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◆第25話「遠ざかる指輪と、インフレの晩餐」

 王都の宝石店が建ち並ぶ「輝き通り」。かつては恋人たちが夢を語り合ったこの美しい通りは今、殺伐とした「戦場」と化していた。


 ショーウィンドウのガラス越しに、藤村蓮はため息をついた。彼の視線の先には、シンプルな銀の台座に小さなサファイアが嵌め込まれた指輪がある。エリシアの瞳と同じ、深い青色の石だ。先週見たときは、金貨五十枚だった。公務員として軍から支給される給料から、生活費以外の自分の個人的な消費に使える分として貯めている、蓮のヘソクリで十分手が届く値段だった。


 しかし、今日貼り直された値札には、無慈悲な数字が書かれていた。『金貨150枚』


「……3倍かよ」

 蓮は力なく呟いた。店員が出てきて、申し訳なさそうに、しかし事務的に告げる。

「申し訳ありません、お客様。貴金属の相場は、今朝また上がりまして。……買うなら今すぐ決断されることをお勧めします。明日の朝には、200枚になっているかもしれませんので」


 蓮は拳を握りしめた。雇われの立場とはいっても、彼は工場長だ。即席麺の売上は好調で、収入は決して少なくない。だが、それ以上の速度で、物価が――特に宝石や土地といった「資産価値のあるもの」の値段が、ロケットのように高騰しているのだ。稼いでも稼いでも、ゴールが遠ざかっていく。まるで、下りのエスカレーターを全力で駆け上がっているような徒労感。


「……またにします」

 蓮は背を向けた。プロポーズの指輪さえ買えない。その事実は、男としてのプライドをじわじわと削り取った。



 その夜。蓮はエリシアを誘って夕食に出かけた。せめて美味しいものでも食べて、この鬱屈した気分を晴らしたかったのだ。向かったのは、王都でも評判の老舗レストラン『銀の匙』亭。


「いらっしゃいませ。……ですが、メニュー表はあてにしないでくださいね」

 ウェイターが持ってきたメニューは、修正テープ代わりの紙だらけだった。元の値段の上に新しい紙が貼られ、その上にまた紙が貼られ、分厚い層になっている。


「ええと……『子牛のロースト』を」

「すみません、牛肉の仕入れ値が暴騰してまして。今日は鶏肉しかありません」

「じゃあ『季節の野菜サラダ』を」

「農家が野菜を作らずにイモばかり作るので、葉物は品切れです。……『ふかしたサツマイモ』ならありますが」


 結局、テーブルに並んだのは、痩せた鶏肉のソテーと、付け合わせのサツマイモ、そして薄くスライスされたパンだけだった。これで値段は、以前のフルコース並みだ。周りの客も、値段の高さに文句を言いながら、それでも「金貨を持ってるよりマシだ」と言って、急いで食事を詰め込んでいる。優雅な晩餐とは程遠い、ただのカロリー摂取の風景。


 蓮は、硬い鶏肉を切り分けながら、やり場のない怒りを感じていた。

「……ごめん、エリシアさん。もっといい店に連れてきたかったのに」

 こんなはずじゃなかった。経済発展は、人々を豊かにするためにあるはずだ。それなのに、今の王都は、数字上の富が増えれば増えるほど、生活の質が貧しくなっている。


 沈黙が落ちたテーブルで、エリシアがフォークを置いた。

「蓮様」

 彼女は、蓮の手の上に自分の手を重ねた。その指には、指輪はない。

「謝らないでください。……私、知っていますよ。あなたが、お昼休みに宝石店に行っていたこと」


 蓮が顔を上げる。

「見られてたのか……」

「ええ。……買えなくて、悔しかったですか?」

「……ああ。情けないよ。国一番のイモ工場の主が、指輪ひとつ買えないなんて」


 エリシアは首を横に振り、優しく微笑んだ。

「私は、宝石なんていりません」

 彼女は、テーブルの上のサツマイモを指差した。

「このイモだって、あなたが工場で加工すれば、魔法のように美味しくなります。……私が欲しいのは、『値段がついた石』じゃなくて、どんな時でも工夫して、美味しいものを作ってくれる……その『魔法の手』です」


 彼女の手のひらが、蓮の手を温かく包み込む。

「それに、今のこの狂った値段は、本当の価値じゃありません。……いつか、このおかしな熱が冷めた時、あなたが最初に私にプレゼントしてくれるものが、もし道端の花一輪だったとしても……私はそれを、どんなダイヤモンドよりも大切にします」


 蓮の胸に、その言葉は静かに染みわたっていった。そうだ。自分は何を焦っていたのだろう。周りの狂乱に流されて、「高いものを贈らなければ」と見栄を張っていただけではないか。目の前にいるこの女性は、バブルなんかよりもずっと確かで、尊い価値を知っている。


「……ありがとう、エリシアさん」

 蓮は彼女の手を握り返した。

「約束する。いつか必ず、この狂った世界を元に戻して……君に世界一美味しい料理を作るよ」

「ふふ、期待していますわ、シェフ」


 二人は笑い合い、ささやかな食事を続けた。外では、インフレという名の嵐が吹き荒れている。だが、このテーブルの上のキャンドルの灯りだけは、静かに、温かく揺れていた。

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