◆第32話「聖なる金貨と、悪魔の利回り」
ソラニア王国の中央大聖堂。普段なら静謐な空気に満ちているはずの司教執務室に、今日は焦燥を含んだ声が響いていた。
「ドミニクス猊下! ご決断ください! これ以上、資産をただ眠らせておくのは『罪』ですぞ!」
大理石の机を叩いて詰め寄っているのは、教会の財務を預かる会計長、パウロ司祭だった。彼は手に、銀行から取り寄せた『PPP』の美しいパンフレットを握りしめている。
大司教ドミニクスは、祭壇を見上げたまま、深くため息をついた。
「……罪、か。信者たちの浄財を、実体のない博打に投じないことが罪だと言うのかね、パウロ」
「博打ではありません! 『運用』です!」
パウロは汗を拭いながら熱弁を振るった。
「猊下もご存じでしょう。昨今の物価高騰は異常です。パンも、冬の薪も、修道服の生地も、去年の三倍の値段になっています。……一方で、信者様からの喜捨(寄付)は増えていません。むしろ、生活が苦しくなった庶民からの寄付は減っています!」
それは痛いほど事実だった。バブルで潤っているのは一部の投資家や貴族だけで、多くの市民はインフレに喘いでいる。教会が運営する孤児院の食費も高騰し、子供たちのスープは日に日に薄くなっていた。
「このまま現金を金庫に入れておけば、その価値はどんどん目減りします。座して死を待つおつもりですか? ……ですが、この『PPP』を買えば! 年利10%、いえ20%の利回りが約束されているのです!」
パウロはパンフレットをドミニクスの目の前に広げた。
「隣の教区では、いち早く運用を始めたおかげで、礼拝堂の屋根を金箔に張り替えたそうです。我々も、神の恵みを増やす努力をすべきではありませんか? それが、孤児たちを救う道ではありませんか?」
ドミニクスの心が揺れた。神に仕える身として、欲望に目が眩むことは恥ずべきことだ。だが、現実問題として、金がなければ慈善事業は続けられない。(……きれいごとでは、子供の腹は満たせないのか)
ドミニクスは震える手で、パンフレットに伸びかけた。
「……確かに、子供たちに腹一杯食べさせてやりたい。そのためなら、私の清貧の誓いなど、泥に捨てても構わんか……」
その時だった。コンコン、と控えめなノックの音がして、一人の老婆が入ってきた。彼女は古びたショールを被り、手には小さな布袋を持っていた。毎朝、一番に祈りに来る敬虔な信者、マリア婆さんだ。
「……猊下。お祈りのついでに、これを」
老婆は、布袋から数枚の銅貨を取り出し、寄付箱に入れようとした。その手は節くれ立ち、泥とアカギレで荒れていた。彼女は小さな畑で野菜を作って暮らしている。
「今年は種芋が高くて大変だけど……神様への感謝は忘れたくないからねぇ」
チャリン……。静かな部屋に、銅貨が落ちる音が響いた。それは金貨のような華やかな音ではない。鈍く、しかし重みのある音だった。彼女は笑顔で一礼し、去っていった。その背中は小さかったが、どんな高位の聖職者よりも気高く見えた。
ドミニクスは、その銅貨を見つめた。泥にまみれ、汗水垂らして働いた末の、なけなしの数枚。彼女の生活そのものだ。
(……この金を、私は今、どこへやろうとしていた?)ドミニクスの脳裏に、銀行家たちの顔が浮かんだ。きらびやかなサロンで、労働を嘲笑い、数字遊びに興じる彼ら。この銅貨を『PPP』に変えるということは、彼女の尊い祈りを、彼らの賭け金のチップに変えるということだ。
「……ならん」
ドミニクスが呟いた。
「は? 猊下、今なんと?」
「ならんと言ったのだ!!」
ドミニクスは立ち上がり、机の上のパンフレットを払い落とした。
「パウロよ、よく聞け! 教会の金は、ただの通貨ではない! 人々の『祈り』と『汗』の結晶だ! それを、汗もかかずに利息だけを啜るような、あの不浄な連中に渡してたまるか!」
「し、しかし猊下! それではインフレに勝てません! 資産が腐ってしまいます!」
「腐るのは金ではない、我々の魂だ!」
ドミニクスは、マリア婆さんが入れた銅貨を握りしめた。
「金が減るなら、私が托鉢に出る! 服が買えないなら、継ぎ接ぎを着ればいい! ……だがな、教会が『濡れ手で粟』の味を覚えたら、我々は二度と貧しき人々の隣に座れなくなるぞ!」
雷のような一喝に、パウロは縮み上がり、そして恥じ入るように俯いた。
「……申し訳、ありません。数字に惑わされ、大切なものを見失っておりました……」
「……分かればいい。あのパンフレットは捨てておけ」
ドミニクスは荒い息を吐きながら、椅子に座り直した。(危なかった……。私もまた、時代の熱に浮かされていたか)
彼は知る由もなかった。この時、彼が「運用しない」という非合理な決断を下したおかげで、教会の資産がバブル崩壊の余波から守られたことを。銀行が潰れ、証券が紙屑になった後、唯一無傷で残った教会の「現金」が、炊き出しの資金となり、数万の市民を餓死から救うことになる未来を。
ドミニクスは再び祭壇を見上げ、祈りを捧げた。
「主よ。我らを試練に合わせず、悪より救い出し給え……。特に、『利回り』という名の悪魔から」
静寂が戻った大聖堂に、どこか安堵したような鐘の音が響き渡った。




