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◆第33話「凍土の皇帝と、燃えないバブル」

 ソラニア王国の王都を熱狂の渦に巻き込んだ「ドリーム開墾ローン」。行き場を失ったその莫大なマネーは、国境を越え、かつての敵国ガレリア帝国へも雪崩れ込んでいった。


 話は数ヶ月前に戻って、1月のある日のこと。真冬の帝国にて。鉛色の空から雪が振り注いでいる荒涼とした大地に、場違いに華やかな馬車の一団が降り立った。彼らは、王国の投資銀行から派遣されたエージェントと、それに乗せられた投機家たちだ。彼らは泥だらけのブーツを気にする様子もなく、帝国の痩せた土地を見回し、まるで宝の山を見つけたかのように目を輝かせた。


「素晴らしい! 見渡す限り、何も植えられていない!」

「土地が安い! 王国の十分の一以下だ! ここを買い占めろ!」


 彼らは、帝国の地方領主や地主たちの屋敷に押しかけ、金貨の入った鞄をテーブルに叩きつけた。

「土地を売ってくれ! いや、貸すだけでもいい! 我々が資金を出す。ここで王都で大流行の『紫の女王シャドークイーン』や『黄金インカのめざめ』を作るのだ!」


 戦争に敗れ(形式上は講和だが)、賠償金代わりの関税とインフレに苦しんでいた帝国の貴族たちは動揺した。目の前に積まれた金貨は、彼らの数年分の年収に匹敵する。

「おお……こ、この金があれば、雨漏りする城の修繕ができるぞ」

「背に腹は変えられん。どうせ麦も育たぬ荒れ地だ。王国の連中が言う『宝石イモ』とやらを植えさせてやるか」


 帝国の凍土にも、遅れてきたバブルの熱波が押し寄せようとしていた。王国の狂気が、帝国の農業をも歪めようとしていたその時。帝都から疾走してきた一騎の早馬が、その契約書に「待った」をかけた。


「――皇帝陛下の勅命である! 農地の売買、および作付け品目の決定は、すべて帝都の認可を必要とする! 勝手な契約は反逆罪とみなす!」



 帝都、鉄灰色の重厚な石造りの宮殿。「氷の間」と呼ばれる玉座の間は、その名の通り冷えびえとしていた。そこに座すのは、ガレリア帝国の若き皇帝、ヴィルヘルム。その蒼白い顔には、年齢にそぐわない深い疲労と、鋭い刃物のような警戒心が刻まれていた。


 彼の前には、王国の投資家代表団が平伏していた。

「陛下! なぜ我々の投資を拒まれるのですか! これは帝国にとっても、戦後の復興資金を得る絶好のチャンスですぞ!」

 投資家代表の男が、唾を飛ばして食い下がった。

「ソラニアの王都では今、紫色の花が咲くジャガイモが、金貨と同じ価値で取引されています。帝国の広大な土地でそれを作れば、莫大な外貨になります。民も潤い、陛下への忠誠も高まりましょう!」


 ヴィルヘルム皇帝は、無言で男を見下ろした。その瞳には、金貨の輝きに対する欲望など微塵もなかった。あるのは、底知れぬ「恐怖」と、それゆえの「怒り」だけだ。


「……そなたらは、飢えたことがあるか?」

 皇帝の静かな問いに、投資家は言葉を詰まらせた。

「は、はい?」

「氷点下の塹壕で、凍った黒パンをかじり、それでも腹が満たされずに雪を口に含んだことがあるか? 民が飢えて倒れ、その死体を埋める体力すら残っていない村を見たことがあるか?」


 皇帝は玉座の肘掛けを、指が白くなるほど強く握りしめた。先の戦争。帝国は武器で負けたのではない。「食」で負けたのだ。王国の兵士たちが温かい麺を啜っている時、帝国の兵士たちは飢えに震えていた。その屈辱。そして、講和条約を結ぶ際、食料援助のために頭を下げざるを得なかった惨めさ。それらは、若き皇帝の心に、消えることのない焼きトラウマを残していた。


「我が国は寒い。王国のように温暖ではなく、『救世主』と呼ばれるサツマイモは適しておらん。……我が国の民が冬を越すために頼れるのは、寒さに強い麦と、そして泥だらけのジャガイモだけなのだ」


 皇帝の横に控えていた軍務大臣ゾグが、一歩前に進み出た。彼もまた、前線で「イモの威力」を骨の髄まで味わった男だ。

「商人殿。王国では、イモは『飾るもの』かもしれん。金貨の代わりかもしれん。だが、ここでは『命』だ。民が明日のパンを求めて叫んでいる時に、食えもしない観賞用のイモを植えるなど……それは民に対する裏切りであり、暴動の種を撒く行為だ」


 ゾグは、投資家が持参した『シャドークイーン』の美しい種芋を手に取り、床に叩きつけた。

「こんな毒々しい色の、収穫量の少ないイモなどいらん! 我々が必要なのは、腹にたまるデンプンだ!」


「ひぃっ!」

 投資家たちが悲鳴を上げて縮こまる。


 皇帝は立ち上がり、冷徹な声で宣告した。

「……だが、そなたらの持ってきた『金』は役に立つ」


 皇帝の目が、計算高い光を帯びた。

「許可を出そう。王国の資金を受け入れ、農地を開拓することを認める。……ただし、条件がある」



 皇帝が出した勅令は、王国の投資家たちにとっては悪夢のような、しかし帝国にとっては極めて合理的なものだった。


『一、王国の資金による農地開拓、および灌漑設備の導入を許可する』

『二、ただし、作付けする品種は、寒冷地に強く、収穫量の多い食用種に限定する』

『三、収穫された作物の第一優先権は帝国政府が持ち、配給用として買い上げる』


 投資家たちは猛抗議した。

「そ、そんな……! 多収穫のイモなんて、王都の市場では二束三文です! 我々は『希少価値』のあるイモを作りたいのです!」

「ポンプや水路を作る金は我々が出すのに、できるものが普通のイモでは、投資回収に何年かかると思っているのですか!」


 ゾグ将軍は、腰の剣に手をかけてドスを利かせた。

「嫌なら帰れ。ただし、帝国の土地に一歩でも足を踏み入れた以上、タダで帰れると思うな。……金か、命か。置いていく方を選べ」


 もはや、投資勧誘ではなく脅迫だった。しかし、王国の投資家たちは引けなかった。彼らもまた、王都で集めた「開墾ファンド」の資金を運用しなければならないプレッシャーの中にいたのだ。「とにかく農地を確保しました」という実績がなければ、王都の出資者たちに吊るし上げられる。


「……わ、わかりました。条件を飲みましょう」


 彼らは泣く泣く、契約書にサインをした。こうして、王国のバブルマネーは、帝国の生存戦略のための「インフラ整備資金」へとすり替えられたのである。



 それから5ヶ月。帝国の農村風景は劇変していた。王国の最新鋭の土木魔法技術と、湯水のように投入された資金によって、荒れ地だった平原には整然とした水路が引かれ、巨大な揚水ポンプが稼働していた。


「すげぇ……! 王国の連中は魔法使いか!?」

「これなら、秋ジャガイモの植え付けに間に合いそうだ」

「こんな立派な魔導トラクター、見たことねぇぞ!」


 帝国の農民たちは歓喜していた。彼らにとって、王国の投資家は「よくわからないが、ジャガイモを作るために大金を恵んでくれる奇特な人々」だった。今ある畑には、春ジャガイモの地味な白い花が咲き、土の中では丸々と太ったイモが育っている。それは投機的な価値は低いが、冬の飢えを確実に凌げる「本物の食料」だった。そして、ソラニア・マネーで開拓された新しい農地では、秋ジャガイモの植え付けが大幅に増えることだろう。もちろん食用だ。


 視察に訪れたゾグ将軍は、泥にまみれて働く農民たちを見て、隣にいる部下に囁いた。

「見ろ。王国の連中は、我々を笑うだろう。『時代遅れのイモを作っている』とな。だが、最後に笑うのは我々だ」


 ゾグは、足元の黒土を強く踏みしめた。

「バブルなどという泡は、弾ければ消える。だが、この水路は残る。耕された土地は残る。そして、倉庫に積まれたイモは、確実に民の腹を満たす」


 帝国は貧しく、寒すぎた。サツマイモという「逃げ道(甘え)」がない彼らにとって、ジャガイモをマネーゲームの道具にする余裕など、物理的に存在しなかったのだ。そして、その「貧しさゆえの堅実さ」こそが、やがて訪れる世界的な経済破綻の嵐から、帝国を守る最強の防壁シェルターとなる。


 皮肉なことに、王国の投資家たちが欲望のままにばら撒いた金は、敵国であるガレリア帝国の食料自給率を劇的に改善させ、その国力を盤石なものにするという「人道支援」を、無自覚のうちに成し遂げてしまっていたのである。皇帝ヴィルヘルムは、王都の方角を見つめ、冷ややかに呟いた。

「感謝するぞ、ソラニア。そなたらの狂気が、余の国を救ったのだ」

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