◆第34話「値段を知らないキャンバス」
王都全体が「イモ・バブル」という熱病に冒され、誰もが血走った目で相場表を見つめていた頃。狂乱の証券取引所から数ブロック離れた「王立中央公園」の一角に、奇妙な静寂に包まれた場所があった。
そこは、かつてはバラ園だった場所だが、今は流行に乗って一面にジャガイモが植えられている。夕暮れ時。白い花弁が、沈みゆく太陽のオレンジ色の光を浴びて、妖艶なグラデーションを描いていた。
その花畑の前に、一台の古びたイーゼルを立てている老人がいた。彼の名はクロード。王都の下町で長く暮らす、売れない風景画家だ。彼は周りで飛び交う「買いだ!」「売りだ!」という怒号など聞こえていないかのように、ただ静かに筆を動かし、目の前の風景をキャンバスに写し取っていた。
「……ふむ。この紫は、もう少し青を混ぜるべきか」
彼が悩んでいるのは、イモの「価格」ではなく、花弁の縁に宿る「光の加減」だけだった。
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そこへ、通りがかりの藤村蓮が足を止めた。連日の激務と、止められないバブルへの無力感で疲弊していた蓮にとって、その老人の背中は、嵐の中の灯台のように見えたのだ。
「……きれいな絵ですね」
蓮が声をかけると、クロードは筆を止めずに答えた。
「ありがとう。だが、難しいねぇ。このジャガイモという花は。とても澄んだ白だが、夕陽に透かすと、泣きたくなるほど寂しい色をする」
蓮はキャンバスを覗き込んだ。そこに描かれているのは、金貨のなる木としてのジャガイモではない。泥に根を張り、風に揺れ、短い命を燃やす「植物としての生命」だった。
「……みんな、この花を『金貨の塊』だと言います。でも、あなたの絵には値段がついていないみたいだ」
「値段?」
クロードは鼻で笑った。
「そりゃあそうさ。わしが描いているのは『光』だ。太陽様は、光の代金を請求してこないだろう?」
その時、公園の通路を、身なりの良い成金紳士が通りかかった。彼はクロードの絵を見るなり、大袈裟に手を叩いた。
「ブラボー! 素晴らしい! 爺さん、その絵を売ってくれ!」
紳士は懐から分厚い財布を取り出した。
「そこに描かれているのは、今もっともホットな『シャドークイーン』じゃないのか? それとも『インカのめざめ』か? いずれにせよ、縁起がいい! 家に飾れば、さらにイモの相場が上がりそうだ! 金貨50枚でどうだ?」
風景画の相場としては破格の金額だ。しかし、クロードは眉一つ動かさなかった。
「断る」
「はあ? 足りないのか? なら100枚だ!」
「金の問題じゃない。……まだ、夕陽が沈みきっていない」
クロードは空を指した。
「今のこの、紫と茜色が溶け合う瞬間を描いているんだ。あんたの金貨で、この太陽を止めることができるのかね?」
「な、なんだと! この貧乏絵描きが! 後悔するぞ!」
紳士は顔を真っ赤にして捨て台詞を吐き、去っていった。クロードは肩をすくめ、再びパレットに向き直った。
「……やれやれ。最近の連中は、モノの『価値』は見ずに『値札』ばかり見たがる」
蓮は、その言葉に胸を突かれた。そうだ。市場にいる連中は、ジャガイモそのものを見ていない。誰も、その味も、花の美しさも、土の匂いも知らない。ただ「いくらで売れるか」という数字だけを見ている。だが、この老画家だけは違った。彼は、この花が明日ゴミ同然の値段になろうとも、今日咲いているこの美しさは変わらないことを知っている。
「……救われましたよ」
蓮はポツリと言った。
「この狂った街で、あなただけが正気だ」
「正気かねぇ? 変わり者と言われるがな」
クロードは筆を置き、目を細めて夕陽を見つめた。
「兄ちゃん。わしは経済のことは分からんがね……。値段なんてものは、人間が勝手につけたラベルだ。だが、この花が美しいという事実は、誰にも奪えない。……嵐が過ぎ去った後、最後に残るのは、そういう『奪えないもの』だけなんじゃないかね」
蓮は深く息を吸い込んだ。土と、絵の具の匂いがした。市場の数字は嘘をつく。でも、このキャンバスの中の風景は、嘘をついていない。
「……ありがとうございます。少し、勇気が出ました」
「そりゃよかった。邪魔が入ったせいで、いい色が作れたよ」
クロードはニヤリと笑い、キャンバスにそっと筆を載せた。それは、バブルの毒々しさではなく、夕日を映した淡い赤紫だった。
バブルが弾け、あの成金紳士が破産して屋敷を追われた時、クロードの絵は、小さな喫茶店の壁に飾られ、傷ついた人々の心を癒すことになる。その絵のタイトルは、『無価値な花』。しかし、それを見る人々の目には、どんな宝石よりも価値あるものとして映っていた。




