だった。前日に貴族の屋敷を襲った「現物ジャガイモの雪崩」という悲劇(それとも喜劇か?)は、まだ一部の資産家の間の笑い話で済んでいた。「馬鹿な奴らが現物の受け取りを拒否し忘れたらしい」「掃除が大変だ」と。


 しかし、市場のメカニズムは、夜の間に冷徹な計算を終えていた。現物価格がゴミ同然になったという事実は、それを担保にしているすべての金融商品の価値が「ゼロ」であることを意味していたからだ。


 午前九時。王立ジャガイモ証券取引所(旧オペラハウス)の開場を告げる鐘が鳴った。その音は、いつもなら欲望と活気に満ちたファンファーレだったが、今日に限っては、死刑執行の鐘のように重く響いた。


「売りだ! 私の『PPPポテト・ボンド』を売ってくれ! 成行なりゆきでいい!」

「こっちもだ! 『西部開拓ファンド』を全額決済しろ!」


 扉が開くや否や、投資家たちが雪崩れ込んだ。彼らの顔からは、昨夜までの余裕と傲慢さは消え失せ、脂汗と恐怖が張り付いていた。彼らは仲買人の襟首を掴み、金箔の押された美しい証券を突きつけた。


「おい、値がつかないぞ! どうなっている!」

「買い注文がありません! ボードを見てください!」


 仲買人が悲鳴を上げる。黒板には、無数の「売り(Sell)」の文字が並んでいるが、それに対応する「買い(Buy)」の数字は、ただの一つもなかった。空白。完全なる需要の蒸発。


「馬鹿な! 格付けは最高ランクの『トリプルP』だぞ! 銀行が『絶対安全』だと保証したはずだ!」

 初老の貴族が、震える手で証券を振り回した。

「この紙切れ一枚で、城が買えたんだぞ! 昨日は金貨一万枚の価値があったんだ! それが、一夜にして紙屑になるはずがない!」


 仲買人は、憐れむような目で首を振った。

「閣下。その証券の担保は『岩山』と『腐ったイモ』です。……今の市場価値で計算すれば、その紙はインク代にもなりません」


 貴族の手から、証券が滑り落ちた。ヒラヒラと舞う美しい紙片。それは床に落ち、殺到する人々の泥靴に踏みにじられていった。取引所は阿鼻叫喚の地獄と化した。泣き叫ぶ者、呆然と座り込む者、仲買人に殴りかかる者。かつて「富のワルツ」を踊った優雅なホールは、欲望の残骸が散らばる廃墟へと変わり果てていた。



 恐怖は、疫病よりも早く伝染する。取引所でのパニックは、瞬く間に王都中へと広がっていった。最初は「投資家が大損をしたらしい」という他人事のような噂だった。しかし、誰かが気づいてしまったのだ。


「おい……待てよ。あの紙屑になった証券を、一番たくさん持っているのは誰だ?」

「そりゃあ、それを作って売っていた『銀行』だろう」

「……ということは、銀行の金庫の中身も、全部ゴミになったってことか?」


 その推論が囁かれた瞬間、人々の顔色が変わった。投資などしていないパン屋も、堅実な鍛冶屋も、へそくりを貯めていた主婦も、全員が同じ結論に達したからだ。『俺たちの預けた金が、危ない』


 午前十時。王都の金融街「兜通り」に、異様な音が響き始めた。ザッ、ザッ、ザッ……。それは、数千、数万の人々の足音だった。仕事の手を止め、店を放り出し、誰もが銀行の通帳や預かり証を握りしめて、大通りを埋め尽くすように歩いてくる。


 王都最大手、「グランド・ポテト・バンク」の本店前は、すでに暴徒と化した群衆で埋め尽くされていた。


「金を出せ! 俺の金だ!」

「引き出しだ! 全額だ!」

「娘の結婚資金なんだ! 返せ!」


 人々は理性を失っていた。制止しようとする警備員を押しのけ、豪華な回転扉に押し寄せ、ガラス窓を叩く。銀行の中では、行員たちが必死の形相で対応していた。


「お、落ち着いてください! 当行の経営は盤石です! 預金は安全です!」

 支店長がカウンターの上に立ち、声を張り上げた。

「流言飛語に惑わされないでください! 今、解約すれば利息がつきませんよ!」


「利息なんかいるか! 元金さえ戻ればいいんだ!」

 魚屋の男が怒鳴り返した。

「お前らの金庫には、腐ったイモの証券しか入ってないって噂だぞ! 見せてみろ! 金貨があるなら今すぐここに出してみろ!」


 支店長が言葉に詰まる。その沈黙が、群衆の疑念を確信に変えた。


「やっぱりだ! 金がないんだ!」

「早い者勝ちだぞ! あるだけむしり取れ!」


 カウンターが突破された。人々は窓口に殺到し、行員の胸倉を掴んで現金を要求した。最初のうちは、銀行側もなけなしの準備金を出して支払っていた。しかし、それは焼石に水だった。数人が「金貨を受け取ったぞ!」と叫べば、後ろの千人が「俺も!」「私も!」とさらに殺到する。


 そして、正午過ぎ。窓口の行員が、青ざめた顔で奥の金庫室から戻ってきた。彼の手は空っぽだった。彼は支店長に向かって、力なく首を振った。


 終わりだ。


 支店長は、震える手で懐中時計を見た。まだ昼の十二時。営業時間は三時間も残っている。だが、銀行としての命脈は尽きた。彼は涙を流しながら、最後の命令を下した。


「……閉めろ」



 ガシャン、ガシャン、ガシャン……!


 重苦しい金属音が、金融街に響き渡った。それは、銀行が窓口の鉄格子を下ろし、入り口の巨大なシャッターを閉鎖する音だった。


「あっ……!」

 最前列にいた老婆が、閉ざされていく隙間に手を伸ばした。

「待って! あと少しなの! 私の老後の蓄えが……!」


 無慈悲にもシャッターは地面に到達し、老婆の手を拒絶した。轟音とともに、銀行は巨大な鉄の塊へと姿を変えた。


 一瞬の静寂。人々は、目の前の現実が信じられなかった。あんなに立派な建物が、あんなに親切だった行員たちが、自分たちを締め出した。自分たちの財産ごと。


 シャッターには、一枚の羊皮紙が糊付けされた。インクがまだ乾いていない、走り書きの文字。


『本日の業務は終了しました。……資金繰り調整のため、当分の間、休業いたします』


「……ふざけるな」

 誰かが呟いた。

「ふざけるなぁぁぁっ!!」

 絶叫が爆発した。


「開けろ! 泥棒! 人殺し!」

「俺たちの金を返せ! 中にいるのは分かってるんだぞ!」


 男たちはシャッターを蹴り、石を投げつけた。女たちは泣き崩れ、子供たちは怯えて泣き叫んだ。だが、その冷たい鉄の扉は、二度と開くことはなかった。壁の向こう側には、彼らが汗水垂らして稼いだ金があるはずなのに。それは永遠に手の届かない「数字の藻屑」となって消え失せてしまったのだ。


 騒乱の最中、空からは皮肉なほど明るい太陽が照りつけていた。その光の下で、王国の経済という心臓が、ドクン……と最後の鼓動を打ち、そして完全に停止した。後に「暗黒の木曜日」と呼ばれることになる、長い長い悪夢の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ